無色から黒へ
「それで山ノ狐が美雪様に何の用で」
「久照様に陰陽術の手ほどきを頂きたく、お願いに上がりました」
村上が率直に告げたが、それは茂野には愚直に映ったようだった。
表情がさっと曇り、明確な敵意を投げられた。
「『紅葉山』のものは出過ぎたことをするな。『葵山』に向けた侮辱を知らぬ顔で願い出ようというのであれば、厚かましいもほどがある」
「私は亡き『豊山一ノ輪麓』浮冬様に、生まれ故郷を売った見返りを頂く約束をしておりますが、それを反故になさると仰るのですか?」
「浮冬様に……?」
「あなた方が堅固たる『紅葉山』の守りを破り『葵山』を救い出せたのは、この私の采配があってこそでございますよ」
茂野が神妙な顔をしてみせるが、村上は続けた。
「口約束は果たさないということでしょうか。『紅葉山』も畏れいる卑怯振りございますね」
「その目は──捨ておけぬ目だ」
茂野は村上の顔を掴むと、まるで品定めをするようにして村上を睨め回した。
顎を強く押さえつけられ村上は減らず口を叩くことはできずに茂野を睨み付けた。
「久照様は今、亡き浮冬様らの代行をお勤めで弟子を取る余裕などない。時期状況を見る目を持つべきだぞ、小僧」
言って突き放そうとするが、村上は捕まれた手を逆に掴み返した。
「では茂野様にご教示頂くのでも構いません」
「私は今大事な責務を負っていて、そなたと遊んでいる暇などない」
「遊びではございません!」
「子供の相手をしてやる義理はない。美雪殿、以降は目通りされずに突き返すように家中のものに話を通すがよろしいかと」
「まぁでも、村上は時雨様のよい遊び相手ですよ。ほらこのように」
時雨は村上に向け手を伸ばして手を上下させている。
火花散る沸騰した空気の中で、差し水を入れられたように茂野も村上も表情が緩んだ。
「村上のことを、時雨様は気に入っておられるようね」
村上が人差し指をやると、時雨がその指を掴みそれは楽しそうに上下させてみせた。
きゃっきゃと時雨が楽しそうに笑うので、茂野は怒る気持ちも萎えてしまった。
「時雨様も『葵山』や松緒殿の元から離れ見知ったものがいないのが寂しいのでしょうね。このままどこぞへ分社となるかもしれぬと聞きました。『大紅葉山』の側に置くことはなりませんから、せめてもう少し『葵山』のお側にいたかったでしょうね」
村上は優しく時雨の面倒を見る美雪の横顔を見つめ、『葵山』の顔を思い浮かべた。
『紅葉山』で村上は『葵山』を守っていた。
守っていた、と言っても身辺の世話や警護を受けていただけだ。
まともな会話をした覚えもない。
言葉を交わす身分でもなかった。
だが、分社の時雨を大事そうに抱える横顔は後悔と涙以上に──慈愛に満ちていた。
『紅葉山』は『葵山』を守りたいと村上に告げた。
侍従である守夏にも明かさなかなかったこの分社の真実を、山ノ狐としてはたった一柱知ることになった。
『紅葉山』より、何を期待されているのかも分かっている。
時雨を守るのだ。
主が全ての名誉と誇りを賭けて守ったこの小さな分社。
私がお守りいたします、時雨様。
心の中で、村上は時雨にそう誓った。
だが、そんな村上の気持ちなど素知らぬふりで、時雨は掴んでいた村上の指を思い切りかじった。
まことに『紅葉山』分社時雨は癖が悪い赤子であった。
「あ、痛……」
「だが『紅葉山』分社をお守りするのと、陰陽術をたしなむのは別の話だ」
「何度でもお願いに参ります。覚悟のほどを知りたいのであれば、この門前で座して許し得るまで待つも厭いません」
「そんなことをしては体に毒ですよ村上。私から久照に話をしておきますから」
美雪が間を取ろうとしたが茂野が袖を上げた。
「いいえ美雪様。こういった阿呆は叩き返せば二度はありません」
さっとたすき掛けをすると、皮の手甲の輪郭が露わになる。
遠目でみれば皮の細工だが、細部に金糸と銀糸が施され飾り稲荷紋が刺繍されていた。
手首を守るように瑠璃と玻璃の数珠が巻かれ飾り気のない茂野の唯一の装飾品のように見える。




