榛色から黒へ
茂野は支倉の動きなどつゆ知らず、松緒の元に日々通い続けていた。
咲夜の話を聞きたいと求められ、共に葵山で暮らした日々の話をする。
そのお返しとばかりに、咲夜の身の上の報告をする。
それだけで求婚に関する要求も話も一切ない。
いつからか、一ノ輪と三ノ輪で切り離されてしまった咲夜との距離が、茂野を通して戻ってきたような思いを得るようになった。
それでもその感覚は、冬から春を迎え、控えめながらも豊山で咲き誇る山桜を見ての郷愁によるものだと思っていたが、咲夜が時雨を『豊山』に認めさせたこと、日々強い姉、母になろうとしていること。なにより『豊山』と勧請の儀式を果たすために関係を築くことに努力していることを思うと、その思いを支え成功させたのは他ならぬ茂野であることは認めざる得なかった。
自分たち『葵山』のものたちは、咲夜に責任だけを押し付けて、生きる事を押し付けて後の事は何もしてやれていない。
これが罰ならば、茂野は救いだ。
松緒も前に進む気持ちを新たにすることになる。
季節はゆるりと流れだし、春から夏の暑さに籐筵を敷きはじめる。
青簾にすげ替えた豊楽殿は、涼しげな風を吹き込ませた。夏を迎えたばかりだと言うのに噴き出す汗を押さえようと、『豊山』は花氷を手配して配下一同に振る舞った。
豊楽殿にも床の間に涼を飾ったし、屋敷の離れにある泉殿や滝殿への通いが多くなる。
山を巡る警邏のものたちも、片手に尺を持ち打ち水をして回っていた。夏の風物詩ともいえるだろう。
その警邏たちの巡回する声を遠くに聞きながら、松緒は美雪と水盤で花を生けていた。
部屋は湿気を払う蒼朮を焼きその香りもまた夏を思わせる。
「御前試合の話──伺いました。兄の吉水が侍従候補お二方を計るとか……茂野様も試合に臨まれると……」
私邸で育てた紫陽花を持ち上げた手を美雪は上げたまま止めてしまう。
茂野からの求婚があってから季節が変わったが、茂野の話を振られたのはこれが初めてのことだった。
一体どうなるのかと気にしない素振りをしながらも、気を揉んでいた美雪としては願ってもない話の振りだ。
「えぇ、茂野様は直接先代に認めてもらえる好機だと仰っておりました。櫻花様は総本山におられるということですが吉水様だけ特別に……久照に聞いた話では、『大江山』鬼嶽様の厳しい監視の下、咲夜様との顔合わせも会話も許されないとのことです」
美雪は兄に会いたがっていると考えたのか、身を乗り出し松緒を覗き込んだ。
「久照に願い出て、松緒様も御前試合を拝覧させて頂けるように『大豊山』にお願いしましょうか」
「いえ、よいのです。あらぬ疑いをかけられても困ります。私が心配しているのは──」
花鋏が紫陽花の固い枝を音を立てて分断する。
玉鋼の涼しげな音が、屋敷の外まで響く。
御前試合を望んだのは吉水だと聞いている。彼の本意は何だろう。
官位を失っても力在る存在であることを示して、生きながらえるための演技芝居の場にするつもりだろうか。
気が強く、情欲の面でも咲夜を愛している兄のことだ、次代の侍従を見定めるなどというつもりは、恐らくないはずだ。
吉水は本心から『葵山』侍従は自分以外あり得ない。百歩譲っても兄である櫻花しか許さないという考えの持ち主だ。
その気になったら候補となるもの全てを地に転がすことも考えられる。試合なのだから殺生には及ばぬように計らわれているかもしれないが、腕の一二本折って使い物にならないようにするくらいはしかねない。
「茂野様が……気がかり……で」
思いもよらない言葉に美雪は頬を上げた。
兄と茂野を天秤にかけていたのだ。
「心配無用でございます。茂野様は貴方様をあの山からお救い下さった方ではありませんか。考えてみれば御二人のご縁はあの時からきつく結ばれていたのです」
松緒は花器に紫陽花を飾ると、少し離して全体を眺めた。
美雪も同じように小さな山のようになって飾られる紫陽花を見つめる。
松緒の心の行き先は美雪には分からない。固く閉ざし、ただ事の動きを見守っているように見える。
だが松緒はそんな頑なな心をほどくようにして、美雪の方へ視線をやった。
「美雪様……私は確かに兄に会いとうございます。茂野様もそれを望んでおりました。そのために私を嫁にと言って下さったのです」
「『葵山』侍従の方々に会うため……に?」




