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蒼の瞳は、すべてを知っている。  作者: 消す者(イレイザー)
第一章【塔へ】

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14.決着

 その目が、俺を捉えた。


 __始まった。


 熊が咆哮を上げる。

 空気が震え、木々にとまっていた鳥たちが一斉に飛び立った。


 後方へ跳ぶ。

 熊の爪が目の前を薙いだ。


 間一髪でかわしたものの、風圧だけで頬が引きつる。地面に着いた足を踏ん張り、すぐさま剣を構え直した。


 以前と同じだ。

 あの時、俺たちを蹂躙した圧倒的な力。目の前に立つだけで、自分の小ささを思い知らされるような巨体。


 けれど、今は違う。

 俺には見えている。

 熊の輪郭に重なる、蜃気楼のような景色の歪みが。


 熊が再び踏み込んできた。

 俺は横へ回り込み、その脇腹を狙って剣を振るう。


 キンッ_____。


 刃が弾かれた。


「なっ……!」


 手に衝撃が走った。


 確かに狙ったはずだった。刃は熊の体へ届く寸前、まるで見えない壁にぶつかったかのように軌道を逸らされていた。


 熊が前脚を振り下ろす。

 身をひねって爪を逃れた。爪が地面を抉り、土と小石が飛び散る。


 距離を取る。


 まともに斬りつけるだけでは駄目だ。力任せに攻めても、あの歪みに弾かれる。


 熊がこちらに向き直る。

 その巨体を覆う景色の歪みは、一定ではなかった。肩の周囲では木々の輪郭が大きく曲がり、腹のあたりでは地面の線がわずかにずれている。


 大剣を握り直す。


 父さんから教わったのは、獲物を仕留める技術だけじゃない。

 相手をよく見ること。無駄に力を使わないこと。自分にできることと、できないことを見極めること。


 狩りでは、焦った方が負ける。


 熊が低く唸り、残された前脚を持ち上げた。

 その瞬間、肩の周囲にあった歪みが、ほんのわずかに薄くなった。


 今だ。


 俺は踏み込んだ。

 剣を振り抜く。

 刃先が熊の肩をかすめ、浅い傷を刻んだ。

 完全には届かなかった。だが、先ほどのように弾かれはしなかった。


 熊の動きが、一瞬だけ鈍る。

 確かに、何かが起きた。


 俺は追撃せず、すぐに距離を取った。熊の反撃が空を切り、太い爪が目の前の地面を砕く。


 呼吸を整えながら、熊の体を観察する。


 歪みの位置を狙うだけじゃない。

 歪みが薄くなる瞬間を狙う必要がある。


 熊が動くたび、周囲の景色が揺らいでいた。肩が持ち上がるとき、首を振るとき、脚を踏み出すとき。それぞれの動きに合わせて、歪みの形がわずかに変化している。

 ならば、その変化を捉えればいい。


 だが、そう簡単な話ではない。

 一瞬の判断を誤れば、次に地面へ倒れるのは俺だ。


 熊が地を蹴った。巨体が迫る。


 正面から受けず、斜めに踏み込む。熊の爪が肩先をかすめ、服が裂ける。構わず大剣を振り上げた。


 今度は首筋を狙う。


 刃が歪みに触れた瞬間、軌道が横へ逸れた。

 それでも、完全には外れなかった。


 剣先が肉を裂く。熊が吠え、巨体をよろめかせた。


 だが、まだ浅い。


 追いすがろうとしたものの、熊の反撃に押されて後退した。腕が痺れ、握った柄が手の中で滑る。


 このままでは、先に俺の体力が尽きる。


 熊は疲れているはずだった。背中には最初の一撃が残っている。それなのに、歪みのせいで致命傷を与えられない。


 どうすればいい。


 考えがまとまる前に、熊が再び襲いかかってきた。


 身を沈め、爪をくぐり抜ける。

 そのとき、視界の端で何かが動いた。

 熊の肩に重なっていた歪みが、薄くなっている。


 反射的に剣を振った。

 刃が歪みの中心を捉える。

 硬いものを砕くような感触が、手元に伝わった。


 同時に、熊の動きが明らかに鈍った。


「……そういうことか!」


 歪みの中心を狙えばいい。

 獣の体を覆う景色のずれ。その中心を捉え、そこへ刃を通す。


 まだ確信はない。だが、試す価値はある。


 熊が体勢を立て直す。


 呼吸を整え、剣を構えた。

 今度は待つ。

 熊が動く瞬間を見逃さないよう、目を凝らす。


 前脚が地面を蹴る。


 肩の歪みが変化する。


 踏み込む。


 斬る。


 刃が歪みを捉えた。熊の動きが、また鈍る。


 手応えはあった。


 けれど、熊も黙ってはいない。怒りに任せて巨体を振り回し、俺を押し潰そうとする。

 剣を振るうたび、腕に負担が積み重なっていく。息が荒くなり、足元も重い。


 熊が咆哮し、残された前脚を高く振り上げた。


 踏み込もうとした。

 その瞬間、目の奥に鋭い熱が走った。


「っ……!」


 こめかみから目尻にかけて、細い何かが皮膚の下を駆け抜ける。


 痛みを振り払う間もなかった。


 瞳の奥で、蒼い光が一瞬だけ瞬いた。

 次の瞬間、その色は金色へと変わっていた。


 視界が変わる。

 熊の動きが、ひどく遅く感じられた。

 振り下ろされる爪。その先端が描く軌道。踏み込んだ脚の筋肉が膨らみ、巨体の重心が移動する様子。


 それらが、ひとつひとつはっきりと目に映る。


 そして、熊の体に重なっていた歪みも。

 今まで曖昧に揺れていた景色のずれが、どこで生まれ、どこへ移ろうとしているのかが分かるようだった。


 考えるより先に身体は動いていた。


 爪をかわし、熊の懐へ潜り込む。

 剣を振るう。肩の歪みを捉えた。


 熊の巨体が揺らぐ。


 続けて、首の付け根に重なった歪みを狙う。

 刃が通る。

 熊が苦しげに吠え、俺を振り払おうと体をひねった。

 俺は地面を蹴り、すんでのところで離脱した。


 全身が軋む。

 腕も、脚も、もう限界が近い。

 それでも、視界は今までにないほど鮮明だった。


 熊がこちらを向く。


 巨体がわずかに傾いていた。動きが鈍り、踏み込むたびに重心がぶれる。


 勝機はある。大剣を両手で強く握りしめた。


 熊が最後の力を振り絞るように突進してきた。

 真正面から受ければ押し潰される。


 俺は直前まで引きつけ、横へ飛んだ。熊の爪が空を切る。その巨体が通り過ぎる瞬間、反転して背後へ回り込む。


 首の付け根。

 そこに残る歪みを見据える。


 大剣を振り上げた。

 全身の力を込め、刃を叩き込む。


 鈍い手応えが伝わった。

 刃は歪みを貫き、その奥へ深く食い込んだ。


 熊の咆哮が森を揺らす。

 巨体が大きくよろめいた。


 剣を引き抜き、間合いを取る。


 熊は何度も前脚を踏み直した。だが、もうこちらへ向かってくることはなかった。


 やがて、その巨体がゆっくりと傾く。


 地面が震えた。


 倒れた熊は、二度と動かなかった。


 大剣を下ろす。


「……はあっ、はあっ……」


 息がうまく整わない。


 腕は震え、脚にも力が入らなかった。それでも、俺は倒れずに立っている。


 勝った。


 その事実が、遅れて胸の中へ染み込んでくる。


 あの日、何もできなかった。

 父さんも、ジャイガも、マルヒも救えなかった。目の前で大切な人たちが倒れていくのを、ただ見ていることしかできなかった。


 それでも、俺はここまで来た。

 あの熊を、自分の力で倒した。

 胸の奥に、熱いものが込み上げる。


 喜びなのか、安堵なのか、自分でもよく分からない。ただ、張り詰めていたものが少しずつ解けていくのを感じた。


 大剣を杖代わりにして、近くの木の根元へ腰を下ろす。

 今は少しだけ、この静けさに身を任せていたい。


 _________________


 どれほど座っていたのだろう。


 森の入口の方から、聞き慣れた声が飛んできた。


「おーい、アルトリウス!」


 カイルだった。


 俺は顔を上げ、片手を上げて応えた。


「こっちだ」


 カイルは駆け寄ってくると、まず俺の姿を確かめ、それから地面に横たわる熊を見た。


「……嘘だろ」


「本当だよ」


「いや、そうじゃなくて……本当に一人で倒したのか?」


「見れば分かるだろ」


 カイルは熊と俺を交互に見て、しばらく言葉を失っていた。


 やがて、深く息を吐く。


「お前、本当に無茶するよな」


「お互い様だろ」


「俺は少なくとも、こんな化け物に一人で挑んだりしないね」


 いつもの調子だ。

 その声を聞いて、張り詰めていた気持ちがまた、ほんの少しだけ緩んだ。


 だが、体の異変を悟られるわけにはいかなかった。

 目の奥には、まだ鈍い熱が残っている。腕も重く、指先にはかすかな震えがあった。


 大剣の柄を握り直し、何事もないように立ち上がった。


「それで、どうするんだ?」


 カイルが熊を見ながら尋ねた。


「どうするって?」


「これ、二人で運べると思うか?」


 改めて熊の巨体を見る。


 うん、無理だ。

 俺たち二人がかりでも、村まで運ぶどころか、少し動かすだけで苦労するだろう。


「村に戻って人手を集めよう。村長に頼めば何人か出してくれるはずだ。」


「ああ。それに、キャラバンも来てるんだ。荷車もあるだろうし、協力してもらえれば何とかなるかもしれないな」


「キャラバンが?随分久々だな。なら、まずは村へ戻ろう」


 カイルは頷いた。


「そうだな。こんな大物を二人でどうにかしようなんて、最初から無理な話だったか」


「気づくのが遅いな」


「うるさいな」


 カイルが苦笑する。


 俺も小さく笑い返した。

 こうして話している間にも、目の奥の熱は消えていなかった。けれど、カイルにこれ以上心配はかけまい。


 俺は大剣を背負い直し、カイルと並んで歩き始めた。

 森の中には、木々の隙間から陽光が差し込んでいた。


 いつもと変わらない景色のはずだった。なのに、ひどく眩しい。


 瞬きをする。


 視界の端が、わずかに揺れた。

 疲労のせいだろう。そう考え、俺は前を向いた。


「それにしても、どうやって倒したんだ?」


 隣を歩くカイルが尋ねた。


「普通に戦っただけだ」


「普通に、ねえ……」


「何だよ」


「いや。俺が見たジャイガの剣さばきより、ずっと扱いが自然だったからさ。お前、いつの間にそんなこと覚えたんだ?」


 一瞬、返事に詰まった。


「……見よう見まねだよ」


「見よう見まねで、あんな熊を倒せるなら苦労しねーな」


 カイルは納得していない様子だったが、それ以上は追及してこなかった。


 剣の扱いについて聞かれても、答えようがない。

 自分でも、どうしてあれほど自然に体が動いたのか分からない。


 それに、今は別のことが気になっていた。

 目の奥の熱が、少しずつ強くなっている。

 歩くたびに視界の端が揺らいだ。木々の輪郭がわずかにずれ、陽光が滲んで見える。


 何度か瞬きをした。治まらない。


「なあ、アルトリウス」


「……何だ?」


「お前、顔色悪くないか?」


 心臓が跳ねた。


「少し疲れただけだ。あれだけ動いたんだからな」


「そりゃそうだけどさ……」


 カイルがこちらを覗き込もうとする。


 俺は視線をそらし、歩く速度をわずかに上げた。


「先に村へ戻ろう。キャラバンに頼むなら、早い方がいい」


「おい、無理すんなって」


「無理なんかしてない」


 そう答えた直後だった。


 目の奥に、鋭い痛みが走った。


「っ……!」


 思わず足が止まる。


 こめかみから目尻にかけて、皮膚の下を何かが駆け抜けるような感覚があった。頭の内側を細い刃でなぞられているような激痛。


 視界が揺れる。

 木々が二重に重なり、足元の地面が傾いた。


「アルトリウス?」


 カイルの声が遠く聞こえた。

 すぐに顔を上げて答える。


「……何でもない」


「何でもないって顔じゃないだろ」


「目に木の枝でも入ったんだろ。少しすれば治る」


「はあ? どこに枝が......」


「大丈夫だって」


 強引に言葉を遮り、再び歩き出す。


 ここで倒れるわけにはいかなかった。

 あの金色の瞳のことも、戦いの最中に自分の身に起きた変化も、誰かに話していいものだと思えなかった。


 痛みをこらえ、一歩ずつ足を進める。


 熊と戦っている間は、あれほど鮮明に見えていたものが、今はまともに捉えられない。


 木々の輪郭も、地面の凹凸も、視界の中で揺らいでいる。耳には風の音が異様に大きく響き、頭の内側を直接揺さぶられているようだった。


 金色に変わった瞳。

 あの瞬間から、確かに何かが変わった。


 きっと、その反動が押し寄せている。


「……っ、は……」


 息が乱れそうになるのを、必死に抑えた。


 カイルに悟られないよう、拳を握り込む。平気なふりをして、いつも通りの歩幅を保つ。


 だが、指先の震えまでは止められなかった。


「なあ、本当に大丈夫なのか?」


 カイルが再び尋ねた。


「……ああ。村に戻れば休める」


 それだけ答えるのが精一杯だった。


 村へ続く道は、まだ先にある。

 もう少しだ。あと少しだけ、耐えればいい。


 そう自分に言い聞かせ、足を踏み出した。


 けれど、次の一歩は地面を捉えられなかった。

 膝から力が抜ける。


 咄嗟に大剣を手放した。鈍い音を立てて剣が地面に落ちる。


「アルトリウス!?」


 カイルの叫び声が聞こえた。


 倒れる。

 分かっていても、体はもう動かなかった。


 目の奥に焼けつくような痛みが走り、視界が暗闇沈んでいく。


 何か言わなければ。

 大丈夫だと。少し足を滑らせただけだと。


 そう思ったのに、唇すら動かなかった。


「おい! しっかりしろ、アルトリウス!」


 カイルが俺の体を支えている。


 その声が、ひどく遠い。


 意識をつなぎ止めようとした。ここで眠るわけにはいかない。村に戻って、熊を運ぶ人手を集めなければならない。


 まだ、やることがある。


 なのに、指先ひとつ動かせなかった。


「……くそ……」


 かすれた声が漏れた。


 次の瞬間、意識が途切れた。


「アルトリウス! おい、アルトリウス!!」


 カイルの声だけが、遠ざかる意識の中に響いていた。

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