第六章 雲の上の港
ボォォォォ……。
低い汽笛の音が、夜空に響いた。
キオは音のする方へ歩いていった。
時計塔から港までは、思っていたよりも距離があった。
大通りを抜け、小さな橋を渡り、いくつもの店が並ぶ坂道を下っていく。
道の両側には、相変わらず提灯が吊るされていた。
赤い光。
黄色い光。
青い光。
ときどき頭上を小さな飛行船が通り過ぎ、その影が石畳の上をゆっくりと動いていく。
キオは空を見上げた。
船の底から、青白い光が漏れていた。
船尾には大きなプロペラがついている。
くるくると回りながら、船は建物の向こうへ消えていった。
「……あんなのもあるんだ」
キオは再び歩き始めた。
やがて道が広くなり、建物の数が少なくなってきた。
それまで聞こえていた音楽に混じって、金属のぶつかる音や、大勢の人が呼び合う声が聞こえてくる。
「三番船、出港準備!」
「荷物は全部積んだか!」
「まだ二箱残ってるぞー!」
何やら忙しそうだった。
キオが角を曲がると、目の前が急に開けた。
「……わあ」
そこには、巨大な港が広がっていた。
ただし、海はなかった。
港の向こうに広がっているのは、どこまでも続く雲の海だった。
白い雲が波のようにうねり、その上に何十隻もの船が浮かんでいる。
大きな帆船。
細長い金属製の船。
巨大な風船をいくつもつけた船。
翼のようなものを左右に広げた船。
そして、家ほどもある大きな貨物船。
どの船も空に浮かんでいた。
桟橋は何本も伸びている。
その先では、船員たちが忙しそうに働いていた。
荷物を運ぶ者。
帆を畳む者。
船体を磨く者。
大きな地図を広げて相談している者。
人間だけではなかった。
角の生えた大男が樽を担いでいたり、小さな機械が何台も列になって荷物を運んでいたりする。
キオは、その光景をしばらく眺めていた。
地上の港を見たことはある。
家族で海へ出かけたとき、大きな船が停まっていた。
でも、ここはまったく違う。
船の下には水がない。
落ちたら、どこまで落ちるのだろう。
キオは桟橋の端へ近づいた。
そっと下を覗き込む。
足元には白い雲が広がっていた。
その隙間から、はるか下に小さな光が見える。
地上の街の灯りかもしれなかった。
「坊主! そこから身を乗り出すなよ!」
突然、声がした。
キオは振り返った。
大きな木箱を肩に担いだ男が立っていた。
日焼けした顔に、太い眉毛。
袖をまくった腕には、大きな傷跡がいくつもあった。
「落ちたら大変だからな!」
「……うん」
「見物か?」
「うん」
「そうか! だったら、あっちの見学通路を歩きな!」
男は港の右側を指差した。
そこには、手すりのついた広い通路があった。
「船がよく見えるぞ!」
「ありがとう」
「おう!」
男は木箱を担ぎ直すと、足早に去っていった。
キオは言われた通り、見学通路へ向かった。
*
通路のすぐ横には、大きな貨物船が停まっていた。
黒い船体に、銀色の線が何本も描かれている。
船の側面には、丸い窓がずらりと並んでいた。
そして船体の下には、青い光を放つ大きな輪が三つ取り付けられていた。
輪はゆっくりと回っている。
ブゥゥゥン……。
低い音が聞こえた。
キオは手すりにつかまり、船を見上げた。
「大きい……」
船の上では、何人もの作業員が荷物を積み込んでいた。
野菜の入った木箱。
小麦粉の袋。
大きな樽。
金属の部品。
そして、何に使うのか分からない、細長い筒のようなもの。
荷物は小さな機械たちによって運ばれていた。
ガチャ、ガチャ、ガチャ。
四本足の機械が木箱を背中に載せ、規則正しく歩いている。
その横を、車輪のついた機械が走っていった。
『にもつ、にもつ、にもつ』
機械が声を出していた。
『にもつを、はこびます』
キオはその機械を目で追った。
すると、別の機械が前からやってきた。
『みぎへ、まがります』
『ひだりへ、まがります』
二台は同時に曲がった。
ガコン!
正面からぶつかった。
積んでいた木箱が、ガラガラと崩れ落ちる。
『……』
『……』
二台の機械は、しばらく動かなかった。
キオは目を瞬いた。
すると、一台が言った。
『みぎへ、まがります』
もう一台も言った。
『ひだりへ、まがります』
再び動き始める。
ガコン!
またぶつかった。
「お前ら、何やってんだ!」
近くの作業員が駆け寄ってきた。
「ほら! 一台ずつだ! 一台ずつ!」
男が機械の向きを変えてやる。
すると二台は、何事もなかったように進んでいった。
『にもつを、はこびます』
『にもつを、はこびます』
作業員は大きなため息をついた。
「まったく……何度教えても覚えねえなあ」
キオは思わず笑った。
「……ふふっ」
男が顔を上げた。
「おっ、見てたのか?」
「うん」
「笑い事じゃねえんだぞ。毎晩ああなんだから!」
そう言いながらも、男は笑っていた。
キオは二台の機械が遠ざかっていくのを見送った。
便利そうだけれど、少し抜けている。
さっき魔道具屋で見た、忘れ物を忘れてしまう箱に似ていると思った。
*
通路を進むと、今度は小さな船が何隻も並ぶ場所に出た。
船の大きさはさまざまだった。
二人乗りほどの小さなものもあれば、十人くらい乗れそうなものもある。
どの船も、少しずつ形が違っていた。
丸い船。
細長い船。
鳥のような翼をつけた船。
帆の代わりに、大きな花びらのようなものを広げた船まである。
キオはその一隻の前で足を止めた。
小さな木造船だった。
船体は赤く塗られ、左右には短い翼がついている。
船尾には、小さなプロペラ。
そして、船の真ん中には青い球が取り付けられていた。
球は淡く輝いている。
その船の横で、一人の少女が工具を握っていた。
年齢はキオより少し上くらいだろうか。
短い栗色の髪。
額には大きなゴーグル。
青い作業着を着て、腰にはたくさんの工具を下げている。
少女は船の下に潜り込み、何かを調整していた。
カチン。
カチン。
「……あれ?」
少女が顔をしかめた。
「おかしいなあ」
小さな金槌で船底を叩く。
コンコン。
すると、船の翼が突然動いた。
バサッ!
「うわっ!」
少女が飛び出してきた。
翼が一度だけ大きく羽ばたき、すぐに止まった。
キオはその様子を眺めていた。
少女が気づいた。
「……何?」
「……別に」
「見物?」
「うん」
「そっか」
少女は額のゴーグルを持ち上げた。
「これ、あたしの船なんだ」
「自分の?」
「うん!」
少女は誇らしげに胸を張った。
「まだ修理中だけどね!」
キオは船を見た。
「……壊れてるの?」
「壊れてないよ!」
少女はすぐに答えた。
「ちょっと調子が悪いだけ!」
そのとき、船の翼が再び動いた。
バサッ!
今度は反対側だけだった。
少女はゆっくりと振り返った。
「……ほらね」
「……うん」
「今のは、ちょっと失敗」
少女は頭をかいた。
キオは船の真ん中にある青い球を指差した。
「これ、何?」
「ああ、浮遊石だよ」
「浮遊石?」
「船を浮かせるための石」
少女は船に近づき、球の横を軽く叩いた。
青い光が少し強くなる。
すると、船体がふわりと浮き上がった。
地面から、キオの膝くらいの高さまで。
「……浮いた」
「でしょう?」
少女は嬉しそうに笑った。
「これで浮かんで、翼とプロペラで進むの」
「魔法?」
「浮くのは魔法。でも、進む仕組みは機械も使ってるよ」
少女は船尾のプロペラを指差した。
「こっちは自分で作ったんだ」
「自分で?」
「うん!」
キオはプロペラを見た。
金属の羽根が四枚ついている。
ところどころに傷があり、塗装も少し剥がれていた。
新品には見えない。
でも、少女はとても嬉しそうだった。
「……作るの、大変だった?」
「大変だったよ!」
少女は即答した。
「最初は全然回らないし、やっと回ったと思ったら逆向きだし!」
「逆向き?」
「そう! 船が後ろに進むの!」
少女は大きく笑った。
「危うく倉庫に突っ込むところだったんだから!」
キオは船を見た。
「……怖くないの?」
「怖かったよ!」
「じゃあ、やめないの?」
少女は不思議そうな顔をした。
「なんで?」
「だって、失敗するんでしょ?」
「そりゃあ、するよ」
少女は工具を手に取った。
「でも、直せばいいじゃん」
「……」
「ちゃんと飛べたとき、すっごく嬉しいんだから!」
そう言って、船の下へ潜り込んだ。
カチン。
カチン。
金属の音が響く。
キオはしばらく、その場に立っていた。
少女は何度も部品を調整していた。
小さなネジを締めたり、別の部品に取り替えたり。
ときどき船の翼が動いた。
バサッ。
また止まる。
バサッ。
今度は二枚とも動いた。
「……よし!」
少女が船の下から飛び出してきた。
「できた!」
少女は船へ飛び乗った。
舵の横にある小さなレバーを引く。
ブゥゥゥン……。
船尾のプロペラが回り始めた。
続いて、左右の翼がゆっくり動き出す。
バサッ。
バサッ。
船が少し前へ進んだ。
「やった!」
少女が叫ぶ。
船は桟橋の上を、ふわふわと進んでいった。
けれど、すぐに止まった。
「……あれ?」
少女が首を傾げる。
プロペラは回っている。
翼も動いている。
それなのに進まない。
少女は少し考えた。
そして、ぽんと手を叩いた。
「あっ!」
船から飛び降りる。
船尾へ回ると、一本の太いロープを外した。
船を桟橋につないでいたロープだった。
「……つないだままだった」
キオは思わず笑った。
「ふふっ」
少女も笑った。
「あはは! そりゃあ進まないよね!」
ロープを外した船が、少しずつ前へ動き始めた。
少女は慌てて飛び乗った。
「よーし!」
小さな赤い船が、ゆっくりと桟橋を離れた。
ふわり。
少し高度を上げる。
そして、港の上を大きく旋回した。
キオは顔を上げた。
船は左右の翼をゆっくり動かしながら、夜空を飛んでいる。
「飛んだー!」
少女の嬉しそうな声が響いた。
近くの作業員たちが振り返った。
「おお、ルッカ! とうとう飛んだか!」
「やったな!」
「今度はぶつけるなよー!」
「分かってるってば!」
少女――ルッカは笑いながら手を振った。
そのまま船は港を一周し、ゆっくりと戻ってきた。
桟橋の横で静かに停止する。
ルッカは船から飛び降りた。
「どうだった?」
キオに尋ねた。
「……飛んでた」
「そうでしょ!」
ルッカは嬉しそうだった。
「やっぱり翼の角度だったんだ!」
キオは船を見た。
さっきまで動かなかった船が、今は静かに浮かんでいる。
ルッカは船体を軽く叩いた。
「よく頑張ったね!」
まるで生き物に話しかけているようだった。
キオは少し不思議に思った。
「……船に言ってるの?」
「うん!」
「返事しないよ?」
「知ってるよ!」
ルッカは笑った。
「でも、頑張ったのはこの子も一緒だからね!」
キオはもう一度、赤い船を見た。
船は何も言わなかった。
ただ、青い浮遊石が静かに輝いていた。
*
「ねえ、キオ」
ルッカが突然言った。
キオは顔を上げた。
「……なんで名前知ってるの?」
「え?」
ルッカも不思議そうな顔をした。
「……あれ?」
二人は顔を見合わせた。
「そういえば、聞いてないね」
「うん」
「なんで知ってたんだろ」
ルッカはしばらく考えた。
けれど、すぐに肩をすくめた。
「まあ、いいか!」
「……いいの?」
「うん!」
ルッカはにっこり笑った。
「キオって名前なんでしょ?」
「そうだけど」
「だったら合ってるじゃん!」
キオは少し考えた。
確かに、名前は合っている。
でも、どうして知っていたのだろう。
ルッカはもう船の方を向いていた。
「ねえ、ちょっと乗ってみる?」
「……いいの?」
「もちろん!」
ルッカは船を指差した。
「港を一周するくらいなら大丈夫だよ!」
キオは赤い船を見た。
小さな船だった。
迎えに来た船と同じくらいの大きさだろうか。
ただし、こちらには帆がない。
代わりに短い翼とプロペラがついている。
「……落ちない?」
「落ちないよ!」
ルッカは自信満々に答えた。
そして、少し考えた。
「……たぶん!」
「……」
「あっ、冗談だって!」
ルッカは笑った。
「浮遊石はちゃんと動いてるから!」
キオは船を見た。
青い石が静かに光っている。
少し迷った。
さっきはちゃんと飛んでいた。
それに、港の上を一周するだけなら、そんなに時間もかからないだろう。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
「決まり!」
ルッカが嬉しそうに手を叩いた。
「こっちから乗って!」
キオは船へ足をかけた。
船体は少し揺れたが、すぐに安定した。
小さな座席が二つ並んでいる。
キオは後ろの席に座った。
「ベルトを締めてね!」
「うん」
ルッカが舵を握る。
「それじゃあ、出発!」
レバーを引いた。
ブゥゥゥン!
プロペラが回り始める。
翼がゆっくりと動いた。
ふわり。
船が上昇した。
「……あ」
桟橋が足元から遠ざかっていく。
少しずつ、港全体が見えてきた。
何十隻もの船。
無数の提灯。
大きな倉庫。
忙しく働く人々。
そして、その向こうには広大な雲海。
ルッカが叫んだ。
「どう? 気持ちいいでしょ!」
「……うん!」
キオは手すりを握った。
風が頬に当たる。
少し冷たい。
でも、気持ちよかった。
船は港の上をゆっくり進んだ。
右側を、大きな貨物船が通り過ぎていく。
甲板にいた船員が手を振った。
「おーい、ルッカ!」
「こんばんはー!」
ルッカも手を振る。
さらに進むと、今度は小さな丸い船が近づいてきた。
船体の下には、大きな風船のようなものがいくつもついている。
その船には、たくさんの子供たちが乗っていた。
「わあああ!」
「もっと速くー!」
楽しそうな声が響いていた。
「あれは遊覧船だよ!」
ルッカが教えてくれた。
「港の周りを飛ぶだけの船なんだ!」
「……そうなんだ」
「夜景を見るには最高だよ!」
キオは遊覧船を見送った。
そのときだった。
眼下の雲が、ゆっくりと盛り上がった。
「……?」
キオは下を覗いた。
白い雲の中から、大きな影が浮かび上がってくる。
最初は船かと思った。
けれど、違った。
長い体。
大きなひれ。
そして、ゆっくりと動く巨大な尾。
「……魚?」
キオがつぶやいた。
ルッカが振り返った。
「ああ! 雲クジラだ!」
「クジラ?」
「そう! 雲の中を泳いでるんだよ!」
大きな影が、ゆっくりと雲から姿を現した。
青白い体をした、巨大なクジラだった。
その背中には、小さな雲がいくつもまとわりついている。
クジラは大きく口を開けた。
ボォォォォ……。
低い鳴き声が響いた。
キオは目を見開いた。
「……すごい」
クジラはゆっくりと体を傾けた。
その尾が雲の上へ現れる。
大きな尾びれが、空気を押すように動いた。
そして、再び雲の中へ潜っていった。
白い雲が大きく波打つ。
しばらくすると、何事もなかったように静かになった。
キオは雲を見つめていた。
「……本当に泳いでた」
「そうだよ!」
ルッカは嬉しそうに答えた。
「たまに港の近くまで来るんだ!」
「いつもいるの?」
「ううん。今日は運がよかったね!」
キオは雲を見た。
もうクジラの姿は見えなかった。
でも、あの大きな体は確かに雲の中を泳いでいた。
地上の海には魚がいる。
空の雲にも、あんな生き物がいるらしい。
キオは少し考えた。
ほかにも何かいるのだろうか。
小さな魚もいるのだろうか。
それとも、もっと大きな生き物もいるのだろうか。
「……ねえ」
「何?」
「雲の中には、ほかにも生き物がいるの?」
「いるよ!」
ルッカは答えた。
「小さな雲魚とか、雲クラゲとか!」
「クラゲ?」
「うん! あれも綺麗なんだよ!」
ルッカは楽しそうに話し始めた。
夜になると青く光る雲クラゲ。
群れになって飛ぶ小さな雲魚。
そして、ときどき現れる巨大な雲クジラ。
キオはその話を聞いていた。
さっきまで知らなかった生き物ばかりだった。
ルッカは話し終えると、船の舵を港の方へ向けた。
「さあ、そろそろ戻ろうか!」
「うん」
小さな赤い船が、ゆっくりと旋回した。
眼下には、無数の灯りを輝かせる港が広がっていた。
*
船が桟橋へ戻ると、ルッカは慎重に高度を下げた。
ふわり。
船が静かに停止する。
「到着!」
ルッカがレバーを戻した。
プロペラが止まる。
キオはベルトを外して立ち上がった。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
ルッカは嬉しそうに笑った。
「どうだった?」
「……面白かった」
「ほんと?」
「うん」
「やった!」
ルッカは両手を上げた。
それから、自分の船を満足そうに眺めた。
「やっぱり、頑張って直してよかった!」
キオは桟橋へ降りた。
もう一度、赤い船を見る。
最初は動かなかった翼が、今はきちんと畳まれていた。
プロペラも静かに止まっている。
ルッカは小さな布を取り出し、船体についた汚れを拭き始めた。
「……まだ何かするの?」
キオが尋ねた。
「うん! 次はもっと速く飛べるようにするんだ!」
「……今ので十分じゃない?」
「全然!」
ルッカは即答した。
「もっと速く、もっと遠くまで飛びたいんだ!」
キオは少し考えた。
さっきの船でも、十分に速かった。
港を一周するには困らなかった。
でも、ルッカはもっと速く飛びたいらしい。
「……どうして?」
キオが尋ねると、ルッカは笑った。
「だって、もっと遠くまで行けたら、もっといろんなものが見られるじゃん!」
そう言って、夜空を指差した。
空には無数の星が輝いていた。
遠くには、雲に隠れた大きな塔が見える。
さらにその向こうには、暗い空がどこまでも続いていた。
キオはしばらく空を見上げた。
ルッカが何を見たいのかは、よく分からなかった。
でも、楽しそうだった。
「……そっか」
「うん!」
ルッカは再び工具を手に取った。
「それじゃあ、あたしは続きをやるね!」
「……まだやるの?」
「もちろん!」
少女は笑った。
「次はプロペラを少し大きくしてみようかな!」
キオは船を見た。
さっき直したばかりなのに、もう次のことを考えているらしい。
「……また壊れない?」
「壊れるかも!」
ルッカは平気な顔で答えた。
「でも、そしたらまた直すよ!」
キオは少しだけ笑った。
「……そうなんだ」
「うん!」
ルッカは船の下へ潜り込んだ。
すぐに金属を叩く音が聞こえ始めた。
カチン。
カチン。
カチン。
キオはしばらく、その場に立っていた。
それから、小さく手を振った。
「……じゃあね」
「またねー!」
船の下から、ルッカの声が返ってきた。
キオは見学通路へ戻った。
*
港を歩きながら、キオは何度も空を見上げた。
大きな船が飛んでいく。
小さな船が戻ってくる。
機械たちが荷物を運び、船員たちが大声で呼び合っている。
どこかでは、また金属を叩く音が響いていた。
港は賑やかだった。
中央広場とは違う賑やかさだった。
あちらでは、音楽が流れ、人々が踊っていた。
ここでは、みんな何かを作ったり、運んだり、動かしたりしている。
仕事をしているのだ。
でも、不思議と楽しそうだった。
先ほどの鍛冶屋もそうだった。
パン屋のおばあさんも。
ドラゴン肉の串焼きを焼いていた男も。
劇場の役者も。
時計塔の老人も。
そして、ルッカも。
みんな、自分のしていることを楽しそうに話していた。
キオは、そんなことを考えながら歩いていた。
学校では、将来何になりたいかと聞かれることがある。
友達は、いろいろなことを言っていた。
船長。
料理人。
医者。
飛行機の操縦士。
先生。
音楽家。
キオは、いつも何も思いつかなかった。
なりたいものなんて、特になかった。
それで困ったこともなかった。
でも、ルッカは船を作るのが好きらしい。
あの鍛冶屋は剣を作るのが好きだった。
パン屋のおばあさんは、自分で生地をこねるのが好きだった。
キオは自分の手を見た。
何かを作ってみたいと思ったことは、あまりない。
料理も、工作も、勉強も。
できないわけではない。
ただ、自分からやってみようと思わなかった。
キオは手を下ろした。
そのとき、港の奥から大きな汽笛が聞こえた。
ボォォォォ……。
何隻もの船が、一斉に動き始めていた。
大きな貨物船が桟橋を離れる。
続いて、小さな飛行船が上昇する。
船員たちが手を振り合っていた。
「よい旅をー!」
「またなー!」
キオはその光景を眺めた。
そして、ふと時計を見た。
港の入口に、大きな時計が取り付けられていた。
針は午前五時を少し過ぎている。
「……あ」
もう五時だった。
キオは少し驚いた。
いつの間に、そんなに時間が経ったのだろう。
船に乗って。
街を歩いて。
食べ物を食べて。
演劇を見て。
花火を見て。
そして、港でまた船に乗った。
気がつけば、三時間も経っていた。
キオは空を見上げた。
夜空の色が、少しだけ薄くなっている。
街の外側には、白い雲が広がっていた。
雲の端が、かすかに明るくなり始めている。
夜明けが近いのだろう。
「……そろそろ帰らないと」
キオは小さくつぶやいた。
母親が起きる時間も近かった。
朝になって部屋にいなかったら、きっと心配する。
それに、今日は学校もある。
キオは少し考えた。
楽しかった。
思っていたよりも、ずっと楽しかった。
また来てもいいかもしれない。
そんなことを思った。
でも、今日はもう帰ろう。
キオは港の入口へ向かった。
*
中央広場へ続く道には、相変わらず多くの人が歩いていた。
けれど、先ほどよりも少しだけ静かになっている気がした。
屋台の一つでは、店主が大きな布をかぶせていた。
別の店では、売れ残ったパンを籠に入れている。
道端では、眠そうな顔をした男が大きなあくびをしていた。
空の色が、ほんの少し明るくなっていた。
それでも、不夜城の灯りは消えていない。
提灯も。
照明も。
塔の窓も。
まだ街全体が、温かな光に包まれていた。
キオは歩いた。
最初に通った大きな広場。
音楽隊が演奏していた場所。
シャボン玉の老人がいた場所。
鍛冶屋の前。
そして、船着き場へ続く石畳の道。
見覚えのある景色が続いていた。
初めて来たときは、何も知らない街だった。
けれど今は、どこに何があるのか少し分かる。
あの角を曲がれば、ドラゴン肉の串焼き屋がある。
その先にはパン屋。
反対側へ行けば魔道具屋。
もっと奥へ進めば劇場がある。
キオは少しだけ、街を覚えていた。
小さな橋を渡る。
遠くに、最初にくぐった門が見えてきた。
青い炎の入ったランプが、まだ静かに揺れている。
あそこから、すべてが始まったのだ。
キオは門へ向かって歩いた。
来たときよりも、少しだけ足が疲れていた。
でも、不思議と嫌な疲れではなかった。
たくさん歩いた。
たくさん見た。
いろいろ食べた。
そして、たくさんの人と話した。
いつもの一日よりも、ずっと多くのことをした気がした。
門をくぐると、小さな桟橋が見えてきた。
迎えの船が停まっていた場所だった。
キオはポケットに手を入れた。
革袋が入っている。
硬貨は、まだ少し残っていた。
帰りの船に乗るとき、返した方がいいのだろうか。
そんなことを考えた。
桟橋へ近づく。
青いランプが、ゆっくりと揺れていた。
その先には、白い雲が広がっている。
キオは立ち止まった。
遠くで、小さな鳥のようなものが飛んでいた。
雲の向こうから、朝の光が少しずつ差し込んでいる。
「……そろそろ帰ろう」
キオはそう言って、桟橋の方へ歩き始めた。
楽しい夜だった。
いつもと違う、不思議な夜だった。
家に帰ったら、少し眠ろう。
それから朝ご飯を食べて、学校へ行く。
いつもの一日が、また始まる。
キオは、そう思っていた。
このときは、まだ。
第六章 雲の上の港 了




