8.カステラを作り終え、コーヒーを飲みながら一息ついた頃には……。
カステラを作り終え、コーヒーを飲みながら一息ついた頃には、予定通りホールの大時計はちょうど六時を指していた。元々の世界が夕方だったことを考えるに、こちら側では朝の六時なのだろう。
石造りの分厚い壁越しでは分かりにくいが、外には人の気配がしない。もう少し時間も経てば人の動きも活発になってくるのかもしれない。外の散策はそれからである。全く知らない街をひとりで歩くのは少々勇気がいるのだが、夢を叶えるためには必要不可欠なことである。致し方ない。
余ってしまった分を冷蔵庫に入れて――クッキーと同様、またしても調子に乗って作り過ぎてしまった。まあ、薪を消費して一人分しか作らないというのも効率的ではない。間食にでもすればいいため、かえって良かったのかも知れない――サイフォン式のコーヒーメーカーを洗う。
……。
…………。
私服の上に純白のクロークを羽織り、短杖を腰に下げて外に出る。空は青く澄んで、雲ひとつない。東らしき方角からは、暖かな朝日が風趣ある町並みを照らしている。石畳が濡れているのは雪解け水のせいだろう。川沿いの大通りを、大勢の者が闊歩している。
麻の帽子を目深に被った小間使いらしき少年。
紙袋を大事そうに抱えた、エプロン姿の侍女らしき少女。
礼服に山高帽、ダレスバックとステッキという気取った格好の紳士。
がたがたと音を立てながら進む馬車には着飾った婦人が乗り、老いた馭者は退屈そうに鞭で馬の背を撫でている。
ヘルメットと隊服を装備した二人組の男はくたびれた顔をしている。夜勤明けの兵隊なのかもしれない。
片脚を引きずり、ぼろを纏った男は物乞いだろう。行き場を探して彷徨っている。
樽や麻袋を担いで歩く屈強な男達は水夫だろう。川沿いの船着き場から、ほど近くの倉庫まで荷揚げをしている。
幌も屋根もない箱型の馬車には、荷物だけではなく労働者らしき男達が肩を並べて乗っている。安価な乗合馬車だろう。固そうなパンをかじっている者もいれば、酒瓶を片手に肩を組んで故郷の歌を唱えている者もいる――。
この世界を生きる者にとっては、何ら代わり映えもしない朝の一場面でしかないのだろう。もうしばらくすれば、きっと今以上に活気溢れる風景になるのかもしれない。
――なんだかいいな、こういうの。
異なる世界に来たとはいえども、そこには私と同じ人間の営みが広がっているのだ。
まるで、海外旅行にでも行って、初めてロンドンやパリといった首都の大通りを歩いたときのような感動を覚えたのだ。
(まあ、海外旅行なんて一度もしたことがないんだけどね)
私も喫茶店も、この街に溶け込むことができたらいいな。
私個人の外見だけなら、きっとそこまで浮くこともないだろう。見回せば茶髪や金髪ばかりで、黒髪こそ珍しいが、服装や文化にそれほど違いはなさそうである。
「おや。あんた、見かけない顔だね?」
街を眺めていたら声を掛けられた。顔を向ければ、前掛けをして、手拭いを頭に巻いた恰幅の良い女性が立っていた。
「あ、おはようございます」
「おはよう。あたしはそこのパン屋だけど、もしかしてあんた、隣に引っ越してきた人?」
女性は訝しむように私と店舗を交互に見遣る。
「ええ、そうです。喫茶店をやろうと思って、つい先日来たばかりなんです。齋藤葉月と申します。まだ準備中で、いつ開店するかも決めておりませんが、よろしくお願いいたします」
こちらが深々と頭を下げれば、ご丁寧にありがとうね、と言って女性は人好きのする笑みを浮かべた。
「こちらこそよろしくね。あんたは良い子そうだし、困ったことがあったら何でも頼っていいからね。ところであんた、喫茶店って――それに齋藤って、もしかして慶一郎さんとこのお孫さん?」
「お爺ちゃんのこと、知ってるんですか」
慶一郎というのは祖父の名前である。
「そりゃもちろんだよ。知ってるも何も、ここにあの人が住んでいたし、私も良くしてもらったんだよ。多分、ここで暮らす人間はみんな慶一郎さんのことを知っていると思うけど――どうしたのさ。そんなに驚いた顔をして」
「いや、その――」
最初は、祖父が行方をくらましていることを話すべきではないと思った。きっと、祖父にもやむにやまれぬ事情があり、また古くからの知人であろうこの人に勝手に伝えてしまうのも悪い気がしたのだ。
けれど。
「もしかして、慶一郎さんに何かあったのかい?」
そう言って女性は心配そうな顔をしてみせる。その表情だけで、祖父が大事に思われていることを察してしまった。ゆえに、いくら方便とはいえども、この親切そうな人に嘘をつくのは悪い気がしたのだ。
「はい。一年ほど前から、どこかに行って、そのまま帰ってきていないんです」
「そうだったの? あの人、確かに最近見かけないねえ。孫のためにこの家を喫茶店にするからよろしく、なんて言ったきり私も見てないわ。あの人から、何か聞いていないの?」
「それがなにも。手紙は渡されましたが、することがあるから帰れないってことだけで、何かに巻き込まれていないか不安なんです」
「そう。それは大変だったね」
女性は、少し黙ったのち。
「あの人も、聖女様がお隠れになってから色々とあったものね」
と言った。
意味深長な呟きであった。
「聖女様、ですか」
「ううん、何でもないの。気にしないで」
私が尋ねれば、どこか取り繕うように女性は言った。
「でも、慶一郎さんならきっと大丈夫だと思う。だってあの人、この街の守護者ですもの。すぐに帰ってくるでしょう」
「守護者って――お爺ちゃん、もしかしてすごい人だったんですか」
「あんた、何も知らないの? まあ、慶一郎さんもあれこれ語るようなタイプの人じゃないし、家族だからこそ色々あるんでしょうけど――でも、注意した方がいいよ。私ならいいけど、他の人の前でお爺様のことを知らないって言ったら、皆驚いちゃうと思うから」
「は、はい。分かりました」
「素直でいい子だね。やっぱりあの人の血筋かしら。慶一郎さんのこと色々と教えてあげたいけど、朝は忙しいからまた今度ね」
「はい。そのときはよろしくお願いします」
「うん、またね」
そう言って、女性はふくよかな身体を揺らしながら隣の家屋に戻っていく。
軒先に掛けられた看板には『古都パンセリノス・パン工房』という文字と、パンと小麦をモチーフにしたであろうイラストが描かれている。
古都パンセリノス――この街の名前だろうか。
祖父のことも確かに気になるが、それ以前の問題として。
振り返り、改めて店舗を見る。いかにも喫茶店らしい雰囲気のある外観をした、広くも狭くもない二階建ての洋館である。出入り口には重厚な扉があり、ノブには『Close』と書かれた木札が申し訳程度に吊られている(もちろんこちらの言語であり、きっと裏側には『Open』と書かれているのだろう)。すぐ側には、郵便受けらしい銅製の箱が支柱の上にある。
だが、ここが一目で喫茶店と分かるような看板や表示といったものは見当たらない。
――お店の名前、考えないと。
特にこだわりはない。むしろ、知る人ぞ知る隠れ家のような店にして、ひっそりと営業できればいい、という憧れも内心抱いていた。だが、それは所詮理想でしかない。まともに利益を出そうと思えば薄利多売からは逃れられない。そしてそのためには、店の名前をしっかりと決めなければならないし、宣伝や集客の方法も当然考えなくてならない。
今度、落ち着いたときにでも、ゆっくりと考えることにしよう。