無色から黒へ
久照の護る『豊山三ノ輪麓』には、『紅葉山』から身を寄せた山の狐たちが身を寄せている。
青葉深き一ノ輪と違い、三ノ輪は表参道・裏参道に面してひとの子との物理的な接点となっている。
同時に望まぬ穢れとの境界でもあり、朱塗りの巨大な鳥居を構え『豊山』の名を掲げて外界を威圧していた。
『紅葉山』の山ノ狐であった村上もまた、三ノ輪に身を置いている。
三ノ輪の松の木の枝に体を預け、懐の菓子袋を漁る。
『紅葉山』から持ってきた金平糖もそろそろ尽きる。
勝手に出歩いて参道で金平糖を仕入れてくる自由はまだなかったので、最後の五つは大事に取っておくことにした。
ここには『紅葉山』にはない菓子も多くあったが、舌が『紅葉山』に合っていてどうも慣れない。
『紅葉山』の麓でひとに化けて菓子作りを手倣った職人もまた『紅葉山』の配慮でどこぞの山へ行ってしまったので、懐かしい味を堪能できるようになるのは先になりそうだ。
「まこと、不便なり」
目を閉じると風のざわめきだけが聞こえる。
瞼に焼き付いた景色は紅の海。
紅葉の燃ゆる紅葉山の景色。
山の主、山の父『紅葉山』の姿を描く。
この瞼の裏の景色は誰にも見せるつもりはない。
心の内というものは己の力で描き守っていくものなのだ。
口先からどう言葉を漏らしても、己の信じる真のために行くことが、生き物としての気高き定めなのだ。
このまま三ノ輪麓で末席の山ノ狐として生きて朽ちては『紅葉山』出自の名が廃る。
村上は瞼を開けてるとひょいと松から飛び降りた。
『紅葉山』の山ノ狐たちは『豊山』に同化しようと勤労に励むのに必死だった。
主に救われた命を無駄に散らすことは許されない。
そうやって従順であることもひとつの在り方だろうが、村上はその道を選ぶつもりはなかった。
とはいえ、村上にはいま力はない。
『紅葉山』では得られぬ『豊山』の力を得ねばならない。
ここ『豊山三ノ輪麓』久照が得意とする秘術、陰陽術を身につけるのだ。
村上が決心して三ノ輪麓を治める豊楽殿へ顔を出すと、久照の妻が迎えてくれた。
事情を話そうと口を開こうとすると後ろから「美雪殿」と声がかけられた。
美雪というのは久照の妻、今村上の目の前にいるおなごのことである。
かけよってきた従者は一瞥で身分の高いものであると分かる。
茜色に染められた絹地は陽光の中で艶やかに輝いてみせて凛とした横顔を際立てている。
櫛の通った髪は下げ髪にされ、駆け寄って来る度に揺れてみせた。
「まぁ、そのように急がれてどうなさいました茂野様」
「『紅葉山』分社はどちらに。どうぞこれを、『葵山』が分社にとお作りになった鞠です」
「まぁそれは時雨様もお喜びになるでしょう」
美雪は奥から侍女に任せていた時雨を抱いて出てくると、茂野から鞠を受け取ろうとした。
村上は立場を弁えて口を挟まずにいようと思ったが、さっと手を出した。
「お待ちを。『紅葉山』分社は癖が悪うございます。無闇に差し出しては潰してしまいます」
美雪はそういえばそうだと受け取ると、時雨の前でかざして見せるの留まった。
時雨は目の前で万華鏡のように色鮮やかに輝く鞠に目を輝かせ手を虚空に舞わせた。
「そなたは?」
突然名も知らぬものに横やりを入れられれば疑問に思うのが当然だった。
「三ノ輪預かりの山ノ狐、村上です。『紅葉山』からここへ逃げのびたものです。あの山では時雨様をお守りしていたそうです」
「『紅葉山』警邏三席を預かっておりました。村上と申します」
村上は茂野の腕に巻かれた皮の手甲へ視線を投げながら、深く頭を垂れた。
漆喰に松煙を混ぜた黒のろのように、美しく艶やかな黒髪は毎日櫛を通していることが分かる。
恐らく年は二回りは離れているだろう、すでに成熟した気配を感じる。
いぶし銀の根付けについた破魔の鈴の一欠片で、村上の大好きな金平糖が一体何粒求められることか。
紹介を受ける前に、村上とは縁のない遠い存在であることが理解できた。
「こちらは『豊山一ノ輪』神楽殿守、茂野様。久照の陰陽術の一番弟子です。今は『葵山』のお側にお仕えしておられます」
美雪の紹介にあわせて茂野は美雪に礼を言って、頭を垂れたままの村上の顔を上げさせた。




