6
黒い影の意識が、まるで錨のように、マリヴィアの心に打ち込まれた。
よろめいた彼女は、ようやく我に帰っておののく。寒気が背中を這い上がってくる。
(名を呼んでしまった。あれが私に、気づいてしまった)
彼女こそが、部族に生まれるはずだった巫女。どういうわけかサンティ王国の伯爵令嬢として生まれた、巫女の生まれ変わりだったのだ。
「どうして、違う国に……あぁ……あれが私をたぐってやってくる。触れるものを灰に変えながら」
オオ――……ン……
狼が、遠吠えを始める。木霊のようにいくつも、声が響きわたる。
黒い影が、自分の半身を探すためにあちこちに放っていた小さな影が、夜の林めがけて集まりつつあった。狼がその気配に気づいたのだ。
「これは……?」
部族の男が、鋭い視線であたりを見回した。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい」
うわごとのようにつぶやきながら、マリヴィアは男に背を向け、おぼつかない足取りで走り出した。
(助けて)
マリヴィアの手足が冷えていく。
今の彼女は、これまでの巫女が命を落とした年齢よりも上だ。人の寿命は長いものだと、知っている。
だから、彼女は幸せを感じて暮らしていたのだ。短い生を繰り返してきた前世までと違い、未来を夢見ることができたから。
(私が巫師によって殺されれば、あれも消えるのだわ。だって、私の中にあれの一部がいるから。それはわかっているけれど……でも)
また、狼の遠吠え。
(あれが、近づいてきているのだわ、きっと)
マリヴィアは足を止めた。
視線の先に、橋がかかっている。この橋を渡れば、町だ。マリヴィアが町に入れば、冷たい炎は彼女を追って町に入り込み、あらゆるものを灰にするだろう。
(そう……アスファドも)
もう、リーアムはマリヴィアがいないことに気づいただろう。彼はアスファドに報告し、アスファドはパーティを放り出して彼女を探し始めているかもしれない。
(アスファド……)
立ち尽くしたままうつむいたマリヴィアの目から、涙がこぼれ落ちた。
(あなたがどうして私を知っていたのか、結局わからないままだけど……今ほど、あなたを恋しいと思ったことはないわ。戸惑ったり、邪険にしたりしないで、もっと一緒にいる幸せをかみしめておけばよかった)
そして、彼女は指先で涙を拭き、顔を上げた。
踵を返し、橋に、背を向ける。
(あなたを死なせたくない。……さようなら)
マリヴィアは、草原を目指して一歩を踏み出し――
――不意に、後ろから力強い腕に抱きしめられた。
「やっと見つけた」
低い声が、彼女の耳元で囁かれる。それは、かつて彼女が聞いたことのある言葉。
たまらなくなって、マリヴィアは無理矢理身体を捻って振り返ると、彼に抱きついた。
「あなた……!」
そこにいたのは、息を弾ませたアスファドだった。
「ああ、アスファド、どうしてここが」
「狼たちが遠吠えで呼んでくれた」
「狼の言葉が、わかるの……?」
「もちろん。何だ、忘れたのか?」
アスファドはニヤリと笑った。
「初めてお前を抱いたとき、お前が言ったんじゃないか。俺が狼みたいだと」
マリヴィアは目を見開いた。
「まさか、あなたは」
「話は後だ。あれが来る」
アスファドはいったんマリヴィアを離すと、上着を脱ぎ捨てた。シャツブラウスの腕をまくり上げると、右腕のあの入れ墨が露わになる。
「何度も生まれ変わるうちに、巫女の力も、神の使いとしての狼の力も強くなった」
アスファドは、当たり前のようにそう言いながらマリヴィアを左腕で抱き寄せた。
「だからこそ、お前は部族ではなく、サンティ王国に生まれ変わったんだ」
「わからないわ、どういうことなの?」
「思い出したんだろう? 前世、俺は狼だった。お前が巫女の使命を全うするまで共に生きるはずだったのに、間抜けなことにお前が七歳の時に落石に巻き込まれて死んでしまった。しかし、何度も生まれ変わりを経験して力を増していた俺は、神の身元で大暴れしたんだ。お前のところに戻せ、俺を生き返らせろ、ってな」
アスファドは、冷たい炎を待ちかまえて闇を見据えながら、続ける。
「困り果てた神は、こう言った。『理に反するので生き返らせることはできないが、他の願いなら叶えよう』――だから、俺は言ったんだ」
彼の目が、マリヴィアを優しく見つめた。
「巫女をこの運命から解放しろ、と。部族ではなく、別の国に生まれさせてやってくれ、と」
「でも、炎の半身が」
「そう。あれの半身が、お前と共に生まれ変わることは変えられなかった。でも、巫女として死ぬ運命を受け入れながら短い生を生きるのではなく、違う形で生きる女に生まれることはできる。例えば」
アスファドの目が、どこか懐かしい光をたたえてきらめく。
「俺を愛して、俺と共にもっともっと生きたいと思う、そんな女に」
マリヴィアの目から、涙が一粒、こぼれ落ちる。
幼い頃から幸せを感じて育ってきた自分が、唯一、何か足りないと感じていたもの。それは、いつもそばにいた狼だったのだと、彼女は悟った。彼と結婚してからはそんな気持ちもなくなり、忘れていたのだ。
彼の目がもう一度、闇の方を向いた。
林の暗がりの、それよりさらに深い闇が、近づきつつあった。遠くに見えていた篝火や、夜空の星の輝きが、少しずつ弱まって失われていく。
「来たぞ」
アスファドがつぶやいた瞬間、まるで洪水に飲み込まれるかのように、二人の周りを闇が渦巻いた。
マリヴィアが悲鳴を上げそうになった瞬間、アスファドの右腕が大きく振られた。光が宙を走り、闇が切り裂かれてやや後退する。
「マリー。あれを受け入れるなよ」
アスファドが鋭く言った。
「あれの狙いは、昔も今もお前だけだ。俺は、狼ではなく部族の人間に生まれ変わり、巫師に頼んで右腕にこの入れ墨を彫ってもらった。あれの力を削る呪文が彫り込んである。もちろん、一撃というわけにはいかないが」
「そんな、私のために……でも、どうしたらいいの!? あれを拒否し続けるなんて、私には」
「だから言ってるだろ、俺のことだけ考えてりゃいいんだよ!」
もう一度、アスファドは腕を大きく振りかぶって構える。
「俺を愛せ。一生守るから」
マリヴィアは、アスファドを見つめた。
そして、ささやいた。
「もう、愛してるわ」
はっ、とアスファドは彼女を振り返り――
――にやり、と笑って言った。
「それなら、大丈夫だ」
マリヴィアは大きく息を吸い込み、足を軽く広げてしっかりと立つと、闇をにらみつけて念じた。
(私は生きる。《ゾブーグォルブ》に取り込まれたりしない。怖くなんてない、だってアスファドがいるから。冷たい炎の半身を抱き続けながら、それでも彼と一緒に生きるのだから!)
半身が彼女の中にいるためか、マリヴィアには炎の焦りが手に取るようにわかった。彼女の中にさえ入り込めれば、古の姿を取り戻して巨大な力をふるうことができるのに、どうしても彼女の中に侵入することができないからだ。
その間に、アスファドの“狼の右腕”が闇の力をどんどん削っていく。
「お前ら、加勢しろ!」
不意に、アスファドが怒鳴った。
そのとたん、数頭の狼たちが闇の中に飛び込んでくる。うなり声を上げながら駆け回り、何かにかみつく動作をしては、まるで闇をむしり取るように頭を振った。闇が、冷たい炎が、小さくちぎれていく。
マリヴィアが、一歩前に出た。
アスファドが彼女を見ると、彼女の瞳は闇の中で金色に光っている。
彼女は部族の言葉で唱えた。
『私の中にあるあなたの一部は永遠です。《ゾブーグォルブ》よ、これ以上を望まず、去りなさい』
その瞬間、闇が飛散した。
月明かりが、あたりを照らしている。
数頭の狼たちと、駆けつけてきた部族の男たち。そして――
ふらり、と倒れかかるマリヴィアの身体を、アスファドの腕がしっかりと受け止めた。
マリヴィアが目を覚ましたのは、夫婦の寝室、いつもの寝台の上だった。
重い頭をかろうじて傾け、寝台の脇を見ると、アスファドが彼女の片手を握ったまま彼女をのぞき込んでいる。
「マリー」
「……アスファド」
かすれた声でマリヴィアが答えると、アスファドは笑って身を乗り出し、多い被さるようにして彼女を抱きしめた。
「よく頑張ったな」
身体を起こしたアスファドは、彼女の額にかかった髪をよけながら言う。
「もう、全て思い出したのか?」
「ええ……」
マリヴィアは一度、目を閉じた。
「思い出したわ。巫女が生まれると、その年に生まれた狼の子の中から一頭が選ばれ、共に育てられる。そして巫女が生贄として殺される頃、共に生きた狼も寿命を迎える……そんな生を、私たちは繰り返してきた」
「前世、初めて、俺はお前の生の終焉まで付き合うことができなかった。お前がまだ七歳の時に死んでしまったんだ。神の御元で大暴れした後、部族の人間として生まれ変わったときには、当たり前だが赤ん坊だったから記憶が曖昧で……その時、お前はまだ生きていたのに」
アスファドは寝台に腰かけ、マリヴィアを抱き寄せる。
「俺が五歳、お前が十二歳の時、お前は生贄となった。その瞬間、俺の記憶も蘇った。それから俺は、自身を鍛え始めたんだ」
「そんなに小さい時から……」
マリヴィアは重たい腕を持ち上げ、そっとアスファドの頬に触れる。
「辛かったでしょう」
アスファドはその華奢な手を握りしめた。
「希望を持っていたから、辛くなどなかった。部族に次の巫女が生まれなかったからだ。巫師たちは焦っていた。当然だ、俺がお前を部族ではない場所に生まれ変わらせたんだからな。神を脅して」
マリヴィアは困ったように微笑み、続きを待つ。アスファドも笑った。
「巫師は、俺の魂が狼であることに気づいた。だから、いつか《ゾブーグォルブ》が現れたとき、俺に部族を守らせようと右腕に入れ墨を入れたんだ。俺にとっては願ったりのことだった。やがて俺は部族を離れ、サンティ王国の辺境部隊に雇われ――後は知ってるよな。最終的に、あのレストランでお前を見つけたってわけだ」
「どうして、レストランに私がいるとわかったの?」
「あれは本当に偶然だった。何年もかけて交易路を開いて男爵にまでなったのに、女向けの店をやっても学院をやってもお前が見つからないんで、やけ食いしてやろうと思ったんだ。神の采配かな?」
マリヴィアはまた笑う。
「私だと……すぐにわかったのね」
「ひと目でわかった。名は、その時に初めて知ったが。今生はお前の名を呼べるのが、嬉しかった。マリー」
アスファドは、マリヴィアの鼻の頭をぺろりと舐めた。ああ、これも懐かしい、と彼女は感じる。
「とにかくぎりぎりで、お前が他の男の妻になる前に見つけることができたってわけだ。前世の記憶のないお前を怖がらせても、アレの思うつぼになるだけだから、何も言わなかった。俺を愛して、俺と生きたい、と願うようになるまで言うつもりはなかった」
そう言う彼を、マリヴィアは軽く睨んだ。
「その割に、結婚まではずいぶん強引だったわ」
「一応、理由はあったんだぞ。お前は巫女としての生を繰り返してきたわけだから、巫女の資格を失えば《ゾブーグォルブ》の目から逃れられるんじゃないかと、ちらっと思ってな」
「……どういうこと?」
首を傾げるマリヴィアに、さっくりとアスファドは告げた。
「処女じゃなくなればいいんじゃないかと思ったんだよ」
「しょ……っ!」
真っ赤になるマリヴィアを、アスファドはますます引き寄せる。その手が、妖しく動き始める。
「結局それは関係なかったけど、ま、いいんだ。どっちにしろ、人間に生まれたからには俺の妻にするって決めてたし、俺に溺れさえすれば。狼は一途なんだぞ」
「ま、待って」
マリヴィアは弱々しく彼の胸を押し返した。
「私が、気持ち悪くないの? あんなものの一部を、抱き続けているのに」
「何度も生まれ変わりながら、千年の時をお前と一緒に過ごしてきた。今さら何を言ってる」
「でも……」
「誰の中にも、あれの小さな欠片はあると思ってる。それに飲み込まれて生を諦めることなく、今代、お前はそれを自分の意志で封じ込めた。強いお前に、俺は惚れ直したよ」
「わ……私も」
マリヴィアの目から、涙がこぼれ落ちる。
「私のために運命を変えてくれた、そんなあなたを、愛してる」
その言葉を聞いたアスファドは満足気に笑い、マリヴィアの首筋に顔を埋める。
「その言葉を、長い時間、ずっと待っていた。……お前が俺を愛し、俺と生きたいと思う限り、お前の中の闇は眠り続ける。俺はお前を愛することで、お前を永遠に守るんだ」
二人は、強く抱きしめ合う。長い時を超えて、未来を共にするために。
【成り上がり狼の愛妻 完】
お読みいただき、ありがとうございました!
最初は長編向けに考えていたプロットで、素敵な企画に参加したかったので規定内におさめましたが、書き終えてみたらスッキリしています。
でもでも、こぼれエピソードなどは機会がありましたら、ぜひ書いてみたいと思っています!
感想やリクエストなどあれば、お寄せ下さると嬉しいです。