7.私が喫茶店から裏庭の蔵に戻ってきたときには既に日も暮れて……。
私が喫茶店から裏庭の蔵に戻ってきたときには既に日も暮れて、西の空が赤く照るだけとなっていた。世界をまたぐために何かをする必要はなかった。左手に嵌めた指輪に祈るだけで、瞬時に蔵の中に立っていたのだ。まるで意味の分からぬ現象であったが、驚きもしなかった。
昼夜が逆転して、空に巨大な満月が浮かび、しかも魔法が実在する異世界にいたのだ。今更である。もう何があっても驚かないだろうとすら思えた。その証拠に、蔵の隅で死闘を繰り広げるアシダカグモとゴキブリの生存競争を目にしても、悲鳴を上げずに無視して逃げ出すことができた(退治までは無理であった。あとで猫のミケか弟に任せるとしよう)。
蔵の出入り口を鎖と南京錠で閉ざしてから居間に戻れば、弟はまだいた。実家から持参した筐体ゲーム機(最近品薄と転売で有名なプ○ステ5だろう)を52型のテレビに繋いでお気に入りのゲームに勤しんでいる。
西洋ファンタジーを主題としたアクションゲームらしい。無骨な鎧を着込んだ騎士が、亡者たちの警備する古城を探索している。どことなくウィリアムと名乗った異邦の美青年が浮かび上がり――なぜか私は恥ずかしくなってしまった。
「お帰り。遅かったじゃん。掃除でもしてたの?」
画面から目を離さずに弟は言った。祖父の手紙など忘れてしまったかのような口振りであった。騎士は、右手の直剣と左手の騎士盾を駆使して、かつては城兵であったであろう亡者達をいとも容易く切り伏せ、城塞を突破していく――。
「……まあ、そんなところ」
あの手紙は本当だった、異世界に通じていたんだよ、と言おうとして、やめた。もし口外すれば、二度とあの世界に行けないような気がしたのだ。
「それより、さっき見たけどゴキブリいたから退治してよ」
「あー、やっぱり出るよね、あそこ。いくら対策しても出るから諦めてるんだよね」
「対策?」
「ブラッ○キャップとかゴキブ○ホイホイとか」
商品名を挙げた弟は、今でも膝の上で丸くなっているミケをひと撫でしたのち、ゲームの電源を切ってニュース番組に切り替える。どこかで見たような女性アナウンサーがストーカー事件の被害について淡々と述べているところであり――何かを察した弟が即座にチャンネルを変えてくれた。
「あんた、蔵に入ったことあったんだ」
「まあ、そうだね。バイクの整備とかに使う工具が入っているからね」
「だから虫とかが出るって知ってたんだ」
「そういうこと。それより何か作ってよ。姉貴もたまには飲もうぜ?」
「じゃあ少しだけ貰おうかな。何があるの?」
時計を見れば午後六時を回ったところであった。
「飲みやすいのだとカルーアとかチューハイとか。ウィスキーは俺のだから絶対ダメ」
「私お酒強くないからいらないし。というか高校生の台詞じゃないよ本当に」
補導だけはされないでよ、と私が言えば、家族に心配を掛ける真似はもう二度としませんよ、弟が茶目っ気交じりに答える。
「それで何にすんのさ。俺、簡単なカクテルなら作れるよ」
「いいよ。適当に缶チューハイでも貰うから。晩ご飯はどんなのがいい?」
「味が濃くて腹にたまれば何でもいいかな。肉と野菜はあるからそれこそテキトーでいいよ。手伝った方がいい?」
「ひとりで大丈夫。それよりミケにご飯あげてちょうだい」
吊してあったエプロンをかけて台所に向かえば、にゃおん、とミケが鳴いた。いつも弟の面倒を見てくれてありがとう、と言われているようで悪い気はしなかった。
…………。
……。
私が次にあの喫茶店に行ったのは翌日の夕方であった。初めて訪ったときと同じようにホールの中央に立っている。
本音を言えば昨日の夕食後にでも行きたかった。私が知っているのは店内と、店を出てすぐの光景のみである。しかも夜だったため未だ街の全容は不明である。
行動範囲を広げるなりして、この世界がどんな文化で、どんな食事が好まれ、どんな意匠の店舗が受けるのか――何が正しくて、何が悪いのかを知らなければ――店を開くことなど到底できやしないだろう。
きっと、私が抱く「喫茶店というものはかくあるべきだ」「美味しい料理やお茶とはこういうものだ」という思想を押しつけたところで通用してくれないだろう。たとえ物珍しさでお客さんが来てくれたとしても、そんなお店は流行らないし続かない。
もっとも、そのあたりは祖父も承知したうえで店舗を用意してくれたと信じたい。昨日来てくれたあの青年も、特別驚いた様子はなかったように思う。
――この恩義に報いるため、改めて伺うことを約束いたします――。
――聖女様に息災あらんことを、どうか――。
聖女という発言の真意こそ分からなかったが、彼は、また来てくれることを約束してくれた。きっと、彼にとっては重要で、意味のある言葉なのかもしれない。今度会うことができたなら尋ねてみるのもいいかもしれない。
まずはできることから始めよう。
持ってきたボストンバッグをテーブルに置けば、どさ、と重い音がした。昨日使ってしまった材料の補充と、不足を感じていた計量カップやオーブンメーターといった調理器具、その他練習に使用する食材の追加など、色々と詰め込んできたのだ。
数日分の生活必需品も入っている。こちら側の生活様式に慣れるためと、開店準備のため、数日間ここに滞在するつもりであったのだ。
改めて店の後方を確認すれば、日本のようなシャワールームこそなかったが、石造りの狭い浴室があり、構造こそ多少異なれどトイレなどの下水道も整っている。
ないのは蛇口――上水道だけであった。正面の大河から水を汲んでいるとは考えにくいし(大河とは得てして衛生状態に問題があるものだ)、もしかしたら店の近くに清流もしくは井戸があるのかもしれない。
いざとなればすぐ戻ることもできるし、ドアには頑丈な閂もあって防犯上の問題もなさそうである。ここで暮らすぶんには、そこまでの欠陥は感じなかった。
もっとも、あちら側から資材を調達する方法は、そう何度も続けられない。
確かに日頃から節制は心がけているし高校時代の貯金もまだ残っている。浪費をする性格でもないのだが――服飾や化粧品に凝ったりもしなければ、お金のかかる趣味もない。せいぜい古書肆に行って古本を二三冊買うか、ふらりと喫茶店に立ち寄るくらいである。弟に言わせれば、それは節制ではなく単にズボラなだけらしいが――それでも金銭には限りがある。今日だって口座からお金を下ろしてきたのだ。
どうにかしてこの世界の貨幣を入手する手段を見つけなくてはならない。仕入れはそれからである。その後は利益や費用を鑑みて営業日や営業時間などの詳細を決めていかなければならないが、現状はどうあっても皮算用でしかない。
今直面している課題は、市場の調査、提供する料理とお茶の選定、それから奇跡や魔術についても知らなければならない。再び、あの青年と会うことも含めていいだろうか。
会って話したのはたったの一日ではあるが、見知った人の方が、色々尋ねるのに都合が良いと思っただけである。それ以上の思惑はない。仮にも私は店主であり、相手はお客様である。互いの関係がそれ以上発展することなど面倒にしかならないことを私は身をもって知っているのだ。
――ああ、嫌なことを思い出した。
こういうときはコーヒーでも淹れて落ち着こう。
持ってきた材料で、またクッキーを焼いてもいいかもしれない。いや、同じメニューではつまらないから石窯を使ってみようか。今ある材料で作れそうなものは――カステラあたりが良いだろう。
ホールの大時計を見れば四時を回ったところである。今から作れば二時間はかかってしまうだろう。窓を見れば、初めて来たときと同じように、青白い月光と、真っ白の雪がはらはらと降り注いでいる。
(やっぱり昼夜は逆転しているみたい)
きっと、作り終える頃には月もどこかに去り、太陽が顔を出してくれるのだろう。掃除や片付け、街の探索はそれからでいいだろう。
高校時代、考査直前なのに勉強する気がどうしても出ず、なぜか部屋の整頓をしたくなるような気分に似ていて、なんだか自分がおかしくなってしまった。




