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マルタにて 2




「車を、今日は好きに使うといい」

そう言って、あのテディ・バートラムは、僕にウインクをして見せた。


まったく……。

あの様子では、僕が伯爵に何と言われて、暇を出されたか、とっくに承知しているってことだな。


リックは、こみ上げる苦々しい思いを飲み込みながらも、ホテルの支配人に、「バートラム氏の部屋には、呼ばれるまでは、決して誰も近づかぬよう」と、しっかりと念を押すことだけは忘れずに、エマとホテルを後にした。


……まあ、いいさ。

勝手に邪魔者扱いにされ、体よく追い出されたのには、少々腹が立たないでもないが。

これは、チャンスと言えばチャンス。


リックは自動車に近づくと、エマのために颯爽と助手席のドアを開けた。


「キンドルさん……わたし、自動車には、まだあまり慣れなくて」

エマが固い声で言う。


「心配ないよ、エマ。最近では、僕は伯爵をお乗せして運転することもあるくらいだからね、信頼してくれ」

こう言って、エマに向かって笑って見せると、運転席に乗り込み、リックはエンジンを掛けた。


空気は乾いていたが、まだ寒すぎるというほどのことはなかった。

空は澄み渡って、風は心地よい。


最初のうちこそ怖がって、ドアについた手すりを力いっぱい握り締めていたエマも、じきにドライブの爽快感に表情を和ませるようになっていた。

その水色の瞳は煌めき、明るい黄色の髪は陽の光に踊っている。


――その娘の気持ちを確かめて、求婚をしてこい。

ダチェット伯爵は、そう言って僕をバートラム氏に貸し出した。


僕だって、決していい加減な気持ちで、エマと向き合っているつもりはない。

それは、最初は気軽に声を掛けてみたことから始まった付き合いだけれど。


仕事でロンドンに出向くたび、彼女に会うのが楽しみで堪らなくなっていった。


けれど、この子の何に、それほど魅力を感じるのかと、問いただされたとしたら。

僕は、はっきりとした答えが用意できるだろうか?


若々しく、可愛らしく魅力的でダンスが上手い。

でも、そんな娘なら、別にエマでなくても、他にいくらでもいるに違いないのに……。


リックは、ハンドルを握りながら、そんな風に自問していた。


そう。

気が合う、そうだ。馬が合うというやつだ。

僕が瞬時に察し取ってほしいような感覚を、エマはすぐさま感じ取ってくれる。

そしてその上、予想を裏切るような軽妙な答えを返してくれるのだ。


初めて、メイフェアのバートラム邸で会った時に、すでにそう感じていた。

あの食器室での愉快な共犯関係。


面白い子だと、そう思ったのが先だった。

ふっくらとした可愛らしいくちびると、水色の瞳に魅入られたのは、その後だった。


だからきっと。

旦那様から、一足飛びに「求婚してこい」などとけしかけられても、僕はあまり反発を感じなかったのだ。


彼女となら、エマとなら……。

ふたり一緒の暮らしというものが、なんとなく想像できた。


時には喧嘩もするかもしれない。

けれど……。

多分、大抵の場合は、楽しく過ごせるだろう。いや、きっと、そうに違いない。


そうだ、僕は、エマと結婚したい。

でも……。


エマはどうなのだろう?

そもそも、僕のことは一体、どう思っているのか。

実のところ、それすらも、僕には自信がないのだ。


エマは、僕にまだ、くちづけすらも許してはくれていない。

夜、ダンスに出かけても、十二時になれば帰ってしまう。


最初は、小癪な女の手練手管なのかと、その焦らしを愉しんでみたりもしたが。

最近では、ひどく不安で仕方がない。

……僕は、エマにとっては、単なる愉快なダンスの相手に過ぎないのでは? と。


とにかく、まずは気持ちを。

エマの気持ちを確かめねばなるまい。


出来れば、それを、今日……。


リックは固く決意すると、ハンドルを握る手にぐっと力を込めた。







車を止め、リックはエマを、バラッカガーデンへと誘った。

「上からの展望が、すばらしいと聞くよ」


こう言って、リックはエマと階段を上り始める。

昇りきるまでには、かなりの高さがあり、ふたりはすこしばかり無口になった。


だが、突如、視界が開ける。

空に浮かぶように噴水と庭園が現れた。

そして、風渡る、石造りのアーチの続くテラス。


まあ、なんて……。

と言ったきり、息を飲んで、エマが目を瞠る。


グランドハーバーの色は、えも言われぬ蒼。

砦の石のあわい赤褐色との対比が何とも言えぬ乾いた空気を感じさせた。


「あっちに見えるのがヨハネ騎士団の古い街だそうだ」

リックが指をさす。


エマは返事もできぬまま、ただ景色に見とれていた。


「なんという蒼なんでしょうね……キンドルさん」


溜息交じりに、エマがやっと口を開く。


「まるで、奥様の瞳の色のようじゃありませんか」


「エマ……」


リックが、囁く。

そして、ほんのすこしだけ、エマの耳もとへと顔を寄せてみた。


「せめてふたりの時は、『リック』と呼んでくれないかな……そう呼んでくれるだろう? ダンスの時には」


「……リック」

エマが、おずおずと口にする。


よし。これは、なかなかにいい様子ではないか?!


リックが、胸の内で快哉を叫ぶ。

そして、エマの肩へとそっと腕を回した。


ちょうどアーチの陰でもあり、今、ひと気はなく、まるでテラスを貸切にしたようだった。


エマは、うっとりと湾を眺めている。

その髪先が風に踊って、リックの頬をくすぐった。


「エマ」


リックが、今一度囁いた。

両手の指先を、エマの両頬から顎先へと滑らせる。

そして、エマのふっくりとしたくちびるに親指で触れ、リックはゆっくりと、自らのくちびるをエマのくちもとへと近づけた。


エマのくちびるのやわらかさに、リックの背筋にゾクゾクとしたものがこみ上げる。


その刹那、リックの頬がエマの右手で張り飛ばされた。


何が起こったのか、リックにはとっさには解らなかった。

呆然と瞬きをして、半ば口を開けたまま立ち尽くす。


「な……なんてこと……を」

エマの声が、かすれて震える。


それは……別に、ぶたなくったってよかったけれど。

でもこんな。だって……。

初めてのくちづけだったのに。


エマの水色の目に、熱いものがこみ上げる。

リックの頬を打った掌が、今になって痺れ始めていた。


「す、すまない、エマ」

エマの突然の涙に、リックも激しく狼狽した。


「悪かった、僕が悪かったから、どうか、その……泣かないでくれないか」


リックの謝罪も空しく、エマは、バッグからハンカチーフを取り出しして、本格的に泣き始めた。


……どうしよう。そんなにも、そんなにも、キスが嫌だったんだろうか。


いや、そうは言ったって。

ほとんどくちびるなんか、付けていなかった。僕のキスが、泣きたいほどに下手だったというわけでもあるまい。

それとも。

エマが僕に好意を持ってくれているなんていうのは、僕の独りよがりだったのだろうか?


リックの頭の中で、明確さを欠く様々な考えが渦巻く。


さて、どうしたらいいのか……。


ここまでではなかったものの、確か、僕は似た様な目にあったことはなかったか?


そう。経験を振り返るなら。

もう一度、抱きしめたりくちづけたりすると、意外に、ぴたりと泣き止んでくれたこともあったような。

そうだった。その後は、女の子の方も、ずっと積極的に接吻を交わしてくれるようになって……。


だがリックは、その解決手段に訴える勇気を出せなかった。


もし、もっとエマを傷つけてしまったら。

取り返しがつかないほど、嫌われてしまったら。そう思うと、とても無理だった。


エマは、エマとて、自らの昂ぶった感情の収拾をいつまでもつけられないほどに幼いわけではない。

じきに嗚咽を飲み込むと、涙を抑えて息を整えた。


「大丈夫です、キンドルさん、わたし、ちょっと驚いてしまって……」


「ああ、エマ。失礼を赦してくれ……でも僕は、君を」


愛しているんだ、と言おうとして口を開きかけたところで。

リックは、エマが自分の肩越しに、何かに目を奪われていることに気が付いた。


「エマ……? どうかした」


と、エマが、リックの上着の両肩をきつく掴む。

「キ、キンドルさん、あれを……あれを!」


エマのあまりのうろたえぶりに、リックも慌てて振り返った。


ひとりのご婦人が、今にも下へと落ちそうに、テラスの石垣から身を乗り出していた。







リックが慌てて、石垣へと駆け寄った。

ご婦人のボレロの裾をしっかりと掴んで、こちら側へと引き戻す。


「大丈夫ですか? マダム、しっかり!」


リックは声を掛ける。

ご婦人の足元は、ふらふらとよろめいていた。

だが、あらゆる事態を想定しておくリックが、もっとも厄介なこととして想像した失神騒ぎなどは、ありがたいことに起こしたりはしなかった。


「一体、どうなさったのですか」


リック・キンドルが、マルタ騎士団の騎士のように、馳せ参じて命を助けたご婦人は、どこと言ってどう特徴もない、典型的なアッパーミドルクラスのイギリス人女性といった風情だった。

中年に差し掛かっていて、おそらく独身で、友人か親戚との旅行の途中なのだろう。

こんな場所には、まさに吐いて捨てるほどいる類のご婦人だ。


「ああ、どうもご親切にありがとうございます。まあ、なんてことだったのでしょう、わたしったら」


婦人が、リックの手をそっと握る。


「いえね、景色と一緒に、旅行本の地図を見ようと思ったのですわ。そうしたら、ポケットからピルケースを落してしまって。つい身を乗り出してしまって」


お探しするのをお手伝いしましょう? と礼儀上、ごく慇懃に訊ねるリックに、婦人が慌てて言い返す。


「まあ、いいえ、そんな。あんなものは、小さいですから、斜面を転がって、どこか藪にまぎれてしまっていますわ、いいんですのよ、特段の品でもないのですから、それは諦めがつくんですの」


婦人の言葉に、リックは正直、安堵する。

「では、ぜひ手伝ってくれ」などと言われても、実は少々困るというのが本心だったからだ。


「おひとりですか? どなたかお連れの方は?」

リックがすかさず話を変えた。

この気の毒なご婦人を、早く誰かに手渡して、エマの元へと戻らねばと、リックは少々焦っていたのだ。


「ええ、この旅行は、従妹のマーガレットと来ましたのよ、でも、マーゴったら、今日はひどい頭痛がするとかで、ほら、こちらは陽射しがきつうございましょう、きっと、それに当てられたのですわ」


「では、今は、おひとりで?」


リックが辛抱強く聞き返す。

すると、エマが駆け寄ってきた。


「キンドルさん、こちらのご婦人は、大丈夫でいらっしゃるんですか?」


「まあまあ、ご親切に、お嬢さん、ええ、大丈夫ですとも、お連れの方に助けて頂いて。本当に」

婦人が、エマにおっとりと返答する。


「そう、わたしとマーゴのお宿はすぐそこなんですの、だから、ほら、ちょっとここまでならと思って。ひとりで散歩に来ましたのよ、まあ本当に綺麗なところだから、後でマーゴも連れてきてあげなくっちゃね」


「ホテルまで、お送りしましょう?」

エマがごく親切に申し出た。


「いいえ、大丈夫ですよ、お嬢さん。ほら、もうすぐそこですから。ええ」

婦人は、またひとしきり、リックに礼を言うと、エマの申し出を固辞して、歩み去って行った。


やれやれ。

リックは、思わず声に出して、そう言いそうになった。


まったく、とんだ邪魔が入ったものだ。

せっかく、あの美しい景色を見ながら、いいムードで。


そうだ、エマにキスをしたのだった。

まあ、ちょっと泣かれたりはしたが、ともかく、僕はエマに「愛している」と言おうとしたところだったのに。


ふと気づくと、エマが何とも言えない表情でリックを見上げていた。


ああ、まったく……また最初からやり直さねば。


リックはあたりに素早く視線を走らせる。


花壇の奥に、白くペンキを塗った洒落た鉄製の椅子とテーブルが並べられていた。


「おや、エマ。あそこで何か冷たいものが飲めそうだよ。なんだか、すこし喉が乾かないかい?」


リックの誘いに、エマは大きく頷いた。

確かに、マルタ島の空気は、ひどくからりと乾燥しているのだ。






リックとエマは、シャンディを注文した。

「マルタのシャンディは、ロンドンのパブで飲むよりも、ずっと良い」という記事を、エマが旅行本で読んでいたからだ。


確かに、すがすがしい気候のせいなのか、地ビールがレモネードに合うからなのか、マルタのシャンディは、非常にご機嫌で軽快な飲み物だった。


軽いアルコールで、ふたりの気分はほぐれ、互いの昔話や、ちょっとした噂話に花が咲く。

リックは、かつて仕えていた偏屈で有名な変人男爵の奇行の数々を、面白おかしくエマに話して聞かせた。

エマはといえば、今の主人の熊髭が、いかに食えない人物であるかとか、愛らしい女主人が、やっと駱駝のキンドルさんとダチェットのキンドルさんとの関係を知るに至ったことなどを、とうとうとリックに語った。


そしてエマは、英国一のカントリーハウスと賞賛されるアンテソープと、その持ち主であるダチェット伯爵夫妻に興味津々だった。

なにかと話をねだられ、リックも当り障りのない範囲で、エマの希望に応えていたわけだが、二杯目のシャンディのせいで、どうやら少しばかり、余分なことまで口にしてしまいそうになっていた。


いかんな……。

リックは、気を引き締め直す。


そもそも、今日はエマに「噂話を聞き出されるために」出かけてきたわけじゃないのだ。

エマに、自分の気持ちを伝えて……できれば、エマもどう思っているのかを聞き出して。


そして、最終的には。

プロポーズを……。


と、そこまで思い至ったとたんに、リックの頬は真っ赤に染まった。


プ、プロポーズ……は、いや。

まだすこし、早いだろう。

期限までには、あと一か月強、時間はあるのだから。


もっと、こう、親しいムードになってからだ。

せめて、キスがスムーズにできるようになってから……。


「……リック、どうかしましたか?」

ひとりで顔を赤くしているリックに、エマが不思議そうに問いかけた。

「もしや、すこしお酒が回りましたかね? ちょっと風に当たったらどうでしょうね」


「い、いやいや、エマ、このくらいの酒では、どうもなりはしないさ。だが、そうだね。そろそろまた、すこしドライブを楽しむのもいいだろうな」


リックの提案に、エマは喜んで頷いた。

手を上げて、リックは勘定書きを呼びつける。

そして上着の内ポケットに手を入れた瞬間に、リックの顔から血の気が引いた。


そこにあるはずの、財布がなかった。


なるべく落ち着き払った様子で、リックは別のポケットに指を滑らせてみる。

そして、また別のポケット、スラックスのポケットと、あらゆるポケットを探し回る。


「リック?」

問いかける、エマの不安げな声が、さらにリックの焦燥感をあおっていた。


「いや、なんでもない、エマ」

仮にもダチェット伯の凄腕の家令リック・キンドルとしては、どうあっても、表向きだけでも平静さを崩すわけにはいかなかった。


だがじきに、勘定書きを手にしたボーイが焦れてきて、これ見よがしに苛立たしげに、靴の踵を鳴らし始めた


「あっ……」

思わず、リックの口から声が洩れた。


「あの……ご婦人!」


あの女だ。

あの、どこと言ってどう特徴もない、平々凡々とした中年女性だ!

塀から落ちそうになる騒ぎを起こして、あのドタバタにまぎれて……。


「ひとの財布……スリ取りやがったな!!」


リック・キンドルの尋常ならざる癇癪ぶりに、舐めた態度を取っていたボーイも、はらはらしながら状況を見守っていたエマも、仰天して目を丸くする。


だが、エマは機転の利く聡い娘だったから、リックの一言で、とたんに事態を把握した。


「とにかく、リック、ここは私が」といって、ハンドバッグから小銭を取り出すと、多めのチップを添えて、ボーイに握らせる。


しかし、リック・キンドルはというと、すっかり頭に血が上りきっていた。

砂漠にいる偶蹄目の動物にそっくりの大きな目をさらに大きく見開いて、「あの……おんなめ」と呟いて、怒りを爆発させた。


普段であれば、どちらかというと斜に構えて、ごく冷めた空気を纏っているリック・キンドルだ。

自他認めるやり手。若いが切れ者。

その評価は、決して過大なものではないと、リック自身も、実のところ少々自負があった。


生き馬の目を抜くロンドンの、イーストエンドの場末を歩いている時だって。

懐から財布をすられたことなどないのだ。

しかも、今は旅行中。

身辺には、いつもに増して気を付けていた。


だが、今日は、いつものリック・キンドルではなかった。

そう。

ついさっきのまでのリック・キンドルは、まったくいつものリック・キンドルではなかった。

愛しい女性にくちづけて、愛の告白をしようとしていた矢先だったのだ!


「リック……お財布には、お金はたくさん入っていたのですか? なにか……お金に替えられない大切な書類などは入れていませんでした?」


エマがそっと、だが、ごく要領を得た質問をリックに投げかけた。


確かに、金は多めに入っていた。

いつもならば、そんな額を持ち歩いたりはしない。

だが、今日は特別だ。エマをエスコートするのだ、何があるかわからない。

それなりの持ち合わせがあるに越したことはないだろうと、そう思ったのだ。


だが、それはいい。金は、所詮、金だ。

他に、替えの利かないものは、財布には入れていなかった。だから、それはいいのだ。


しかし。

エマの目の前で、こんな無様な振舞いをせねばならないとは!

なんたることだ……!!


リックが憤っているのは、ズタズタにされた自尊心ゆえだった。

近々、プロポーズをしようと思っている女性の前で、大恥をかかされたのだ。


許せん……あの女。

リックの頭には、一気に血がのぼった。


「あの……リック、きっと望みは薄いと思うのですが、一応、警察に届けたらどうですかね、ほら、この旅行本に警察の住所がありますよ」

エマがハンドバッグから、旅行本を取り出して、リックへと指し示して見せる。


だが、そんなエマの声も、怒り心頭のリックの耳にはまるで届いていないらしかった。


「まだその辺をウロウロしているに違いない……あいつ、とっ捕まえてやる」

リックは吠えるように口にして、女が去って行った方角へと、半ば駆け出すように歩き出した。


「ちょっと、リック、待ってくださいよ」

エマが慌てて、その後を追う。




10




そして、リックはエマを連れて、あてもないままに、バラッカガーデンの周りの宿屋を歩き回った。

だが、リックが甘く見たようには、件の女スリの姿は見つからない。


当然だろう、相手は、この風光明媚な観光地マルタ島の都ヴァレッタで、旅行者の懐を狙い続けてきたプロなのだ。

どこと言ってどう特徴もない、女の平凡な姿形のせいもあって、公園から消え去ってからの女の行方はようとして知れなくなっていた。


それでも諦めきれぬように、美しい古都をあてどなく歩き続けようとするリックに、とうとうエマが、「キンドルさん」と、ぴしりと声を掛けた。


「もう、無理ですよ。諦めましょう。お金だったら、わたしも幾らかは持っていますし、心配いらないですよ」


「エマ……」

リックは、そこで、はたと冷静さを取り戻した。


何をやっているのだ、僕は。

こんなにいつまでも、エマを連れまわして歩き回って!


「ああ、すまなかった、エマ。こんなことに君を引き込んでしまって、せっかくの休みだというのに、僕は」


「ええ、ええ。それはもういいですから。ともかく、そろそろホテルへ戻りましょう。だいぶ日も傾いてきましたよ」


エマの言うとおり、もう随分と遅い時間になっていた。

リックとエマは、車を止めた場所、バラッカガーデンの傍の湾沿いの道まで、歩き出す。


黄昏始めた、古都ヴァレッタは趣のある美しい場所だった。

ゆったりと、愛しい人とそぞろ歩きをするには、もってこいに違いなかった。


エマが時折、綺麗な土産物や物珍しいなにかに目をとめて、リックに、明るく声を掛ける。

こんな散々なデートにつき合わされたエマなのだ。

自分に対し、膨れ面をして、つんけんと剣突を食らわせて当然なのに、あくまでもリックに気を使ってくれる、そんなエマの明るくやさしい振舞いが、逆にあまりにも自分の不甲斐なさを際立たせるようで、リックはせつなくて仕方がなかった。


それに、実のところふたりとも、相当にくたびれ果ててもいたのだった。

シャンディを二杯飲んで、強い午後の陽ざしの中、慣れない街の石畳を歩き回ったのだから、それも当然だろう。

自動車にたどり着く前に、すでに、エマとリックの間には、交わされる言葉もすっかり無くなってしまっていた。


潮風に吹かれながら、ホテルへと戻るドライブは、まるで通夜か葬式と言ったところで、もはやリックは、プロポーズどころか、これからのエマとの交際まで、お先真っ暗としか思えなくなる。


日もとっぷりと暮れた頃、エマとリックはホテルへと戻ってきた。

シャンデリアには、すでにすべて灯がともされていて、ロビーホールは、燦然ときらめいていた。

そろそろ燕尾服や夜のドレスに身を包んだ紳士淑女たちが、食前酒を手にするために集まってくる時刻だ。


そして、エマにもリックにも、一流のご夫妻に仕える使用人の矜持というものがあった。

ボロボロに疲れ果ててはいたが、自動車から降りてロビーに足を踏み入れた途端、しゃきりと首筋を伸ばし、きびきびと部屋へ向かって歩き出す。


「ただいま戻りました」

リックが、ぴしりと背筋を伸ばし、涼しい無表情を顔に貼り付け、セオドア・ウィリアム・バートラムの前で帰還を告げた。


「ああ、随分ゆっくりしてきたようだな? ドライブはどうだった、楽しめたかい?」


テディは、長椅子にゆったりと身体を預け、膝の上に広げた分厚い書物に目を落したまま、リックに応じる。


「ありがとうございます、バートラム様。おかげさまで、大変堪能いたしました」

リックが、しれっと即答する。


テディが本から視線を上げた。

「おや、どうしたキンドル君。随分と、疲れた様子に見えるが?」


「いえ、特には、バートラム様」

リックがごくごく無表情のままで応じる。


「そうかい? だが、髪もひどく乱れているぞ」

テディが畳みかける。

「自動車の窓から、海風が吹き込みましたゆえ」

リックが、またしても即座に打ち返した。


ふむ、とひとつ唸ってから、今度は、テディはエマに目を向けた。

「そら、エマもだ。すこし顔色が悪いように見えるが? 陽射しが強すぎたかい」


「大変恐れ入ります、旦那様」

エマは、一言応じて膝を曲げた。

そしてすこしの間の後に、こう続ける。


「ときに、奥様はどうなさったのですか? そろそろ晩餐のお仕度をお手伝いした方がよろしい刻限だったかと」


「ああ、そうだな。だが、リルは今、寝室で眠っているのだよ。起さないでやった方がいいかと思うのだが」


「奥様こそ、どこかお加減でも?」

エマが、すこし勢い込む。


「いやいや、エマ」テディが、慌てて打ち消した。

「そんなことではない、ちょっとした昼寝といったところだ」


「『昼寝』? ですが、もうすっかり夜でございますが、旦那様」

エマはそう言って、テディに今一度カーテシーをしてから、寝室へと向かって歩き出す。


「奥様、失礼いたします。エマにございます。入ってもよろしゅうございますか?」

エマの問いかけに、リルのちいさな、くぐもった声が応じた。


「奥様」

中に入ったが、あえてドアは締めずにおいて、エマが寝台へと歩み寄る。

「どうなさいました、お加減でも?」


「まあ、エマ……? お帰りなさい。ドライブは楽しかった?」

とろけてしまいそうに頼りない声で問いかけると、リルが寝台の上で身体を起した。


「ええ、まあ。とても楽しゅうございました」

そう言った声音は、正直「楽しい」という感じとはほど遠いものだった。


「エマ、どうかして? 何かあったの、キンドルさんと仲よくできなかったの?」


「奥様……! 『仲良く』だなんて」

エマは、ふと、夢のように美しい光景の中、不意にリック・キンドルに奪われたくちづけを思い出して、赤面した。


「だって、エマ。あなたキンドルさんのことが、『好き』で『可愛らしい』と思っているのでしょう?」

リルが、ごく素朴に問いかけた。


「ええ、まあ奥様、それはどちらかというと、駱駝のキンドルさんのことで……」


ああそれにしても、今日のリックときたら、なんて子供っぽかったのでしょう。あんなにスリに腹を立てて。ダチェット伯のやり手の家令、いつも涼しげなリック・キンドルとは大違い。

まあ確かに、ああいうところは「可愛い」といえば、可愛らしかったかもしれない。


エマは、思わず小さな含み笑いを洩らす。


「あら、エマったら。思い出し笑いなんかして。じゃあやっぱり、きっと今日は楽しかったのね? そうでしょう?」

リルもまた、ちいさな銀の鈴を鳴らすように笑って見せた。


「そうですねえ、ええ、まあ思い返してみれば、なかなか楽しかったようですよ」

そんな達観したような感想で締めくくると、エマがそっとリルの手に触れた。


「奥様、そろそろ晩餐のお着替えをなさった方が」


「エマ……」

リルが、小さく溜息をつく。

「あのね、わたし、今日はお夕食をちっとも欲しくないのよ。だって、なんだかとても疲れてしまって。ずっとこうして寝ていたい気持ちなの。ごめんなさい」


「お疲れって、奥様、だって……今日は、旦那様が、一日部屋でゆっくりなさるって。お身体をお休めになったのではなかったのですか?」

エマが目を丸くして問いかける。


「そう……今日はずっとお部屋にいたのよ、エマ、でも、わたし、とてもくたびれてしまったの……」

ひどく眠そうに、リルが応じた。


今、リルが纏っているのは、朝に着ていた散歩用のラベンダー色のドレスではなくて、クリーム色のティーガウンだった。

それもどうやら、ティーガウンの下は、シュミーズも下着も、一切着けていないようだ。


……まったく! あのエロ熊ときたら。

何が「君もここらで、すこし休息するべきだ」よ!


休息どころか、こんなに奥様を疲れさせて。

本当に、いつになったら加減というものをわきまえるのだか!


エマは深々と溜息をつくと、上掛けを引き上げてリルの華奢な肩をそっと包んだ。


「かしこまりました、奥様。キンドルさんに頼んで、何か軽くて身体が温まる食べ物を、お部屋に運んでもらうように言いつけてもらいましょう」


「ごめんなさいね、ありがとう……エマ」


語尾が頼りなく震えて消える。

そして、リルは瞼を閉じた。


寝室から洩れ聞こえてくるメイドと女主人の会話に、テディとリックは耳をそばだてて聞き入っていた。


「……バートラム様も、今日は随分と『楽しまれた』ようで。なによりでございましたね」

リックが静かに問いかけた。


「ああ、今日は久しぶりに『ゆっくり』したね」

いけしゃあしゃあと、テディが返す。


「エマ。今日は俺もここに夕食を運ばせるから、君たちも今日は、自室に戻ってゆっくりくつろぐといい。ああ、そうだ、君たちの分も食事を届けさせよう。『ふたりで』夕食を取るといい」


勝手にそう取り決めると、テディは悦に入って、髭だらけの顔で微笑んだ。

エマがこっそりと、苦々しい顔をして見せる。


そう……今日は、せっかくのチャンスを。

得点どころか、失点ばかりだった。

業務用の無表情を貼り付けた顔の下で、リック・キンドルは臍を噛む。


だが、これしきのことで……そう簡単に、エマを諦めてたまるものか。


今度のチャンスは、無駄にはしない。

ふたりきりの食事で、せめて今日の失点だけは、回復しておかなければ。


……そして、ゆくゆくは、絶対。


エマにプロポーズをしてみせるぞ。


そして、リック・キンドルは、砂漠に住む偶蹄目の動物めいた大きな瞳の奥に、再び闘志を燃え立たせるのであった。



<リチャード・キンドル、ダチェット帰還まで、あと1か月強>


エマにプロポーズは可能なのか。

頑張れ、リック。

まだチャンスある……だろう、ということで、つづく? かな)<


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