63
トーマス・ディーチは普通の子ども、平凡な子爵令息だった。
父親のディーチ子爵は、オニキス侯爵の部下であり、忠実な下僕だ。
オニキス侯爵は権力を欲していて、自分の娘を次期王妃に据え、王は自身の傀儡にしようと画策していた。
しかし、どうにか娘を王子の婚約者にしたと思えば、相手は第二王子。最も王位に近い第一王子ではない。
とはいえ、第二王子の方が扱いやすいので、オニキス侯爵は第一王子の地位を追いやる策を講じることにした。その策のために、手足となって働いているのがディーチ子爵だ。
そんな父親からの指示で、学園に入学してからというもの、同級生だった第一王子のエリオットやその友人のクリスティアン達の動向を探らされていたトーマスは、次第に擦れてしまった。
幼い頃から大人の策略に巻き込まれていては無理もないだろう。
探る相手や敵対派閥の子息もいるので、同級生であっても深入りせず、相手の弱みなど情報を聞き出すことばかり考えて、まともな友人づくりは出来なかった。
相手の弱みを利用することも考えるようになり、クリスティアンなどの同級生からお金を騙し取り、遊びに使うことを覚えた。
後はもう、転がり落ちるだけ。どんどん悪事はエスカレートし、ついには殺人にまで手を染めた。
父親からの命令で、ある少女に毒を飲ませたのだ。
罪悪感はそれ程なく、自分は堕ちるところまで堕ちるのだな、とトーマスは客観的に思った。
幸が不幸か、殺人は未遂に終わったが、それにより面倒な事態となった。
このままでは自分は逮捕されて厳罰を受けるだろう。そのため、トーマスはやって来た依頼に飛びついたのだ。
「──連れてきましたよ、お嬢様」
トーマスは配下の者を引き連れ、オニキス侯爵の別邸の地下にやって来た。
そこは地下と思えない程広く、地上の別邸のそれよりも面積がありそうな広間になっていた。
そこで待ち構えていたのは、パトリシア・オニキス。トーマスの父が仕えるオニキス侯爵のご令嬢だ。
何も言わずに迎え入れ、硬い表情のまま運ばれてきた“荷物”を見つめるパトリシアに、トーマスは肩を竦めた。
「あの組織が壊滅状態だから、仕方なく俺が人員を調達して、色々取引をして事を成し遂げたんですよ。もう少し労ってほしいものですね」
パトリシアは不遜な態度のトーマスに視線を移した。
「……あなただって見返りがあるから話に乗ったのでしょう?図々しい」
「はいはい。約束通り、金銭援助と国外逃亡の手引をお願いしますね。色々やらかしすぎたんで、ほとぼりが冷めるまでは国外に出た方が良いと父が言うもので」
変わらないトーマスの態度に、パトリシアは溜め息を吐いた。
どうせこの男に関わるのはこれが最後だ。それ以上に憎い相手がいるのだから、適当に流そうとパトリシアは思った。
「親子揃ってよく働くわね」
「まあ、命令ですから。それに、父がオニキス侯爵にお世話になっているんで。じゃなきゃ、暗殺なんて危ない橋渡りませんよ」
「失敗しといてよく言うわ」
「だからこうして挽回しようと働いているんでしょう。それに……失敗ならお嬢様だって……」
「私はそんなこと命令されてない!お父様に言われたことしかしていないわ!!」
パトリシアは声を荒らげて、トーマスの言葉を遮った。睨みつけるパトリシアに、トーマスはこの話を切り上げることにした。
「……それもそうですね。何はともあれ、この子をどうする気ですか?」
「ちょっと話をするわ。それが済めば、国外の適当な所に捨てなさい……二度と戻って来られないようにね」
「わかりました」
トーマスの配下がその場に転がされていた布袋を広げると、少女の姿が現れる。
手足を縛られ、口を布で塞がれたアリサだ。
「喋れるようにしてあげて」
トーマスの配下がアリサを起こし、口の布を解いた。
「あなたは……オニキス様、ですよね?なぜこんなことを?」
突然視界が戻り、怯えた様子のアリサだったが、知っている人物を見つけると、少し冷静さを取り戻してパトリシアに問いかけた。
「なぜ?そんなの、あなたが身の程知らずだからに決まっているじゃない」
パトリシアは虫けらでも見るかのように、冷たい表情でアリサを見下ろしていた。
「アーネスト様は私の婚約者なのよ。それをあなたがあの方に近づいたせいで……忠告をしたはずよ」
「忠告って……あの貼り紙?」
アリサはロッカーに貼り付けられた文章を思い出して、はっと目を見開く。
“身の程を弁えなければ、その身を滅ぼすことになる”
数多の嫌がらせを受けてきたアリサだったが、その貼り紙は特に印象的だった。直接的な被害はなかったが、書き殴られたその文字一つ一つに憎しみが籠められているようで恐ろしかった。
今、アリサはその恐怖を再び味わっていた。
「私以外からも注意されてきたでしょう?それなのに、あなたときたら……育ちが悪いからかしらね?」
パトリシアは美しく、冷酷な笑みを浮かべる。
「大人しくしていたら苦しまずに済んだのに、愚かな人。この前は運良く助かったみたいだけど、次はどうかしら?」
その言葉で、アリサは自分が生死を彷徨った事件に、彼女が関与していることを悟った。
「……知らなかったとはいえ、傷つけてしまってごめんなさい」
アリサはぐっと歯を食いしばって、パトリシアを真っ直ぐ見た。
「だけど、こんなことをしてもあなたの思い通りにならない。どうかこんなことは止めて!私はあなたとちゃんと向き合って話をしたい!」
「黙りなさい!!」
パトリシアはカッと怒りの感情が昂り、アリサに向けて手を振り上げた。




