桜舞う混色の空で
「どうでもよいと言っていた」
「何を……でございますか」
「嫁入りの順序など、長兄であるかどうかなど、そなたや守夏の立場など、何もかもどうでもいいことだと言っていた。このように騒ぎ立てることもない些細なことだと」
さっと冬の氷の香りを残した初春の風が本殿を駆け抜ける。
天蓋から下がる簪のような華鬘が風に誘われて寒々しい音を響かせた。
「分社を増やすことこそ、稲荷神の役目であろうと言ってのけた。他者の顔に泥を塗ってまですることかと怒鳴れば、遠い先の方を呆けて見てもう何も言わない」
『豊山』の手が震えはじめ、彼は自分の心を納めようと逆の手で手をぎゅっと押さえた。
「そなたの言う通り、あのような心の在り方を示すようになった朱秦の元へ時雨を戻す訳には行かない」
咲夜は震える手に己の手を重ねてぎゅっと握り締めた。
正しくあろうとする兄を傷つけたのは自分なのだと思うと胸が痛む。
「ずっと何か理由があろうと思っていたが、朱秦は堕落し己の立場を見失ったのだ」
『豊山』は深く項垂れながら咲夜の手へ視線を落とす。
「総本山の意志を汲み、私の下した決断は今後一切『豊山』のもの、我が『豊山』分社末社に至るまで『紅葉山』に嫁入りを禁じる。天下二分の計と言えばいいか。私は朱秦を孤立させることで罪を贖わせる。朱秦は千年、万年先に己の愚かさに気づく日も来るだろう。その時まで孤独で在り続ければいい。それが罰だ」
咲夜は胸をかけめぐる思いを悟られまいと心の底へ封印するようにして兄の手をぎゅっと握り締めた。
千年・万年をかけて咲夜は生きなければならない。
それが──己に課せられた宿命だ。
「私はお兄様のお側におります。お兄様の指示に従います」
『豊山』は二度頷き咲夜の髪を撫でた。
守夏は哀しみを分け合う二柱を黙って見つめていたが、視線を膝に揃えた己の手の甲へ向けた。
季節を巡り、うっすらとかき傷のようにしか残っていないが『葵山事変』の折に『紅葉山』から受けた傷が映っている。
『紅葉山』を実力で処断することができるのは、恐らく『豊山』だけだろう。
だが守夏はいつか必ず自分の手で、多くの屈辱と哀しみと失望を与えた『紅葉山』を切らねばならないと思う。
『豊山』は『葵山』侍従らを処断した方法をとらずに、飼い殺しをする選択肢で妥協した。だがそれはいつか必ず災いとして、豊山へ降りかかってくるに違いない。
『紅葉山』という稲荷神は、どのように深く愛して心血を注いだ相手であっても、塵のようにあしらい捨て去るものなのだから。
──だが二度それに遭遇することがあったら、その時は絶対に負けない。
心に決めていつかやってくる『紅葉山』処断の好機のために、その役目を誰よりも己が遂行するためだけに、力を蓄えなければならない。
『豊山』と、亡き兄浮冬のためにも。
「さぁ、今はもう終わったことを考えるのはやめとしよう。稲荷の世を支えるべき新しき豊山の未来を、より綿密に采配していかねばならない」
『豊山』の言葉に守夏も一区切りつける思いでゆっくりと手の甲の傷を袖で覆い、頭を垂れる。
咲夜はそれから数日の内吉日に『豊山』分社を授かった。
茂野への叙任が内定となると、咲夜付きにされていた支倉は役目を解かれた。御前試合での敗退を思えば抗議もできず、黙って奥の院から姿を消した。
咲夜が『豊山』分社の『適兎山』を分社すると、奥の院は主を別の女稲荷へと変えた。咲夜も『葵山事変』から十年の年を経てようやく己の山へ帰山する運びとなる。
ひとの子の信仰が続く限り、無限の時間を持つ稲荷神にとって、十年など大した時間ではないのかもしれない。
だが咲夜には己の在り方を突き詰められ、愛するものを失い、そして得ることができた忘れられない十年間となった。
『豊山』も他山の稲荷神を十年もの間預かることはこの先も一度としてない。長い咲夜の逗留は「『豊山』の一番のお気に入り」と認識されるようになる。『葵山』もその認識を否定することはなかった。




