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ep9 因果の結び目

絶体絶命の、その刹那だった。


ノアの知覚の中で、世界の時間が唐突に、冷たい泥水のように粘度を増した。


極限の集中。

彼女の碧眼――そのサファイアブルーの虹彩に浮かぶ金色の星図アストロラーベが、チリチリと高速で回転を始める。


視界に映るすべての事象が、色彩と立体感を失い、無数の「光の線」と「星屑」からなる精緻な幾何学模様へと還元されていく。


空中で静止したかのように浮かぶ、灰の一粒。

イリアの頭上へ突き下ろされようとしている、星被の巨大な紫水晶の槍。

恐怖にすくみながらも、逃げずに大地を踏みしめようとしているイリアの、震えるような生命の明滅。

そして、砂埃の中に倒れ伏したローランの、消えかかっている微弱な脈動。


すべてが、光で描かれた因果の網目としてノアの脳内に流れ込んでくる。


(……このままでは、彼女の星図が断たれます)


ノアは、冷徹な観測者としてその結末を正確に読み取った。

あと一秒。

たった一秒後には、星被の放った粗雑で暴力的な一撃がイリアの胸を貫き、彼女の人生という物語を、世界の記述から完全に消去してしまう。


それは、人が死ぬという道徳的な悲劇である以上に、ノアにとって耐え難い「醜さ」だった。


泥にまみれながらも、恐怖をねじ伏せ、自らの足で立とうとした少女の不器用で美しい直線。

それを、理性を失った狂気の暴力が、無意味な泥のように塗りつぶす。

そんな不調和な結末など、絶対に許されるべきではない。


(……嫌です。そんな結末は、ひどく美しくありません)


ノアの右手が、無意識のうちに動いていた。


彼女の指先は、父から譲り受けた書記官用ベストのポケットをまさぐっていた。

何か、壊れゆく世界を繋ぎ直すための「道具」を求めて。

かつて星見の塔で、古書の千切れたページを修復していた時のように、針と糸を。

あるいは、歴史を書き直すためのペンを。


だが、彼女の指先が触れたのは、空っぽの布地だけだった。

そこには何もない。

今の彼女は、安全な塔の中にいる書庫番ではないのだ。


ハッとして、彼女は己の腰の重みを思い出す。


彼女の腰に提げられているのは、たった一つ。

炎に包まれる直前、父エリアスから託された『白紙の魔導書』だけだ。

そして、その重厚な本にはまだ、ただの一文字も、一本の線すらも書き込まれていない。


『そうだ。世界で一番美しい星図は、過去の誰かが書いた本の中にはない』


あの日の父の言葉が、鮮烈な残響となって脳裏に蘇る。

分厚い石扉の向こう側から聞こえた、静かで、力強い祈り。


『いつかお前が、お前の手で描きなさい。……お前自身の、美しい物語を』


(私の手で……私が、描く)


その瞬間、ノアの中で、何かが音を立てて弾けた。


今まで彼女の心を覆っていた、「観測者」としての分厚い殻。

「世界はすでに神々によって記述されたものであり、自分はそれを外側から読むことしかできない」という、天才ゆえの諦念。

それが、ガラス細工のように砕け散ったのだ。


ペンなどいらない。

星綴りを行使するための特別な触媒など、最初から必要なかったのだ。


世界という巨大な織物に新たな星図を書き加えるための「熱」。

それは、他者から与えられるものではない。

「この美しい形を守りたい」と強く願う、彼女自身の内側で沸騰する強烈な感情こそが、冷たい世界の法則を綴り直すための光となるのだ。


ドクン、と。

ノアの心臓が、かつてないほど大きく、力強く脈打った。


その鼓動が、彼女の細い血管を駆け巡り、全身の熱が右手の指先へと一気に集束していく。

彼女の体温が急激に奪われ、顔から血の気が引いていく。

その代償として、彼女の右手の指先が、ダイヤモンドダストのような青白い星の光を帯びて輝き始めた。


「……視えます」


ノアは、静かに、しかし迷いのない足取りで一歩を踏み出した。

死の恐怖に硬直するイリアと、狂気の怪物の間に、自身の小柄な身体を滑り込ませる。


彼女の眼には、空間に漂う微細な光の粒子がはっきりと捉えられていた。

かつて地脈から溢れ出し、大気中に溶け込んでいた星屑の残滓。

死帯ヴォイド』と呼ばれるこの枯渇した荒野であっても、星のエーテルが完全にゼロになることはない。

ただ、誰もそれを感知し、結び合わせる方法を知らないだけなのだ。


「そこです」


ノアは、見えない筆で白紙に歴史を書き記すように、しなやかな動きで右手を虚空へと走らせた。


ヒュンッ。


涼やかな風切り音と共に、彼女の指先が空間に最初の一筋を引いた。

それは、空中の星屑と星屑を繋ぐ、白銀の光の線。

冬の夜空に瞬く星座のように、鋭角的で、硝子細工のように繊細な幾何学模様の一部だった。


怪物の振り下ろした水晶の槍が、すぐそこまで迫っている。

強烈な風圧がノアの亜麻色の髪を激しく煽り、彼女の白い頬に細かい砂粒を叩きつけた。


だが、ノアは瞬きすらしない。

彼女の瞳は、自らが紡ぎ出す「美しき形」の完成だけを見据え、ただひたすらに光の軌跡を追っていた。


「二点目、座標固定。……三点目、角度を算出」


彼女の指が、空中で優雅な舞踏を踊る。

一条、二条と、鋭角に折れ曲がった白銀の線が、虚空に次々と展開されていく。

それは、先ほど彼女がローランを守るために描き損ねた、強固な防御を意味する『盾』――均整の取れた菱形の基礎構造。


足りない。まだ、形が閉じていない。

光の線が完全に繋がり、一つの星座として完成しなければ、それはただの残像であり、いかなる物理的な効力も持たない。


巨大な紫水晶の塊が、ノアの額に触れる寸前。


――結ぶ。


ノアの指先が、空間に引いた三本の光の線。その終点から、始まりの座標へと向けて、最後の一筆が勢いよく振り下ろされた。


四つの点が繋がり、図形が閉じた瞬間。

世界の法則が、少女の描いた「美しい嘘」を現実の法則として強制的に適用した。


キィィィンッ!


鼓膜を突き破るような、硬質で透き通った音が荒野に響き渡った。


ノアとイリアの頭上に、白銀の光で編まれた巨大な菱形――『盾のスクゥタム』の星図が顕現した。

それは、星法陣のような複雑な装飾を一切持たない、ただ四本の線だけで構成された純粋な「幾何学の結晶」だった。


直後。

星被の右腕、巨大な紫水晶の槍が、その光の盾に激突した。


ガギィィィィィィンッ!!


数トンの質量と、落下による衝撃のすべてが、厚さ数ミリにも満たない光の膜に叩きつけられる。

激しい火花が散り、熱波が周囲の灰をドーム状に吹き飛ばした。


「……ッ!」


イリアが悲鳴を上げて身をすくめる。

だが、落下してくるはずの死の質量は、いつまで経っても彼女の身体を押し潰すことはなかった。


「……ウ、ガ……ァ?」


空中で、怪物が間抜けなうめき声を漏らした。

星被の巨大な槍は、ノアの頭上数センチのところでピタリと停止していた。

いや、停止させられていたのだ。


彼がどれほど体重をかけ、狂気の咆哮を上げて押し込もうとしても、光の線で囲まれたその「空間」だけが、まるでこの世で最も硬いダイヤモンドの壁になったかのように、一歩も先へ進むことを許さない。


「その線より内側は、私の綴った領域です」


ノアは、頭上で火花を散らす死の刃を見上げながら、酷く冷淡な声で言った。


「不格好な泥の線は、交わりません」


ピキッ、と。

星被の紫水晶の槍に、亀裂が走った。


ノアの『盾の座』は、物理的な硬さで攻撃を受け止めているのではない。怪物の放った「暴力の軌道」を、光の斜面によって無効化し、その跳ね返る力を相手の肉体へとそっくりそのまま送り返しているのだ。


「ギ……ガァァァッ!?」


耐えきれなくなったのは、盾ではなく、星被の腕の方だった。

メキメキと音を立てて紫水晶の槍が砕け散り、その反動で怪物の巨体が後方へと大きく弾き飛ばされた。


同時に、役割を終えた『盾の座』もまた、美しいガラス細工のようにパリーンと澄んだ音を立てて砕け、キラキラと輝く光の粒子となって虚空へと溶けていった。


「……はぁ、はぁっ」


ノアは、その場に片膝をついた。

たった数秒の顕現。だが、それは彼女の内側にある熱(生命力)を劇的に奪い去っていた。

右手の指先は、氷水に漬けたように白く凍りつき、感覚が失われている。


しかし、彼女に休む暇は与えられなかった。


バサバサバサッ!!


突如、ノアの腰元で、激しい羽ばたきのような音が鳴った。

父から託されたあの分厚い革表紙の本――『白紙の魔導書』が、風もないのに勝手に開き、猛烈な勢いでページをめくっていたのだ。


「これは……」


ノアが目を見開く。

真っ白だった最初のページ。そこに、青白い火花が走っていた。

まるで透明な幽霊が、見えないペンを握りしめ、猛烈なスピードで筆を走らせているかのように。


ジジッ、ジッ。

羊皮紙が焦げる匂いが、鼻腔をくすぐる。


瞬く間に、その白紙のページに、先ほどノアが空中に描いた『盾の座』の幾何学模様と、その発動を裏付ける数式のような文字が、黒い焦げ跡となって深く焼き付けられた。


――記述完了。


魔導書はそう告げるように、パタンと静かに閉じた。


「……なるほど。これが、私の綴った『最初の物語』ですか」


ノアは、凍りついた右手指で、魔導書の表紙をそっと撫でた。

熱が、戻ってくる。

一度本に「定着」した法則は、もう迷うことなく、より少ない力で引き出すことができる。その確信が、彼女の瞳に冷ややかな知性を呼び戻した。


『盾の座』の余波で舞い上がった砂埃。

その向こう側から、視界の端に新たな「赤い線」が二本、猛烈な速度で伸びてくるのをノアは捉えた。

左右から迫っていた残る二体の星被が、弾き飛ばされた仲間に構うことなく、新たな標的をノアに定めて襲いかかってきたのだ。

両手を獣の爪のように変異させた男たちが、よだれを撒き散らしながら距離を詰める。


だが、ノアはもう焦っていなかった。


「……ローラン。貴方の剣術は、とても美しかった」


ノアは立ち上がり、倒れ伏す老騎士に静かに語りかけると、イリアの前に立った。


「でも、少しだけ優しすぎました。……自らを壊すことを前提とした狂気に対しては、付き合う必要はありません。ただ、その破綻を指摘してあげるだけでいいのです」


ノアの碧眼の中で、金色の星図が再び回転する。

迫り来る二体の怪物の「構造の歪み」。

それは、胸に埋め込まれた濁ったエーテルコアと、それに耐えきれずに悲鳴を上げている背骨の接合部に、極めて脆い「結び目」として視えていた。


「そこです」


ノアは、右手の指先を、今度は剣のようにスッと真っ直ぐに伸ばした。

盾のような複雑な図形はいらない。

彼女は、空間の「結び目」に向かって、ただ一本の短い打消しの線を引いた。


ヒュッ。


光の線が、空中で二体の怪物の首元を撫でる。

物理的な切断力はない。

だが、その線は、彼らの肉体とコアを強制的に繋ぎ止めていた「命を縛る鎖」を、ピンポイントで無効化した。


「ガ……?」


空中で、二体の怪物の動きが完全に停止した。

糸を切られた操り人形のように、不自然な姿勢のまま、その場に落下する。


ズズンッ、と重い音を立てて地面に叩きつけられる二体。

彼らはもはや立ち上がることはなかった。


狂気を生み出していたコアが、肉体との接続を絶たれ、ただの黒い石ころへと還元されたのだ。暴走する熱を失った肉体は、急速に乾燥し、崩れ落ちる灰となって風に溶けていく。


静寂が、荒野に戻ってきた。

残ったのは、灰の降る音と、三人の荒い呼吸音だけ。


「……終わりました」


ノアは空間から指を収めると、小さく息を吐いた。

人を、いや、かつて人だったものをその手で終わらせたというのに、不思議と罪悪感も恐怖も湧いてこない。

あるのはただ、「乱れた本棚を正しく整理し終えた」時のような、静かな充足感だけだった。


「ノア……貴女、一体……」


背後で、イリアが腰を抜かしたまま、震える声で呟いた。

振り向いたノアに向けられるその視線は、得体の知れない神性か、あるいは化け物を見るかのように怯えを孕んでいる。


さらにその後方。

砂埃の中で意識を失っていたはずのローランが、わずかに目を開き、信じられないものを見るような眼差しでノアを見つめていた。


「詠唱もせず、コアも消費せず……法則を綴り直す、だと……」


老騎士の血まみれの唇が、微かに震えて言葉を紡ぐ。

長年、数多の「星法」を見てきたであろう彼にとって、今のノアの力は完全に常軌を逸した異常なものとして映っているらしかった。


「……それは、神話の……本物の『星綴り』ではないか。エリアス殿、貴方はこの娘に、何を背負わせたのだ……」


ローランの掠れた呟きは、灰色の風に飲まれて消えていった。


ノアは何も答えない。答える言葉を持たなかった。

彼女の腰にある『白紙の魔導書』だけが、新たに刻まれた一ページ目の重みを誇示するように、静かな存在感を放っていた。


(第9話 完)


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