7 初夏の終わりに
「――さん」
女湯から聞こえる水音が、いつのまにか消えていた。
「金城さん?」
ガラス戸の隙間から、アヤメが顔をのぞかせている。火照った頬を抑えながら入って来る。
「今、誰かと話していませんでしたか」
「え……」
親父さんとの会話を聞かれていたらしい。焦った遊はしどろもどろになる。
「今日に限らず、金城さんの声が聞こえていましたよ。喋ってましたよね?」
「違います。それは、ええっと……」
はい、じつは地縛霊と――なんて打ち明けられるかよ。
口ごもっていると、アヤメはますます訝しそうに眉をひそめて、
「じゃあ、歌ってたんですか?」
「っ、なんで歌!? 独り言ですってば!」
思わずつっこむと、「私の従兄弟は歌いながら掃除しているもので」と顔を赤らめた。アヤメは浴場を見回すと、踵を返す。
「清掃は終わったようですね。どうぞこちらへ」
遊は汗をタオルで拭いながら、脱衣所を進む彼女に続く。
待合室の籐椅子に腰を下ろす。黒革のマッサージチェアはかなりの年代物に見えるが、いつから在るのだろう。ここにいると、外界より時間がゆっくり流れている気がする。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
アヤメが手渡してくれた冷たい緑茶を、一礼して受け取る。彼女が隣に座ると、汗の匂いがかすかに香った。
「金城さん、今日も仕事お疲れ様でした」
「こちらこそ。……で、お話というのは?」
「はい。実は従業員をひとり雇うことにしたんです」
「へえ」
「といっても身内ですが。私の従兄弟なんです」
「ああ、僕が来ない日、清掃に来てくれているっていう」
「彼が本格的に銭湯の経営を手伝ってくれることに」
「そうですか。よかったですね」
「だから……金城コーポレーションさんとの契約も」
「不要になったってことですね。了解です」
さっきからモジモジしていたのは、これを打ち明けるためだったのか。遊は日焼けした壁に飾られたカレンダーに目をやった。
「今日は六月勤務の最終日だから、今日までの契約ってことでよろしいですか」
「うちはかまいませんけど……急に辞めてもらって大丈夫ですか。来月まで来ていただいても」
「駄目です。そんなことをしたらアヤメ湯さんで余分な経費がかかっちゃう。こっちは全然オッケーです。言ったでしょ? 身内だから無理が利くって。お茶いただきます」
ペットボトルの蓋を開け、口をつける。思っていたより喉が渇いていたようで、いっきに三分の一ほど呑み干してしまった。
アヤメ湯に出勤するのも今日が最後か。実感すると、急に寂しくなる遊であった。
「――それから」
申し訳なさそうにうつむいていたアヤメが、一度腰を浮かして姿勢を正す。
「金城さんは、私の正体に気づいていますよね?」
「正体とは?」
「私、動画サイトに投稿をしていて」
「アヤメさんが動画を?」
「ええ。札幌在住のファイター・シェンという」
アヤメさんがシェン!!?
あまりの驚きで、遊は籐椅子から転げ落ちた。
次の瞬間、彼の頭脳に雷のような衝撃が走り抜ける。宙の星を線で結び、星座が浮き上がるように。すべての事柄が繋がっていった。
「わかった、全てわかりましたよ。アヤメさん、あなたは元は男性だったんですよね!?」
武者震いしながら、遊は凄まじい勢いで立ち上がる。
「おかしいと思っていたんです。さっき、あなたが着替えていたのは、男湯の脱衣所だった。あれは男性だった頃の癖が抜けきっていないからだ」
アヤメは圧倒されて声も出ない様子。失礼ですが、と断りながらも遊は身を乗り出し、
「ご両親とケンカした理由もそれじゃないですか。性転換したいあなたと反対する親御さんとで諍いが起こった。あなたの地声はもっと低いはず。さあ、言ってみてください――例の決めセリフを!」
「ダラー! ワッシャー!!」
「うおー本物だぁ!!」
って、あれ……?
傍らのアヤメではなく、背後から気合の入った声がしたのは気のせいだろうか。
「あっははは! 超面白いね」
「沈くん!」
顔を真っ赤にしたアヤメが立ち上がる。彼女の視線の先には、暖簾をくぐってきた若い男。精悍な顔立ちをくしゃくしゃにして笑っている。
「アヤメがシェンだって! おっかしいなぁ」
「違うんですか!? というか、あの方は」
すみません、とアヤメは遊に向かって弁明する。
「私の従兄弟、大東沈です。銭湯を支援してくれている叔父の息子で、従業員になる予定の。それに――シェンは私じゃなく彼なんです」
「もうシェンは引退しちゃったけどね。アヤメがお世話になっています」
自然な感じで手を差し出してきたので、遊も条件反射で握り返した。
アヤメじゃなくて、この男がシェン……? まったく理解が追い付かない。そんなはずない。だって――
「タイガーマスクを持っていたのは?」
二日前、アヤメは黒と黄の柔らかそうな素材の何かを手にしていた。後から思うと、あれはシェンのマスクに違いなかった。
「あれは、ほつれてきた箇所があったので修正を」
「じゃあ、『プロテイン飲み比べてみた』の動画公開日、『栄養を取りすぎた』と苦しそうにしていたのは、撮影でプロテインを呑みすぎたからじゃ?」
「はい。私が用意して一緒に試飲しました。でも、私はシェンではなく、撮影する側で」
「アヤメさんがカメラマン!?」
生き生きとした臨場感のあるカメラワーク。たしかに、あれは一人では撮れない。
「男湯の脱衣所で着替えていたのは、単なるズボラだと思うよ。アヤメ、男子トイレにも平気で入るしな」
「それは、我慢が限界で女子トイレが混んでいたからっ……子供の頃の話をバラさないでよ!」
従兄弟が笑いながら密告したのを、涙目で否定するアヤメ。
「金城さんには色々お世話になったので正直にお話しますね。私が両親とケンカしたのは、沈くんが原因なんです。高校卒業後、『動画クリエイターになりたい』っていう彼を両親が馬鹿にしたのに腹が立って……。本州の大学に通いながら、こっそり札幌に戻って、彼の動画作成を手伝っていました」
「で、今まで協力されていたと?」
「はい」
でも、と遊は大東家の二人を伺うようにして、
「シェンの動画、止めちゃったんですよね……残念です」
「私は反対したんですが」
アヤメは悩ましげに吐息した。
二日前、電話先で怒っていた相手はこの男・シェンだったに違いない。シェンこと大東沈は、被っていた黒いキャップを取る。
「もしかして、俺の動画を見てくれていたんですか? めっちゃ嬉しい、ありがとうございます」
「い、いえ……こちらこそお会いできて光栄です」
本人だ! 胸を躍らせながら、再度差し出された手を握る。この、安定感のある渋めの声はシェンだ。間違いない。
「急に止めちゃって、すみません。最後の動画、俺ひとりで撮ったんですよ。アヤメには、こっぴどく叱られましたけど」
「僕も動画作成しているから……色々あるのは察します」
「わかるわー。応援されたら、めちゃ頑張ろうって気になるけど。俺わりとマジメなんで、寄せられたコメント全部受け止めちゃってて。うるせぇ止めて欲しいなら止めてやるーって、今まで百回くらい止めかけましたよ」
「ひゃ、百回も……?」
沈は大きな口元で微笑み、従兄妹を指す。
「そのたびアヤメに説得されて。でもまー、俺もアヤメも大概やり切った! そろそろシェンにサヨナラしてもいいんじゃねーかなって思って」
弁明っぽい響きはない。あっけらかんとしてる。
沈は意志の強そうな双眸を、虚空へ向けた。
「今度は俺がアヤメの夢を手伝う番だ。応援してくれた視聴者さんには申し訳ないけど、なんか今、俺すげぇウキウキしちゃってるんだよね。動画ではしおらしいこと言ったくせに、身勝手だけどさ」
「……そんなことないです」
何の前触れもなく熱いものが込み上げてきて、遊は慌てて目尻を拭う。
シェンは絶望していなかった。むしろ――。
照れ隠しに顔をそむけた先に、海の風景画が飾られていた。写真と見まがうばかりの出来だが、どこか懐かしい温もりも感じられる。
「――昔、浴場の壁に絵が描かれていましたよね?」
「どうしてそれを」
「たまたま、古い新聞の記事で見かけて」
アヤメはきょとんと首をかしげた後、番台から写真立てを持ってきた。
「改装で白く塗り直しましたが、当時は、父が贔屓にしていた絵師さんに描いてもらっていました。その方は引退してしまいましたけど」
「引退した絵師さんって、お知り合いなんですか?」
アヤメが写真立てを掲げた。
数日前見せてくれたのと同じ写真。ふさふさ髪のアヤメの父の横で、同じ法被姿で肩を組んでいる老人を指して、
「この方ですよ。引退されてからは水彩画を嗜まれていて、私の絵を描いてくれたこともあります。本州の息子さん家族の元へ引っ越して、まだ元気でご存命です。ときどき絵葉書を送ってくれますよ」
「……あー」
遊は蛍光灯が並ぶ天井を仰ぐ。
神さま、意地悪だ。真実はいつも一歩遅れてやってくる。もっと早く、アヤメに尋ねていればよかった。
――親父さん。
不甲斐ない話し相手でごめんな。
「わかるわぁ」
沈が頭の後ろで手を組みつつ、のんびりとした口調で、
「絵でも何でも、夢中で打ち込んだことって簡単に止められるもんじゃないよね。そういうのって一生治んない病気みたいなもんじゃん? 俺もいつか違う名義で動画投稿に再チャレンジするかもだし」
「ほ、本当ですか!?」
喰らいついてきた遊に、沈はひらひらと手を振って、
「そんときはアヤメ経由で知らせるね。金城さんのチャンネルも教えてね」
「ぜひ!!」
銭湯の出入り口が開いたのは、そのときだった。
臙脂色に染まった暖簾を揺らし、男がひとり入ってきた。ハンチング帽を目深に被り、のぞく肌は褐色である。終始うつむき加減のままアヤメに小銭を手渡し、脱衣所へと素早く消えた。容易に人を寄せ付けない雰囲気の男だった。
不愛想な客に、愛想よく応じていたアヤメは小声で、
「特別なお客様です。海外から来られて銭湯に興味があるそうですが、刺青を彫られていたので」
「刺青……タトゥーですか」
「ええ。でも、滞在している間にどうしても入ってみたいそうで、開店前に来ていただくことにしたんです。昨日も来られていましたよ」
刺青。
なぜだか、表現しがたい不穏な予感が、遊の頭をよぎった。
しかし、手を包まれた柔らかい感触で思考は遮られる。遊の手を強く握ったアヤメは、うなじが露わになるまで深々と頭を下げた。
「金城さん。今まで本当にありがとうございました。社長さんにもよろしくお伝えください。ご恩は忘れません」
「こちらこそご利用ありがとうございました。ときどき客として来ても?」
「ぜひ、お待ちしています」
駐輪場に停めたマウンテンバイクに跨ったところで、戸口に出た沈とアヤメが手を振ってきた。
遊は大げさなくらいに手を振り返す。
あの二人が手を組めば、アヤメ湯はきっと今よりも良くなる。そんな気がした。見上げると、すっかり夏らしくなった太陽が容赦なく照り付けてくる。
「あっちーなぁ」
山々から空に昇る巨大な入道雲。
穏やかで過ごしやすかった初夏は過ぎてしまったのか。もっとゆっくりとしたスピードでもよかったのに……。
心のなかで弱音を漏らしつつ、遊はペダルを強くこぎ出した。
(『銭湯の地縛霊が、成仏してくれない。』…end.)
ここまでお読みいただきありがとうございました!
次章は、もう少しホラー風味になる予定です。準備ができましたら連載開始いたします。