6.「思ったよりも元気そうで安心しましたよ」
「思ったよりも元気そうで安心しましたよ」
不意にアルフィーが言った。
「どうした、唐突に」
「王都で会議を終えたのは昨日の夕刻でしょう? そのあとすぐに走ってきたのなら、いくら団長でも三日は再起不能になると覚悟をしていたものですから。どうしてまだ生きているのです」
「相変わらず口が悪い。しかし、まあ、色々とあったのだ」
「その色々を聞いているのです。もしや、そちらの包装が関係しているのですか」
「随分と勘がいいものだな」
不明瞭に答えたウィリアムは、この副官に、己が抱える悩みを打ち明けようと思い至る。
頭の回転に優れ、また気の遣えるこの男であれば、自分ひとりで考えるよりも良い答えをもたらしてくれるだろう、と思った。下手の考え休むに似たる、というものだ。
「アル。私は今から休息する。少し付き合え」
「分かりました。侍女を呼んできますよ」
「ならば伝えてくれ。コーヒーがいいとな。なかったらいつもの紅茶でいい」
「おや? この前、あれは泥水のようで不味いと言っていたではありませんか」
「美味いものを飲んだのだ。考えが変わったのかもしれない」
ウィリアムが答えれば、何かを察したように頷いてアルフィーは去って行った。
すぐ、茶の用意がされた。メイドは給仕のために残ろうとたが、守秘が伴う会談であることを理由にアルフィーが下がらせる。
ウィリアムは自身の机から談話スペースの安楽椅子に移動する。どうやらコーヒーは切らしていたらしい。二人分の紅茶を手ずからカップに注ぐと、副官を対面に座らせる。
「アル。相談がある」
「どうぞ。何なりと」
アルフィーが了承したのを見てから、ウィリアムは昨夜の体験を――月光を浴びても平然としていられる娘がいたこと、その者に休息を勧められ、あまつさえ奇跡を授けられたこと、彼女が常識に疎そうであること、川沿いの商業区画で喫茶店を開こうとしていること。そして、己があの少女に対し、いかなる対処をすべきか迷っていることを――順序立てて、可能な限り主観が混じらぬよう事実だけを述べていく。
ウィリアムの理路整然とした説明に、アルフィーは余計な口を挟むこともせず、最後まで聞いていた。
「なるほど。にわかには信じられない内容ではありますが、納得しました」
アルフィーは机に置かれたままの紙袋を一瞥すると、それが贈られたものですか、と尋ねた。
「ああ。疑わしいことであるのは私も分かっている。だが、まずは一枚食べてみるといい。俗物の神官に祈祷されるよりは効力がある」
ウィリアムは、自身のソーサーを皿代わりに袋から四五枚のクッキーを取り出す。袋には、有り難いことにひとりでは食べきれぬだけの量が残っている。
「何の変哲もない焼き菓子ですね。では、ひとつ失敬」
「どうだ?」
「まだ飲み込んでおりませんよ。まあ、確かに強烈な神性を感じますね。仰る通り、祝福を受けているのと大差ない――いえ、それよりも簡単で、ずっといい。何より素朴な味わいがいい。ここしばらくの疲労が嘘のように消えていくようですな」
饒舌に品評したアルフィーは、紅茶を口元に運んだのち、これはいいものだと言いながら、あっという間に平らげてしまった。
「お前は素直に美味いと言えないのか」
「これが性分ですから。いやはや、疑ったつもりはありませんでしたが、改めて納得しました。しかし、料理ひとつに祝福を施して、しかも疲れた様子もないとなれば――利用価値はあるでしょう。ここでの対応が後手になれば我々の損失も計り知れない。団長が悩まれるのも分かります」
我々の――と強調させてアルフィーは言った。
即ち、我ら騎士団の利益を追求せよ、と言外に忍ばせているのだ。
「その通りだ。ゆえに参謀であるお前の意見を聞きたい」
「その前に、その娘は何者でしょうか。彼女に関する情報はありませんか」
「情報だと」
「ええ。素性が分からねば接近のしようがありません。確かに能力だけを見れば喉から手が出るほどに欲しい人材ですが、得てしてそういう者に限って教会の密使だったり、あるいは隣国の間諜だったりするものですからね」
「なるほど。あの娘について、か」
ウィリアムは答えようとして――何も言えなかった。ここで何かを言えるほど、あの娘について知りはしないことを今になって自覚したのだ。それなのに、あの娘に恩義以上の感情を抱いて舞い上がっていた。信仰心につけこまれてしまったのだ。そう思うと耐えがたい慚愧がこみ上げてくる。
騎士にあるまじき姿だ、とウィリアムは内心で自戒する。
「団長? どうされました」
「いや、なに。私は彼女のことを何も知らぬ、と思ってな。それなのに、あの娘から受けた恩寵を、あたかも己がひとりに与えられたものだと勘違いして、自分が恥ずかしくなったのだ」
事実、この紙袋に収められた菓子は、私宛てではなく、ここに所属する団員達に向けてのものである。
確かに、あの娘が、気遣いが上手く、献身的な性向であることは知っている。本人もそのように言っていた。いつか喫茶店を開くため、料理や茶の淹れ方を勉強していることも。清らかな奇跡を使うことも。おそらくは談笑よりも沈黙を好む性質であることも。
だが、それだけである。
名前も年齢も知らない。交わした会話も、店主と賓客という範疇に留まるものであり、彼女からすればただの接客でしかないのかもしれない。
あの娘が、どこで生まれ育ち、いつこの街に来たのか、何を好み何を厭うのか、普段は何をして生計を立てているのか、どうして喫茶を始めようと思ったのか――全てを知らない。
そして気になることがもうひとつ。
馬を休まるために寄った裏庭には、ひっそりと佇む墓標があった。墓石の前には、誰が供えたのかも分からない、見たこともない白い花があった。
ウィリアムは自身の胸に、好奇心が灯るのを感じた。
もっとあの娘を知りたい、と思った。
「まあ、祝福を間近で見たとなると、誰しもがそう思いたくなるでしょう。しかし、何の情報もないとなると、取れる手は限られます」
「アル。私は何をすればいい?」
「直接、会いに行けばよろしいでしょう。相手の反応を慎重に窺いながらになりますが、上手く飼い殺してしまえば何も言うことはありません。接触した結果、密使や間諜と分かった場合は――そうですね。処分は私が担当しましょう」
「参謀らしいのは結構だが、あまり乱暴な言葉を使うな。騎士団の沽券に関わる」
「誰も聞いてませんよ。それに沽券で腹は膨れますまい」
「あの娘は私の恩人だ。丁重に扱うことを忘れるな。自軍に引き入れるとしても、その方が与しやすいだろう」
「承知しました。お優しいことで何よりです」
慇懃無礼に言ったアルフィーは、それよりも、と話題の転換を図る。
「団長が次にその店に寄るときは私も行きますよ。開店はいつですか」
「生憎、それが分からないのだ」
「おや、聞かなかったのですか」
「向こうも、いつやるか決めていなかったのだ」
「――ふむ、そうですか」
アルフィーは懐から手帳を取り出して数枚をぱらぱらと捲る。
「それならば、街の巡回も兼ねて本日の午後にでもいかがでしょう?」
「早速だな。私達が出払ってしまえば現場は困るだろう。いざというときの対応が遅れはしないか」
「ご指摘はごもっともですが、件の娘の方が重要です。神学校や教会の俗物共に先手を打たれては、彼女をこちらに引き込むことは叶わぬでしょう。それこそ、王都では各都市に使者を送り、奇跡を使う者を広く募っていると耳にしたことがあります。それに現場など、我々がいくら奮戦したところで王都からの本隊が来るまでの時間稼ぎにしかなりません。いえ、時間稼ぎができれば御の字ですが――いずれにせよ我々の大半は死ぬでしょう。それならば、我々は我々のためだけに足掻いた方が余程建設的でしょう」
「言い方は気に食わないが分かった。午後一番に出る支度をしておこう。お前の用意ができたらまたここに来てくれ」
ウィリアムは頷かざるを得なかった。
副官の言うことは確かに間違っていない。むしろ、忖度などなしに、参謀として価値ある進言をする有り難い部下である。だが、団長として部隊を率いるウィリアムにとって、現場の人命や騎士の矜持を軽視するような発言は、内心では容認しかねるものであった。
今も厳しい訓練に身を置き、何かあれば一番先に死ぬであろう部下達からすれば、上長ふたりが女に会うために街へ繰り出すなど、反発を招くだろうという危惧もあった。
「アル。私は、現場に寄り添ってやれぬことに罪悪感を抱いてしまうのだ。指揮官たる者が、こう思ってはまずいと思うか」
「いえ。部下思いの良い上役であると思いますよ。ですが」
「ですが、何だ?」
「優しさで人は救えますまい。いざというときに現場や部下を切り捨てることができないと、現場責任者より上に出世はできないでしょう」
「そうまでして出世など、誰がするものか」
「貴方らしい。それを聞いて安心しましたよ」
なぜか愉快そうに笑ったアルフィーは、口を丁寧に折り畳まれた紙袋を見ると。
「その菓子ですが、今いる部隊だけにでも配ったらどうです? せめて傷病で動けぬ者だけにでも配布したら士気は上がるでしょう。いくら祝福がされているといえども、置いていては悪くなるだけですから」
と提案する。
ウィリアムは、すぐには答えなかった。
半ば無意識に、断る理由を探していたのだ。
「団長?」
「……どうした」
「もしや、惜しくなったのですか。まあ、その気持ちは分かります。私だって先刻から妙に調子がいい。あれだけ憂鬱だった古傷の痛みも感じられない。いやはや、まるで麻薬のようだ」
訳知り顔でアルフィーは頷く。
図星を突かれたウィリアムは反論しようとして――諦めた。何を言っても無様な言い訳にしかならぬことを悟ったのだ。
その代わりに。
「もう少しばかり、茶を楽しもうか」
と言い、口止め料だと言わんばかりに、再びソーサーにクッキーを盛り付ける。
いささか風味の劣化したクッキーを温くなった茶で流し込みながら、ウィリアムは聖女の如し娘を想っていた。
もし彼女が信仰に篤い聖人であるなら――あれだけの奇跡を使えるのだ。聖人の血を引いている、あるいは当人に強く清らかな信仰があるに決まっている――我ら騎士団で彼女を庇護することができたなら、それは誇らしいことだろう。
だが、我々の正義と彼女の本懐が必ずとも一致するとは限らない。
今日、もしかすると聖人に見えるかもしれないという期待と、第一に優先すべきは彼女の思いであるという痩せ我慢に似た自戒が生じて、ウィリアムは形容しがたい高揚と葛藤を感じていた。