第3話 「隣が“当たり前”になる日」
朝の教室。
昨日までと同じようで、確実に違う空気があった。
その原因は、誰もがわかっているのに、誰もはっきり言えない。
神崎 詩織がそこに“馴染みすぎている”ことだった。
「おはよー、結城」
軽い声。
三浦 凌也がいつもの調子で席に座る。
「なあ、お前さ」
「なんだよ」
「もう慣れた?」
「何に」
「隣」
その一言で、結城 湊は一瞬固まる。
「……いや、別に」
「いやいや、絶対慣れてきてるだろ」
「してない」
即答。
だが三浦はニヤニヤをやめない。
「でもさ、昨日より自然だったぞ、お前」
「何が」
「会話」
「……」
否定できない自分がいる。
その時。
コツ。
足音はもう、驚きの対象ではなくなっていた。
それが問題だった。
「おはよう」
神崎 詩織は、昨日と同じようにそこに立っている。
違うのは、誰も驚かないこと。
それが、逆に怖い。
「おはよう」
結城 湊が返すと、彼女は満足そうに小さく頷いた。
「今日も隣」
「……決定事項みたいに言うな」
「決定事項だよ」
即答。
三浦が小声で笑う。
「会話成立してんのが怖いわ」
詩織は椅子に座る。
ガタ、と音がする。
その動作すら、昨日より自然だ。
「ねえ」
「なに」
「昨日のルール、続き」
「まだあるのかよ」
「あるよ」
当然のように返す。
彼女は指を一本立てる。
「第四」
「まだ増えるの?」
「増える」
「……」
「隣の人は、嘘をつかない」
「いやそれルールじゃなくて理想だろ」
「違うよ」
彼女はまっすぐ見る。
「隣にいるときだけは、本当でいて」
その言葉が、少しだけ重い。
結城 湊は視線をそらす。
(本当ってなんだよ)
そんなもの、意識したこともない。
「第五」
指が二本になる。
「隣の人は、離れない」
「……いや物理的には離れるだろ」
「離れないようにする」
「怖い言い方すんな」
三浦が笑いを堪えている。
「完全に契約書じゃんそれ」
詩織は少しだけ首を傾ける。
「ねえ」
「なに」
「結城くん」
急に名前で呼ばれる。
距離が近くなる気がした。
「……何」
「隣、嫌?」
一瞬。
教室の音が遠くなる。
(嫌か?)
普通に考えれば、変な転校生だ。
ルールを作って、距離を固定して、意味のわからないことを言っている。
でも——
「……別に」
そう答えてしまった。
その瞬間。
彼女の表情が、ほんの少しだけ緩む。
「よかった」
小さな声。
でも、その安心の仕方が異常に静かだった。
チャイムが鳴る。
授業が始まる。
黒板の文字が進んでいく。
普通の教室。
普通の時間。
でも——
結城 湊は気づいてしまう。
隣から聞こえる呼吸のリズムが、妙に一定であることに。
(なんでこんなに落ち着いてるんだ……)
横を見る。
神崎 詩織はノートを書いている。
何も変じゃない。
むしろ“普通”に見える。
でも——
ペンの動きが、ほんの少しだけこちら側に寄っている。
机の距離が、昨日より0.5センチ近い。
(……気のせいだよな)
そう思いたいのに。
休み時間。
三浦が小声で言う。
「お前さ」
「なんだよ」
「あの子、完全に“固定”してきてない?」
「固定?」
「お前のこと」
「……やめろ」
「いやマジでさ、あれ普通じゃないって」
笑っているのに、目は笑っていない。
その時だった。
「結城くん」
詩織の声。
振り向く。
「なに」
「今日、放課後」
「うん」
「一緒に帰っていい?」
まただ。
“許可”ではなく、“当然”の言い方。
結城 湊は少し黙る。
「……別にいいけど」
そう答えた瞬間。
彼女は、ほんの少しだけ笑った。
「ありがとう」
その一言が、やけに軽くて。
やけに重かった。
そしてその日。
放課後。
教室の出口で彼女は待っていた。
まるでそこが最初から“待ち合わせ場所”だったみたいに。
「遅い」
「いや、普通だろ」
「普通でも遅い」
「……理不尽」
三浦が後ろで笑う。
「もう完全にペース握られてるじゃん」
神崎 詩織は歩き出す。
隣に並ぶのが当然のように。
そして、何気なく言った。
「ねえ」
「なに」
「明日も隣、いるよね」
その問いは、質問じゃなかった。
確認だった。
そして——
答えは最初から決まっているみたいに感じた。
結城 湊は、小さく息を吐く。
「……ああ」
その返事を聞いた瞬間。
彼女の歩幅が、ほんの少しだけ軽くなった。
まだ誰も気づいていない。
“隣”はもう、席ではない。
それは——
習慣になり始めている。




