尻尾は嘘をつかない
「ごめん、俺のバカ野郎っ。猫又、絶対これ剥がすから」
猫又が俺の方を向くと、ふんと鼻で笑い、瞳を閉じた。
「俺サマもやきが回ったもん……」そう呟く声が最後まで聞こえなかった。体が急速に小さくなっていつもの黒猫に戻ってしまう。
どうなってしまったのか、どうなるのか。目を開けない猫又を抱きあげて、ひたすら猫又を呼び続けた。
胸に抱くとだらりと足が力無く垂れる。このまま動物病院に駆け込みたい。だけど猫又は妖怪で悪くなった理由も病気なんかじゃない。
「笹井先生、猫又を助けて」
黄葉と呼ばれた狐を肩にのせたまま、笹井先生は窓に凭れてこっちを見ていた。悔しいほど余裕な態度に文句を言いそうになる。
猫又は先生のこと助けたんだぞ。要らん世話だと言われればそうでも。狐が増え過ぎて崩壊しそうになっていた先生の生活を守ったのに。
でも今は先生に縋るしかない。
「先生」
「じゃあ、取引だね」
「と、取引?」
先生は転がっていた椅子を起すと優雅な動作で足を組んで座る。肩から降りた狐が当然のように膝の上に乗った。
そう言えば、前に見たのもこの狐だったような気がする。他よりわずかに大きく、色が黄色っていうより金に近い。名前のあるこいつは他とは違うのかもしれない。
「黄葉は、うちに昔からいる始祖の狐だ。この子を見逃すという条件を呑むなら札を取ってやってもいいけど」
「見逃したら、また増えるよ。それでいいの、先生?」
「僕は狐なしじゃ、どう生きていいのか分からないんだ。狐と共にいることが僕の人生だ」
そうかよ。自分を変える、それはとても大変だ。狐が一匹ならこれまでと同じくらい幸運は先生に訪れ続ける。それを捨てるなんてできない、そういうことか。
先生を助けたことにこれもなるのか? 先生の棚ぼた生活のために猫又はこんなに傷ついて……。悔しくてぐっと唇を噛んだ。でも、仕方ない。
「取引するよ、猫又から札を取ってください」
俺の返事に先生はにっこりと笑った。でも、前みたいに格好良いとはもう思わなかった。印を組み替え、小さく呪文を唱える先生が僕の腕に抱かれた猫又の前足の付け根に触れると、見え無かった呪符が現れる。べりっとガムテープを剥がすような音をさせて先生は札を剥がした。
「身体の傷はこれでは治らない。養生するんだな、化け猫」
何にも言わず、先生の頬を一発思いっきり殴りつけて猫又を抱いたまま保健室を飛び出した。
早退して帰ってきた俺に母さんは叱りつけようとして腕に抱いている猫又に気づく。
「チョコちゃん? 一体どうしたの、こんな怪我だらけで」
「あ、あのさ、学校行く時に知らずについて来たみたいで。他の猫か、犬にやられたのかも」
どうやって俺の後をついて電車に乗ったのかとか、学校にそんな野良猫や犬なんていないだろう――なんてことはこの際無視の方向で。
「要するにあんたが悪いのね、悠斗」
「え? あ、うん。ごめんなさい」
ぐったりした猫又に母さんは穴があり過ぎる説明を丸飲みした。さすが俺の母さんだ。急いでスマホで病院を探しだす。
「ここが近いわ、車出すから今すぐ行くわよ」ありがたいやら、ありがたくないやら。車の運転って前乗ったのって随分前じゃないの、母さん? 二重事故には会いたくない。
「俺、自転車で行く。そこなら近道すれば車より早いよ」
それでも渋る母さんから財布を奪い取り、リュックに猫又をタオルにくるんで入れると背中にしょって家を出た。
「ヨーグルトもう一口寄こせ」
はい、あ~ん。
「勿体つけんなよ、悠斗」
「痛えっ」
鼻に爪を立てられて持っていたスプーンを投げて鼻を押えた。左手に持っていたヨーグルトの容器の中身をもう少しでベッドにぶちまけそうになる。
結局、猫又が大人しかったのはほんの二、三日で、あとは不機嫌マックスでますます我儘になっている。
その理由は明らかだ。
「エリザベスって呼んでもいいか」
「いいわけないだろうがっ」
むくれる猫又に可笑しくて大笑いしてしまう。今猫又の首には透明なプラスティックでできている半円錐形状の保護具が嵌まっているのだ。
通称、エリザベスカラーという。
「こんなもん要らん、俺サマをなんだと思ってやがる。傷口舐めるなって言われれば舐めるわけないだろっ。外せ、外せ、今すぐ外さんかいっ」
かりかりと爪を立てて必死に外そうとする猫又が可愛いと思う不思議感覚。
こんだけ偉そうに文句を言えるくらい体の調子が戻ったんだなあと思うくらい、俺は今寛容な男だった。つい嬉しくて顔がにやけてしまう。
「何、笑ってやがる」
「いや、治って良かったと思ってさ」
「死ぬとでも思ってたのか」
それは成仏とどう違うのか? 普通の猫として死にたかった猫又は助かって良かったと思ってない?
だったとしても。
「猫又はどうか分からないけど。俺は死んで欲しくなかった。猫又ともっと一緒にいたいんだ。猫又が好きだからさ」
途端に猫又がベッドから飛び降りようとしてずるりと足を滑らせた。
「くそっ、こいつのせいで上手くバランスが取れん」
ぶつぶつ文句を言う猫又の尻尾がぴんと立って先っぽがゆるやかにぴくぴくしていた。
嬉しいと思っているのかな。そうだといいな。
「俺たち、友達だよな」
「ちっ、そう思うんなら『カリカリ』もっと増量しろ。んで、どこぞの女子みたいに好きだとか、そういうのは気色悪いからもう言うなよ、ぺっぺっ」
つーんと顔を上げる猫又はエリザベスカラーのせいでますます俺様だ。それでも嬉しかった。
つんつんしたって尻尾は嘘をつかないもんね。
こうして新しい狐憑きの保健の先生との一件は幕を閉じた。いや、始まったばかりなのか。だけど疲れたので今回はここまで。
おわり