榛色から桜色へ
記録に残る松緒の嫁入りは、とても質素なものであったが『葵山』側近である松緒が『豊山』の山ノ狐に嫁入りする話は、『葵山事変』での茂野の英雄譚に花をもたらすことにもなった。
『葵山』と『豊山』の関係の結びつきを確固たるものにしたと言ってもいい。
祝いの席に元『葵山』侍従の二柱が呼ばれることはなかったが、嫁入りの報告をすることだけは許された。
松緒も茂野もそのたった一度の機会に櫻花・吉水との会話を賭けていた。
総本山上ノ社の清滝殿と呼ばれる座敷に、それぞれ兄弟は蟄居している。
杉並木を切り分け、天へ伸びる石段踏みしめ登る。
松緒は慣れ親しんだ道であるが、茂野はこうして総本山に足を踏み入れるのは初めてのことだった。
この総本山より全てがはじまり数々の稲荷兄弟、侍従らをはじめとする基礎が築かれたのだが、山は静寂に満ち豊山のような活気は感じられない。ただ静寂の中で光が折り重なり深いひとの子の信仰の厚さを感じさせた。
ひとの子にとっても神域であろうが、茂野たち外様の稲荷山のものにとってもまた神域であるのだ。
都のような賑わいや往来など、むしろあるわけがない。
「古く──茂野様が生まれるずっと前に私はここで咲夜様と暮らしておりました」
「懐かしゅうございますか」
「えぇ、それはもう。でもまことにここだけは変わらない。変えてはならないという意識が強く影響されているように思います。不可侵であり、神である我々にとってのさらなる上の層にあるものと言えばよいでしょうか……」
「『葵山』や『大豊山』の母上様のことですか」
「そうです。我々では目で捉えることができない御方です」
「え? そう──なのですか?」
はじめて聞く話だった。
それ以上に茂野は至上・原点たる総本山に対して、一切の疑問や追求をすることがなかった。
総本山というものはこうして訪れることもないとしても、存在して当然という認識であった。
「何も特別なことではないと思います。茂野家の開祖をもう見ることができないのと同じことです」
松緒は茂野家に嫁入りし、一ノ輪茂野邸の奥黒戸の間にある霊廟で豊山の流儀に従った先祖への嫁入りの報告をした。
榊を用いる葵山とは作法が異なり、香をたて一門の先祖に報告をした。
茂野開祖は『豊山』と共に山へ入った浮冬が連れて来た山ノ狐であるという。
松緒が一代で生きてきた間に、茂野家は五十五代目の当主を迎えるに至っている。当然肉体は滅び塵となり茂野家の開祖は黒檀の牌だけが廟に残っているだけだ。
「茂野一門の開祖はたしかにすでに亡く目には見えませんが……しかし総本山の母上様は亡くなっているわけではないのでは?」
もしそんなことになっているのなら、今も『総本山』分社と呼ばれる兄弟たちが生まれ続けていることに齟齬がおきてしまう。
「えぇ。もちろん母上は確かに居られます。でも見ることはできません。触れることも、温もりを感じることすらも。それは亡くなっているのと同じともとれるでしょう? ひとの子が我らを視覚的に感知できないのと同じように、母上を我らが視ることはできないのです。それを──誰よりも疎んだ方がおられたのです」
「どなたですか?」
「咲夜様のお父上『雪沙灘』千里朱雀様です」
「稲荷の世開闢の頃…ほどなくして逝去されたと聞きます」
「いいえ」
松緒は暑さを吹き飛ばすようにはっきりと否定した。
「表向きは伏せられていることですが『雪沙灘』様は生きておられます」
蝉の鳴く声が煩い。茂野は松緒の告白に対して足を止めた。
まだ『葵山』が豊山へ来てすぐの頃だったか。茂野も座敷に上がることを許されていたか、いなかったかの頃だ。
同じく咲夜付きに命じられた支倉が、咲夜へ『雪沙灘』の話を振ったことがあった。
その時茂野は咲夜の小さな呟きを確かに聞いていた。
すでに逝去したと言われているのに、咲夜はまだ生きていると言っていたのだ。
──そうですね。でも……妾にはなんとなく分かるのです。父上は消えてはいません…──
「生きておられるのならば、どちらにおいでなのですか?」
「未来に」
「み…らい?」




