五
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ラミーナに連れられて移動すると、ほんの二、三十分北東に向かったところに小さな街があった。
すっかり日は暮れあたりは薄暗い。ぽつぽつと酒場の明かりが漏れ出し始め、シエラたちは適当な宿をとってから酒場に向かった。
「……それで、話しとは?」
クラウドは杯を睨みながら、何処か遠い方に意識を向けつつもラミーナに問いかける。道中ラミーナは「詳細は街についてから」の一点張りでこれといって何も語らなかったのだ。
「まず、あなた達がどれほど現状を知っているのかを聞かせて。あたしの話しはそれからよ」
麦酒を軽く煽りながらラミーナはシエラたちを見つめた。ロディーラは全世界共通で酒は二十歳を越えてから。しかしラミーナは美女という部類には入るものの、まだ少しあどけない。シエラは思い切って口を開いた。
「……ていうか、ラミーナっていくつ?」
「十九よ。それがどうかした?」
「ラ、ラミーナさん。お酒は二十歳を過ぎてからじゃ……」
「情報を得るためにはこれくらい必要よ」
ラミーナの年齢を聞いた三人は目を見開いた。俯いていたクラウドも顔を上げ、まじまじとラミーナの顔を見つめている。
「あら、あたしに見惚れちゃったかしら?」
「十九の割りに老けて……」
言いかけたクラウドだが、見事ラミーナの投げた杯がヒットしそのまま言葉を遮られえた。シエラとウエーバーは汗をかきながら鬼の形相のラミーナを盗み見る。
――怖いってほんと!! ていうかクラウド空気読めっつーの。
流石に妙齢の女性に対して些か無礼だ。シエラもラミーナの気持ちはよく分かる。いきなりそんなことを言われれば杯の一つや二つ投げ付けたくもなるというものだ。
「え、えーっと。とりあえず話しを進めますね」
ウエーバーが乾いた笑いを漏らしながら、何とか勧めようと切り出す。咳払いを一つすると、その表情は途端に真剣なものへと変貌した。
「まず、現状。世界規模でいえば、もう時間がありません。聖玉の影響――第一波が一週間前。第二波は今のところ確認されてませんが、何時起こってもおかしくない状況です」
「よく分かってるわね。続けて頂戴」
「シエラとクラウドさんは四日前に。僕は一昨日合流したばかりです。今はフランズを目指して進行中です。そこで適合者を全員揃えるようにと」
「じゃぁ、あたしに啓示した人物と、あなた達が出会った人物は同じってことね」
ウエーバーとラミーナの会話はまるで大人の会議さながらで、シエラはこの緊張感に耐え切れなかった。話の途中で何度も杯に口付け、聞いているフリをしている。別に内容が分からないわけではない。ただ、使われる言葉に堅苦しさを感じてしまうのだ。
「……簡単に言うとさー。時間無いからとっととフランズ行って適合者集めて、聖玉を封印しろってことでしょ?」
「まぁ、そういうことね。ただ、どうもそんな簡単な話しじゃ無くなってきてるのよ」
ラミーナは肩を竦め、シエラを強い眼差しで射抜いた。何か、何かを強く強く訴えようとしているような、そんな瞳。クラウドは周りの人間に注意しながら、低く呻くように呟く。
「こないだの刺客と、それからその他諸々の秘密結社、か」
「……えぇ。最近では“箱舟十字教団”、通称アークと呼ばれる宗教団体の動きが過激化しているわ」
「アーク? なにそれ」
シエラは首を傾げた。聞いた事も無い団体名に疑問符を浮かべていると、ラミーナがどこか困った風に笑う。
「まだ良くは分かっていない集団なのよ。何が目的で動いているのか。ただ、神に対して異常な執着を見せているの」
「ふーん」
杯の縁を人差し指でなぞりながら、シエラが興味無さそうに呟くとクラウドから拳骨が飛んできた。
「いったーい!! 暴力はんたぁい!」
「てめぇが話し聞かねぇからだろ!!」
「だってだって!! そんなよく分からないものになんか一々構ってられないっつーの」
「な……ッ!! お前それでも……」
「しー、しーっ。声が大きいですよ」
ウエーバーに抑えられ、二人は渋々黙り込む。僅かながらも時間を一緒に過ごした事で、シエラは少しだけクラウドのことが分かった。正義感、真っ直ぐ、頑固。そういうような言葉がよく似合う性格なのだ、彼は。
「……まぁ、話を戻すとね。あたし達は騒ぎを起こさず、公に出ることなく旅を進める必要があるってことなのよ」
「了解、です」
シエラが片手を上げてぐいっと杯を飲み干す。
「……そういえば、最近他国でも魔物が頻繁に出現するようになったのか?」
クラウドが遠い目で呟くと、ラミーナが眉間に皺を寄せた。
「いいえ、そんな話しは聞いてないわ。ガイバーではここ数十年魔物の話しは一切上がってないぐらいだもの」
「ディアナもです。十年前に一度だけ貴族クラスが条約締結の調印で訪れた程度です」
「そうか……」
クラウドの声は何処か暗い。ウエーバーとラミーナは怪訝そうな顔していたが、シエラだけはクラウドの考えが分かり、何とも言えない気持ちになる。きっとまだ、あの魔物のことを気にしているのだ。人間に深い怨みを持ち、血走った瞳を向けてきた哀しいあの魔物。クラウドが現れなければシエラは今頃この場にいないはずだ。
「あぁそうだ。魔物で思い出したわ」
「なんですか?」
「すっごい悪い知らせだから、迷ったんだけど。もうこの際だから言っちゃうわね」
ラミーナは古ぼけて埃を被った一冊の太い本を取り出した。そこには醜悪な魔物たちが何体も描かれている。人間を貪る姿もそこにはありシエラは思わず口元を覆った。
「ここ、このページ。貴族クラスが載ってるわね。このうちの七体が先日“消えた”との知らせが入ったの」
「……貴族クラス七体だと!? 上層部は何をしていたんだ……!!」
声を荒げたのはクラウドだった。ナルダンは他国に比べ魔物の出現率が高い。一番に被害を受けるのはその国民だ。クラウドは怒りで拳が震えている。
「消えただなんて穏便じゃないですね。貴族クラスには装置がついていたはずですが?」
「それがねぇ、どうにも誰かが手引きしたみたいなの。その装置の魔術式はあっさり解除され、今は何処へ消えたのか皆目検討もつかないのよ」
「装置って……? ていうか貴族クラスって、魔物の何? 魔物は魔物じゃないの……?」
シエラは話しについていけずちんぷんかんぷんだ。しかも学校ではそんなこと一度も耳にしたことがない。そんなことを知っている彼らは何者なのか。そんな疑問も大きくなっていたが、今は聞くべきときではない。
「あぁ、魔物については情報公開が規制されていますからね」
「あら、そうだったかしら。忘れたわ」
ラミーナとウエーバーは思い出したように頷きあってから沈黙した。互いが知っていることが当たり前だったためか、一般人であるシエラにどこまで話してよいのか迷っているのだ。
「……この際だ。俺から話そう」
「クラウドさん、いいんですか?」
「あぁ。そうだな、まずは階級から話すか。魔物ってのは下から順に下級、中級、上級、貴族クラスに分かれている」
「魔物ってそんな種類あるの?」
「いや、これは種類というよりも区分だ。主に知能、血統、能力で分けられる。現在マヨクワードゥ以外に出られるのは貴族クラスの魔物だけだ」
知らなかった。シエラは目をひん剥いてクラウドの話しに耳を傾けた。魔物がようやく迫害から解放されはじめたという話しは新しい。勿論それが極一部の魔物だけだとは知っていたものの、階級分けされていたのは初耳である。
「……まぁ、そんなわけで魔物にも色々あるわけよ」
「人間にも肌の色、瞳の色など様々な種がいますが、それでも魔物のそれとは比べ物になりませんしね」
ロディーラに住む人間にも様々な種類がいる。肌、瞳、髪など決して皆同じというわけではない。魔物にしたってそうだが、しかし人間は数だけでいうならこの世界で最も多い。いかなる力も数にはかなわない。だから今も尚、数で負ける魔物は迫害を受けているのだ。
「……でも、それって人間の勝手なレールだよね」
シエラは自嘲気味に笑う。一体誰がそんなことを決めたのだろう。争いをするぐらいならば互いに不干渉であれば良いのに。何故それができない仕組みしかないのか。
「シエラの言っていることは最もです。でも、僕たちはそのレールに則らなければ生きていけないんです」
ウエーバーは俯いたままただそれだけ呟いた。いつの間にか空気が重くなっており、ラミーナも無言で杯を煽る。
「……世界って何なんだろうね」
この旅の果てには何があるのか、それはまだ誰にも分からない。リディア達のように世界中を旅して、その先に待つ答えを、自分はどう受け取るのだろう。シエラがそんなことを考えながら杯を眺めていると、突然頭部に衝撃が走った。
「った!?」
「おう、姉ちゃん。気をつけろよー」
ぶつかってきたのはそっちだろうが!!
そう思わず言いそうになったが、相手は泥酔状態の、しかもスキンヘッドに刺青という見るからに柄の悪そうな中年男性だ。喧嘩を吹っかけると後々面倒なのは目に見えている。しかもそれが二人。
「……何あれ」
ぶつかった箇所を押さえながら相手の背中を睨みつけていると、突然その男がこちらを振り返ってきた。
「んだてめぇ! ジロジロ見てんじゃねぇぞ!!」
もう一人の男がシエラに向かって怒号を飛ばし、シエラは大きく舌打ちをした。
「はぁ? 人にぶつかっといて謝らないからでしょ!? あまつさえ逆ギレって何よ。大人なら弁えたら?」
喧嘩腰で言い返すと、火に油を注いだのか男達は鋭い目つきでシエラを睨んできた。それと共に大股でこちらに近づいてくる。
やってしまった。後悔はしていないが反省はしている。先ほどラミーナに騒ぎを起こさないで、とそう言われたばかりだ。
「女だからって調子乗ってんじゃ――」
シエラに向かって殴りかかってきたが、それは喉元につきたてられた刃によって阻まれた。
「調子乗ってるのはあんたらだろ。酒の席での喧嘩は見苦しい。それに男なら、女に手をあげるなんてみっともないぞ」
クラウドはその眼光で相手を睨むと、切っ先をちらつかせた。それだけで男達は竦みあがり、数歩退いた。盛り上がり各々好き勝手飲んでいた酒場も、クラウドが剣を抜いた事により少々静まっている。
「……ちょっと。その物騒なもの仕舞いなさいよ」
ラミーナの呆れたような声でクラウドは渋々鞘に収め、男達を再び睨みつける。
「あーあ、クラウドってば良かったのに」
「俺が良くない。あぁいう輩は見ていて苛立つ」
不機嫌そうに言い返され、シエラは黙り込む。また、助けられた。これで三度目になる。なんだか納得がいかないが、それでも一応感謝はしているので内心で礼を述べておく。
「……っと、そういえば話しの途中だったな」
「あれ、何だっけ?」
「装置だろ、装置。全く、お前が聞いたんだからな」
「すみませーん」
肩を竦めてみせると、クラウドは溜め息を吐いて杯に口をつける。別に溜め息吐かれるようなことではないと想うのだが、それを言うとまた怒られるので黙っておく。
「……さっき、階級について言っただろ。貴族クラスは国外に出れると言っても、その先々で何かあったら責任を取りかねる。だから位置を把握するための監視装置ってのがついてるんだよ」
「えー、一体一体に!? 何それ。魔物にだって行動の自由はあったって……」
「それをまだ、人類の大半は良しとしてないんですよ」
「……よくわかんない」
つまりは魔物は結局人間の下にいる存在で、決して平等でもなければ自由でもないのだ。そしてその貴族クラスの魔物が先日消えた。
「まぁ、問題なのは一体誰が装置を解除したのかってことなのよ。やぁね全く。貴族クラス相手取るなんてことになったら、それなりに面倒よ」
「……人間と違って魔物は魔力値そのものが高いですからね」
魔法とはそもそも魔物が持っていた力だ。それが何らかのきっかけにより、人間も使えるようになった。それが現在魔法と呼ばれているものである。
「にしても、科学力は七大国ってほんとザルよね。ブラドワールの力を欠いてるのは勿体ないわぁ……」
「それはそうですけど……。でも僕は反対です」
ブラドワールはロディーラ一の科学力を持っている。それは建国したその人がその道に秀でた人物だったからとされている。それは他の国にも言えることだ。
「……ねぇ。そろそろ宿戻りたいんだけど」
欠伸をしながら目を擦るシエラにラミーナも「そうね」と頷き、ゆっくりと席を立つ。
「とりあえず、また明日色々整理しましょうか」
「そうですね」
それから代金を払って酒場から出ると、先ほどシエラにぶつかってきた二人組が女性に絡んでいた。
「や、やめてください!!」
「なぁ、ちょっとだけだぜ? 俺たちが奢るしよー」
「そうそう。いいじゃねぇか」
女性の方は心底迷惑そうな顔をしているのだが、男達はそれにすら気づかない。全く、どうしようもない連中だな。そう想っていると、素早くクラウドが動いたのが見えた。
「……あんたたち、いい加減よしたらどうだ?」
底冷えするような声と鋭い瞳に、男達は一瞬にして後ろを振り返る。そしてクラウドの姿を捉えた瞬間、驚き慄き女性から一気に離れていく。
「な、なんでまた……!?」
「そんな肝の小ささでよくそんなデカい態度がとれるもんだな」
スキンヘッドの怯えた声に、クラウドが鼻で笑うと、もう一人の方が声を荒げた。
「んだと!? さっきからガキのくせに舐めたこと言いやがって。俺たちを誰だと想ってやがる!」
「さぁな。一体誰なんだ?」
「お、おい止めろまずいぞ。これ以上は……」
スキンヘッド男の制止も聞かず、男はずかずかとクラウドに近づき短刀を引き抜く。
「俺たちはなぁ、泣く子も黙るアークのメンバーなんだぜ!? そんじょそこらの奴とは違うんだよ!!」
瞬間、クラウドだけではなくウエーバー、そしてラミーナの纏う空気までもが凍りついた。その温度差に男はやっと現状を理解したのか、慌てて自分の口を塞ぐ。
「……そうですか。アークの一員でしたか」
「確か、ディアナでは宗教的集団への加入はきつく制限されてたわよね?」
「はい。まぁ、アークの場合宗教団体かどうかも怪しいですがね。とりあえず貴方達には……」
満面の笑みを浮かべているウエーバーとラミーナ。
「きついお仕置きが必要みたいですね」
しかし次の瞬間、能面の様な笑みをつくったウエーバーがそこにはいた。そして間抜けな男達の悲鳴が闇夜に響くのであった。
翌日、シエラはもぞもぞと寝台から抜け出すと大きく欠伸を漏らした。昨晩あの後ウエーバーは男達を捕縛し身柄を引き渡し、その騒ぎで寝るのが遅くなってしまったのだ。
「……眠い」
「あらおはよう」
後ろを振り向くともう身支度を整えたラミーナが涼しげな顔で立っていた。シエラは「おはよ。早いね」と働かない頭と舌を使う。
「まぁ、ね。それよりも顔洗ってらっしゃい。髪もぐちゃぐちゃよ」
「う~ん……」
くすくすと優雅に笑うラミーナを尻目に、シエラは目を擦りながらのそのそと洗面所に向かって歩く。どうにも頭が重い。別段朝が苦手というわけではないのだが、今朝は本当に気だるい。
「はぁ……。これ、ほんっとヤバイんじゃ?」
一人で顔を洗いながら呟いていると、脳裏をチェイドが掠めた。思い出しただけでも悪寒が走る。あの男は氷のような冷たさの中に、何か黒く重たいものを隠している。そんな気がするのだ。
「……あー、にしても頭痛い」
考えたら余計に頭痛が増した。これ知恵熱でも出るんじゃないか。そう想ったが残念ながら発熱するほど考えたわけでもない。
「ん?」
ふと、鏡に映る自分の姿を確認した。髪の毛を櫛で梳かしながら顔や手、首筋などを見る。いつもと同じだ。何の変わり映えもしない、いつも通りで何の変哲も無い自分だ。それなのに、何故か違和感を感じる。
「……変なの」
まさか自分という存在が二つになってしまったのではないか。そんな下らない錯覚を起こさせるそれは、シエラには全く及びもつかない、得体の知れないものだった。
「や、にしても頭が……」
しかし零れた言葉は何とも緊張感の無いものだった。シエラはもう一度鏡で姿を確認すると、今度は足早に洗面所を離れる。
「ラミーナ、頭痛薬みたいなのって持ってない?」
部屋を見回しながら声をかけるが、姿が見当たらない。先ほどまではいたはずなのだが、一体どこへ行ったやら。そう想っていると、廊下から小さな話し声が聞こえた。
――ウエーバー……? クラウドもいるんだ。
声から察するに何か三人で話しているようだ。シエラはゆっくりとドアに近づきながら聞き耳を立てる。
「……それで、昨日の男たちは?」
「彼らはどうやらアークの中でも下っ端の下っ端。末端の情報しか知らないようです」
「まぁ、重役ならあんな雑魚なはずねぇよな」
どうやら昨日の男達の話しをしているらしい。シエラは重苦しい雰囲気を保った場に出て行くのは気が引けてしまい、そのまま立ち尽くす。
「どうやら今現在、アークは神と魔物について情報を集めているらしく、その中に聖玉のことも含まれているらしいんです」
「ふーん。でも、そんな簡単に情報漏らしてよかったのかしら?」
「いや、きっと漏れても問題ないと判断した情報なんだろう」
「えぇ、クラウドさんの言う通りです。それ以上は魔法で言えないように術式を施してありました」
「なら、まだアークについては見送りってことね」
――えーっと? 何この会議的な。ていうか私思いっきり仲間はずれなんですけどー。まぁ、聞いても分かんないからいいけどさー。
疎外感を感じつつも、仕方ないと肩を竦める。
それにしても、やはり普通ではない。クラウドもウエーバーもラミーナも、そこらへんの人間とは一味違う。民間人では絶対に知りえないような情報を知っていること、それぞれの腕っ節、肝っ玉。どれもシエラとは大きく違う。ウエーバーに至ってはシエラよりも二つ年下だ。それなのに母親のような気遣いや、物凄い強い魔法を使う。末恐ろしいというか、すでに恐ろしい。
――……え、平凡なのって私だけ?
辺りを見回すがいるのは勿論シエラ一人だ。がっくりと肩を落とすと、足元に視線がいく。そして自分に影が差していることに初めて気づいた。恐る恐るゆっくりと視線を後ろに向ける。
「……?」
しかし、そこには何もいない。振り向く瞬間、気配は感じていた。ただ開いていた窓から風が入りカーテンがゆらゆらと揺れているぐらいだ。ドアから離れゆっくりと窓に近づき外を眺めるが、眼下には朝市で賑わいを見せる人々しか映らない。
「勘違い、かなぁ?」
はっきりとシエラを覆った影は、明らかに異形だった。しかしこんな朝早く、しかもこんな街中に魔物が現れることなど考えにくい。否、考えたくも無い。
すると、廊下からラミーナの「また後で」という声が聞こえ、部屋のドアが開く。
「あ、終わったわね」
「……ラミーナ、何か感じない?」
「どうしたのよ急に。もしかして体調悪いの?」
そう言われて先ほどまで感じていた頭痛がすっかりやんでいることに気づく。妙だな、そう想ったがそれ以上は口に出さなかった。
「まぁいいや。とりあえず、いつ出発するの」
「荷物整理して、朝食をとったらよ。フランズまでまだ遠いから」
確かに。シエラは自分の鞄をベッドに持ち上げ乱れた荷物を引っ張り出す。あまり嵩張るものは持っていない。何より鞄も小さいもので必要最低限ものしか入っていない。しかし、整理は小まめにやっておかないと、いざというとき取り出せない。と、まぁラミーナから昨晩注意を受けたのだが。
「……あれ? 魔道具がない」
「あら、どれかしら」
「えーっと、魔力抑えてくれる盾なんだけどさ。……おっかしいなぁ」
昨日確認したときはちゃんとあったはずだ。元々シエラは魔道具は護身用のために常時持っており、魔法が苦手で魔力が有り余ってしまうので重宝している。そのため一つでもなくなるとそれはそれで不便なのだ。
「ま、いっか。どうせ何処でも手に入るやつだし」
首を傾げつつもシエラは鞄の中身を確認していく。不便ではあるが、無くても今は困らないだろう。そう想いそのまま鞄の整理を終えてしまった。
「ラミーナ、何処か近くに魔道具店ない?」
「この街にはなかったと想うわ。そうだ、折角買い換えるなら大きな店で買いなさいよ。性能良いの知ってるわよ」
「う~ん、じゃぁ後で宜しく」
ラミーナは「任せて」と微笑を作ると、シエラの頭を数度撫でてから鞄を引っつかんで部屋を出て行った。何故か触れた部分が温かい。ラミーナが何処か懐かしそうな視線で遠くを見るときがあるのを、シエラは知っている。
出逢ってまだ一晩明けただけだが、近くにいると時間が短くても良く分かるのだ。シエラは鞄をつかみながら、窓の外に広がる空を見る。クラウドは剣に向かうときはどこまでも誠実で真っ直ぐで、そして礼儀などを重んじている。敵だとみなした相手には何処までも冷たく、「お前」や「あんた」から「てめぇ」になる。ウエーバーは時々、ほんの一瞬だが冷えた表情を見せる。瞳の奥に何か抱えていることが表れるが、しかしそれを他人に見せようとはしていない。
「……っと」
こんなことを考えている場合ではなかった。慌てて部屋を出ると、クラウドとウエーバーが階段を下りているところだった。その背中が遠いような、そんな気がするのだ。同じ適合者であるはずなのに、何もかもが違う。
――まぁ、存在が全部同じだったらキモいだけなんだけどね。
想像しただけで笑えてくる。全ての人が同じ意見で同じ考えしか持たなければ、世界は破滅するしかない。全ての人が同じ立場で同じ情報を共有し、同じ時を共にすることなど不可能だ。似通った感覚を持つもの同士ならば、まだいくらか共有できるものもあるだろうが、皆が皆そうではない。それはシエラが一番良く知っている。
この短い人生で何度も想ったことだ。人は人を蔑み、辛い思いを味わうからこそ人に優しくできる。汚い面も沢山持っているし、綺麗な心も沢山ある。
――あーあ、何考えてんだろう。私らしくない。
気づけばよくこんなことばかり考えていた。経験や感情。シエラの中で沢山の出来事が積み重なって、今こんな風に考えるということを習慣になっているのだ。
――本当は、臆病だからなのかもしれないけどね。
階段をゆっくりと下りながら、シエラは古びた宿屋の板を見る。臆病だから、人の心まで知りたがる。人の仕草や挙動まで気になり、機嫌や様子を窺うような小心者になるのだ。
「……はぁ」
一体何を考えているんだ。そう想って悪い考えを払拭しようと溜め息を吐くと、丁度クラウドと視線がかち合う。
「何溜め息吐いてんだよ」
「べっつにー。乙女の悩みはつきな……」
「おはようございますシエラ!」
「え、今のわざと? タイミング良すぎじゃない?」
「気のせいですよー」
朝からにっこりと愛らしい笑顔を浮かべるウエーバーに、シエラは顔を引きつらせながらも「おはよう」と返事をする。
それにしてもなんてタイミング良く遮ってくれるんだ。ウエーバーの後姿を恨みがましく眺めていると、クラウドに背中を押された。
「ぼさっとすんなよ」
「……してないし」
ふて腐れたように言い返すと、宿の扉を開けたウエーバーとラミーナが笑う。何だか一番子供扱いされている。少々癪に障ったというか、納得できない。
「調子狂うなぁ……」
呟いた瞬間、またシエラは違和感を感じた。何かが、確実に少しずつずれ始めている。そんな気がするのに、答えは何処にも見つからない。隣を歩くクラウドでさえ、今は違う人のように思えてしまう。
――やっぱ今日調子悪いのかなぁ。
痛んでいた頭を抑えながらシエラは諦めた。難しく考えたって仕方ない。今は歩く事に集中しよう、と
前を見るとラミーナとウエーバーが地図を片手に何か話している。別に無言が気まずいという訳ではないのだが、何故か口を開いていた。
「ねぇ、クラウド。残りの適合者って、どんな人たちだと想う?」
「……さぁ、な。ただ、全員曲者だろうな」
僅かな逡巡の後、クラウドは考えるように答える。空を眺めながらゆっくりと、流れに身を任せるように。
思わずシエラは泣きそうになる。その横顔に既視感を覚えたからだ。いつ何処でなんて全く分からないけれど、それでも見た事がある、そう想うのだ。
「どうした?」
「なんでもない」
ゆっくりと鼻を啜りながら首を横に振る。泣く必要なんてない。寧ろ泣いたら困らせてしまう。シエラは真っ直ぐ前を見据えた。
「でも、あのアンって人たちって一体何者なんだろうね。あと、チェイド……さんも」
一応「さん」付けをしたが、その瞬間クラウドはあからさまに不機嫌になった。散々かき乱されておちょくられたのだ。誰だっていい気はしない。
「あいつらはいずれまた逢うだろうな。その時は、必ず叩きのめす。勿論あの野郎も」
鋭い眼差しは虚空に浮かぶ幻影を捉えているのだろう、気づけばとても厳しいものに変わっていた。街の景色がゆっくりと変わっていく。どうやらもう随分町外れにまできたようだ。シエラは空を見上げ、大きく深呼吸した。
――その時はきっと、私も……。
ぎしり。また、音を立てて心が軋んだ。シエラは口を真一文字に結び胸を押さえる。分からないこの痛みの意味も、いつか分かる日が来るのだろうか。
「……二人とも、置いていきますよ!」
前方から中性的な声が響く。ウエーバーの声に導かれるように、二人は小さく笑った。
「うん、今行く!」
シエラは一歩一歩を踏みしめるように、ウエーバーとラミーナの元に向かって走り出す。
――いつかきっと、分かる日はくるんだ。
上手く言葉にできないけれど。シエラは予感に似たものを感じながら、今は前だけを見た。