三
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また、夢を見た。
シエラは深い水面に映る自分の姿を足蹴にした。波紋が広がり辺りを静寂が包み込む。先ほども同じ夢を見ていた気がする。
「……っていうか、何なの」
苛立ちの混じった声で呟くと、それに呼応して水面に映る自分が変わる。否、変わるというよりも、感情がそのまま表れているのだ。
――全く、冗談じゃない。
こんな長時間、しかも夢の中までも自分の姿を見るだなんて御免だ。自分大好き、ナルシスト人間ではない。そう想っているが、夢に出るということはそうでもないのかもしれない。
――うっわぁ、それヤだな。
ばしゃばしゃと激しく足を動かすと、波紋が大きく広がっていく。それを追いかけるように走り出すと、段々心が落ち着いてきた。
この旅がはじまってまだ四日前後だ。クラウドとウエーバーは、いくら同じ適合者といっても出会ってからまだほんの僅かしか経っていない。それなのに、魔法学校にいた時よりも呼吸がしやすい。そう感じる。あの陰湿で自分至上主義な連中と同じ場所にいると思うと、今でも鳥肌がたつ。
「あんなバカども――!!」
夢の中でぐらい叫んだって罰は当たらないだろう。それにこの空間には自分一人だ。そう想っていたが、どうやら違ったらしい。
「……騒々しい」
小さな足音と共に聞こえた声に、シエラは思わず息を呑む。なんでここに。そう言いたかったが言葉にならなかった。
「全く、何故貴様などと同調したのか分からぬ」
額の不思議な紋章、漆黒の髪。間違いなくその人は――アン=ローゼンだった。シエラは驚きのあまり反応できなかったが、アンはとてもゆったりとした歩調で歩いてくる。
「な、なんで……」
「何故、だと? そんなこと私が聞きたい」
そんなアンの様子を見て、シエラは不思議に思った。
表情は人形のように変化を見せないのに、声の調子でその時の機嫌や感情はよく分かる。そのせいでちぐはぐな印象を受けるのだ。
「……貴様、名をなんと言ったか」
「え?」
思わず聞き返してしまうと、アンは今度はあからさまに嫌そうな――というか思いっきり眉間に皺を寄せられた。
「だから、名はなんだと言っている」
しかも声を荒げた。
シエラはあまりの驚きで暫しアンの顔を見つめてしまう。大分印象が違う。こんな風に声を荒げる事は絶対にしないタイプだと想っていた。
「……聞こえてないのか?」
「あ、えーっと! シエラ! シエラ=ロベラッティ」
慌てて答えると、アンは「そうか」と呟いた。どうやら満足してくれたようだ。そんなことに安堵していると、何だか突っ込まずにはいられなくなってきた。
「あのさ、なんかキャラ違くない?」
「なんだそれは? 私は至って普通だ」
どうやら無自覚らしい。相手にするだけ面倒だな、とそう想いアンに背を向けて歩き出す。
「……何処に行くというのだ」
「は? 別に関係ないじゃん。っていうか敵なんでしょ」
シエラは溜め息を吐くと、アンを真っ直ぐに見つめて笑った。シエラにも分からなかった。何故この状況で笑えたのか。夢の中だからと高を括ったのか、それさえも分からない。
「……貴様は宝玉に何故選ばれた?」
「何言ってんの。ていうか、その“ラヴォール”って何なの?」
苛立ちの混じった声が出てしまった。こんなつもりではなかったのに。もっと上手く立ち振る舞えると想っていたのだが、どうやら自分を高く見積もりすぎたようだ。
――大体、こんな呑気に話してていいのかな。
そんな考えも過ぎりだし、シエラはこの夢が早くさめてしまえばいいのに、と想った。
「分からぬか。貴様の身体にあるそれのことだ」
「……宝玉のこと?」
どくんと脈打つ自身の心臓の辺りに手を添える。シエラの身体と一体化しているそれの存在。聖玉を唯一封印しコントロールできる、いわば制御器具ともいえる。
「貴様のような存在を、何故ラヴォールは……」
「知らないわよ! 寧ろこっちが聞きたいのに!!」
何故いきなりそんな事を言われなければならないのか。シエラにとって宝玉は忌々しい存在と言ってもいい。確かに優しいファウナ王女や両親を守れるのならと思っている。
けれど、それでもツヴァイや他の生徒たちは大嫌いだし赦しがたい。そんな心の傷を抉られたようで、ついカッとなってしまった。少し冷静さを取り戻したシエラはバツが悪そうに顔を俯かせる。
「どうやら、貴様は少し違うらしい」
「……何が?」
アンの呟きに眉間に皺を寄せる。一体何がしたいのか分からないのだ。シエラはアンの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「一つ問おう。人とは、生物とは……何故死ぬと想う?」
「何をいきなり。そんなこと決まってるからでしょ」
「そうだ、決まっている。人は神や魔物に比べて酷く脆弱で、すぐに死ぬ。……それは何故だ?」
淡々と紡がれる言葉を、シエラは測りかねた。何の目的でこんなことを聞くのか全く分からない。それにいきなり訊ねられて答えられるほど簡単な問題でもない。
――そもそも、考えた事ないし。
小難しいことは自分には分からないと割り切ってきた。出来ないものは出来ないし、分からないものは分からない。ただ、それだけだ。
「……なんで、そんなこと私に聞くの?」
「分からぬ。……貴様は、私の周りにはいなかった人間だからかもしれぬ」
アンはそっと目を伏せた。
生まれてこの方、見てきた人間は沢山いる。何かを諦めた瞳をしている者も数多くいた。けれど、シエラの輝きはそれのどれにもあてはまらない、そう想った。
「……人とは、分からぬ」
「はぁ? 私個人としては、あなたが一番分からないけどなぁ」
シエラは首を傾げる。
こんなに饒舌な人間だとは想わなかった。もっと無口で、もっと感情に乏しいと想っていた。けれど、それは勘違いだったらしい。
――でも確かに、分からない事だらけだ。
目の前にいるアンも、自分の役割も、世界の決まりも、歴史も、人も、魔物も、神も。シエラの知らないことが多すぎる。勉強不足だというのは確かな事実だが、何か大きな幕に隠されてしまっている気がするのだ。
「……貴様とは、いずれまた見える」
アンが呟くと共に、水面が揺れだす。アンの身体がまるで幻のように空気に溶け出しシエラの視界が暗転した。
「それまでに……」
最後の方は音として聞こえなかった。全てが深く沈みこみ感覚が消えてしまう。何もかも、思念さえも消えていく。
嫌悪感も感じない。
意識も段々遠のいているのだと認識した時には、目の前に見慣れない天井が広がっていた。
ゆっくりと身体を起こし部屋を見回す。ウエーバーもクラウドも眠っているようだ。シエラは二人を起こさないようにそっと起き上がると、戸口に歩み寄る。
夢を見ていたのは分かる。しかし、あのアンと自分が普通に会話を行っていたことがにわかには信じられないのだ。覚束ない足取りで外に出ると、辺りは鬱蒼と茂った草木により光りが差していない。それに気分も優れない。
――……ていうか、私どれぐらい寝てたんだろう。
空を仰いで太陽を探すけれど、西に傾いたそれは日付までは教えてくれない。
――あぁ、もうワケ分かんない。
シエラの疑問が強くなった瞬間、どくんと鼓動が大きくはねた。宝玉の存在がよりシエラに、世界に顕現する。
まずい。
そう想ったときには遅く、シエラの身体から眩い光が爆発した。あまりに突然のことで声すら出せなかった。収まった頃には辺りの景色ががらりと変わってしまっていた。
「……何、これ」
先ほどまで鬱蒼と茂っていた草木が美しい花を咲かせ、しなだれていた葉はみずみずしい姿になっている。陽光が差し込み、まるできちんと手入れのされている庭園に様変わりだ。
「……宝玉って、何?」
ただ単純に、恐ろしかった。自分が持つものが、魔法ですらなしえないようなことができる。震える身体をきつく抱きしめて、目の前に広がる景色を見つめた。
すると、後ろから慌てたように二人の声が聞こえた。恐らく先ほどの閃光で目覚めてしまったのだろう。シエラはゆっくりと小屋に戻る。案の定、中では慌てた様子のクラウドとウエーバーがいた。
「……無事だったか」
「起きたらシエラがいなくてびっくりしましたよ」
安堵の溜め息を漏らす二人に、シエラは無理矢理笑ってみせる。知られてはいけない、そう本能が警鐘を打ち鳴らす。こんな恐ろしい力だと知らなかった。否、知らされていなかった。
――まだ、きっと秘密があるんだ。
二千年前に一体何があったのか。リディアは何故宝玉を使い聖玉を封印したのか。シエラが疑問に思い続けたことと、何か関係があるのかもしれない。
――……それに、アンたちのことも気になるし。
アンたちは知っているのだろうか、この宝玉の力を。もし知った上で利用しようとしているなら、それは本当に危険なことだ。
「シエラ……? どうしたんですか」
「え?」
「さっきから黙って。もしかしてまだ具合が……」
首を傾げて上目遣いでシエラを見つめるウエーバーに、大きく首を横に振る。
「違う、違うの! ただ、その……お腹、空いちゃってさぁー、ハハハ」
我ながら無理矢理な言い訳だとも想ったが、どうやら納得してくれたらしく、鞄を漁ると何か出してくれた。
「すみません、今はこれしか……」
「……え、そんなゴメン。ていうか、それ結構ちゃんとしたご飯だし」
ウエーバーがシエラに渡したのは、クロボナというディアナの家庭料理だ。ペースト状にした米で肉と野菜を包み、それを保存性に長けたクロボルンの葉に包み蒸す。そうすることで腐りやすい肉なども軽く一週間は持つ。
「一昨日僕が作ったんですけど」
「……い、頂きます」
顔を赤らめたウエーバーにシエラはにやけを抑えるように口元を隠し、ありがたく受け取った。一口食べると口腔いっぱいに味が広がる。初めて食べたそれはとても優しい舌触りだった。クロボナの味つけはどちらかというと薄味で、シエラは母リアンの顔を思い出した。自然と笑みが漏れる。しかし、クラウドとウエーバーはぎょっとしたような顔になった。
「なんで泣いてんだよ」
「……泣いてないし」
そう言って目尻を触ると、見事に濡れていた。笑ったはずだった。しかし泣いていても心は温かく、それでいて虚しい。
「……なんか、ウエーバーってお母さんみたい」
「嬉しくないです」
あまりにもきっぱりと言われて、シエラは声を上げて笑った。拗ねたように頬を膨らましているウエーバーは誰がみたって可愛らしい。シエラはクロボナを食べる。ほんのすこしだけ、大嫌いだった昔を優しく思い出せた。
――ツヴァイ、今頃何してんのかなー。
大好きで大嫌いな幼馴染の顔は、何故か靄がかかって上手く思い出せない。きっと今のシエラを見たら目を疑うだろう。まだ適合者として旅に出てからそれほど経っていない。
しかしシエラは大きく変わった。特に内面だ。前は他の適合者にすら深い関わりを持ちたくないと想っていた。それなのに、今はとても打ち解けている。クラウドとの劇的ともいえる出会い。シエラの周囲は僅かな時間でめまぐるしく変わった。これほどまでに密度の濃い、激動する環境は初めてでもあう。それら沢山の要素から、シエラは少しずつ変わっている。
「……ごちそうさまでした」
クロボナを食べ終え、シエラは両手を合わせた。その様子をとても嬉しそうにウエーバーが見ており、シエラは抱きつきたくなる衝動を堪える。
――なにこの可愛い生物は!! あぁもうぎゅってしたい!
しかし年下とはいえウエーバーは男の子。そして自分は女だ。この状況でそんな恥ずかしいことなど出来ない。
和やかな気持ちでシエラが笑っていると、ふいに禍々しい気配を感じた。深くて暗い、底の見えない強大な禍々しさが、こちらに近寄ってきている。心臓の鼓動が早まっていく。
「シエラ?」
ウエーバーとクラウドが心配そうにシエラの顔を覗き込む。伝えなければと思うのに、うまく声が出ない。シエラはゆっくりと、小屋の扉を指差した。