ep8 星被の襲撃
灰色の砂嵐の向こうから、ズルリ、ズルリと足を引きずりながら現れた四つの影。
それを見た瞬間、ノアの頭の中に冷徹な計算が成り立った。
(……勝ち目はありません)
対してこちらの戦力は、重傷を負って疲弊しきった老騎士が一人と、戦う術を全く持たない少女が二人だけだ。
しかも、ここは星の死帯である。
大気中のエーテルは完全に枯渇しており、星法による支援や回復、攻撃の術は一切望めない。乾いた砂が喉にへばりつくような、呼吸すらも重苦しい死の領域。
通常であれば、即座に逃走のための道筋を探るべき局面だ。
だが、ノアは逃げなかった。
彼女はローランの背後から一歩前に進み出ると、吹き荒れる乾いた風に打たれながら、静かにまぶたを閉じた。
「ノア、何を……ッ!」
ローランの制止の声を背中で聞きながら、ノアは再びその眼を開く。
「朝焼けの境界線」と称される彼女の碧眼。
その深いサファイアブルーの虹彩の中に、金色の幾何学的な星図の紋様が静かに浮かび上がり、チリ、と微かな音を立てて回転を始めた。
途端に、彼女の視界が物理的な風景から「光と因果の網目」へと変換される。
ノアが見ているのは、襲い来る怪物たちのグロテスクな外見ではない。その内側にある、絡まり、ねじ切れ、悲鳴を上げている「因果の線」の歪みそのものだ。
「……ひどく、醜い形です。見ていて吐き気がするほどに」
ノアは、同情とも嫌悪ともつかない、酷く平坦な声で呟いた。
「え……?」
恐怖にすくみ上がり、ローランの腰のあたりにしがみついていたイリアが、涙目のままノアを見上げる。
「見えませんか、イリア様。彼らの構造は、めちゃくちゃです」
ノアは空中に細い指を走らせ、見えない星の配置をなぞるような仕草をした。
「本来あるべき『人間』という形の隙間に、強制的に『鉱物』という異物が綴り込まれています。その致命的な歪みを解消しようとして、命の脈動が暴走し、自らの肉体を内側から焼き切っている。……彼らは、ただ存在しているだけで、全身の骨を万力で粉々に砕かれるような激痛を感じているはずです」
だから、彼らは狂うのだ。
その終わりのない激痛を、他者の命を喰らうことでしか、一時的にでも紛らわせることができないから。
彼らは加害者である以前に、星の力に弄ばれた哀れな犠牲者だった。
「そ、そんなこと……知ったことじゃないわよ! あいつらは、私たちを殺そうとしてるのよ!?」
イリアが悲鳴のように叫ぶ。
当然の反応だ。明確な殺意を持って迫りくる暴徒に対し、その構造的な苦痛を慮る余裕など、常人にはあるはずもない。
けれど、ノアには視えてしまうのだ。
「石ヨコセ」という濁ったうめき声の裏にある、「この歪な形を直してくれ」「終わらせてくれ」という、魂の軋む音が。
「……下がらんか、ノア!」
ローランが鋭く一喝した。
その声には、長年戦場を渡り歩いてきた者だけが持つ、重い殺気が込められていた。
「理屈で敵が倒せるか! 奴らはもう人間ではない、ただの飢えた獣だ!」
ローランは折れた愛剣を上段に構え、四体の星被の前に立ちはだかった。
ひしゃげた白銀の甲冑。血の滲む無数の傷。
それでも、彼がそこに立つだけで、空間に「不落の白壁」と呼ばれる強固な領域が構築される。長年の血のにじむような鍛錬によって磨き上げられた、武の幾何学だ。
「イリア様をお連れして、走れ! ここは私が……ッ!」
その言葉が終わるより早く、先頭にいた星被の一体が地を蹴った。
(速い……!)
ノアは目を見張った。
それは、人間の筋肉が構造上出せる速度を遥かに超えていた。
無理やり埋め込まれた濁ったコアが、肉体の限界を強制的に突破させているのだ。筋肉繊維がブチブチと千切れる音を響かせながら、怪物はローランの懐へと砲弾のように飛び込んできた。
右腕。
人間のそれの三倍以上に肥大化し、皮膚を突き破って岩のように硬化した紫水晶の結晶が、槍となって突き出される。
ガギィィンッ!
ローランの折れた剣が、その刺突を辛うじて受け流す。
だが、その拳はただの肉ではなかった。純粋な鉱物の質量が乗った一撃は、老騎士の痩せた腕の骨を軋ませる。
「ぐぅぅ……ッ!」
ローランの巨体が、後方に数メートルも押し込まれる。岩肌にブーツの底が削られ、火花が散った。
彼の腕力をもってしても、純粋な質量と速度の暴力には抗いきれない。
(……理不尽な)
ノアは歯を食いしばった。
ローランの剣術は、美しい。力の流れを見切り、最小の動きで最大の効果を生む「洗練された法則」だ。
しかし、目の前の怪物は違う。自分の骨が砕けようが、筋肉が裂けようがお構いなしに、ただ真っ直ぐに「破壊の線」を引いてくる。自壊を前提とした力に、正しい剣術の軌道が押し潰されていく。
「化け物め……なめるなッ!」
ローランは気迫の咆哮と共に剣を強引に弾き返し、怪物のガラ空きになった胴体へ、渾身の蹴りを叩き込んだ。
ドゴォッ! という鈍い音が響き、星被の肋骨が砕けるような、嫌な音がノアの耳にも届いた。
怪物は数十メートル後方へと鞠のように吹き飛び、灰色の砂煙を上げた。
見事な一撃だった。
だが、ローランの横顔に安堵はない。
吹き飛んだ怪物は、すぐに四つん這いになって立ち上がった。砕けたはずの胸部から、チリチリと不気味な音を立てて新たな紫水晶が増殖し、傷口を強引に縫い合わせてしまったのだ。
「……不死身か。冗談ではないぞ」
ローランの額を脂汗が伝う。
その絶望的な光景を合図にしたかのように、残る三体の星被が、左右と頭上から同時に襲いかかってきた。
「しまッ……」
四本の腕が、ローランの構築した「防御の円」を暴力的に引き裂く。
(……ああっ!)
ノアの眼に、悲惨な光景が視えた。
ローランの身体を構成する「堅牢な星図」が、無残に叩き割られていく。
左肩の関節が外れ、脇腹の装甲が紙のようにひしゃげ、肉が裂ける。
「ローラン! 右への踏み込みは危険です! 膝の関節が耐えられません!」
ノアは叫びながら、無意識に右手を虚空へと伸ばしていた。
(線を……! ここに、彼を守るための美しい線を!)
本を修復する時のように、親指と人差し指を伸ばし、空間に漂う微弱な光の痕跡を視線で捉え、それを結ぼうと空中に指を走らせる。
頭の中には、盾を意味する菱形の星図が明確に描けていた。
あの夜、塔の窓辺で見た「調和」の形。それをここに持ち込めば、この醜い暴力を弾き返すことができるはずだ。
だが、何も起きない。
指先は虚しく空気を切るだけで、描いたはずの光の軌跡は、一瞬で灰色の風に掻き消されてしまう。
世界に新たな記述を刻むための「熱」が、ノアの中でまだ臨界点に達していないのだ。ただの少女の思いつきや焦燥だけでは、世界の法則は書き換わらない。
「……駄目、結べない……!」
ノアは自分の無力な右手を握りしめ、唇を噛んだ。
自分がただの「観測者」に過ぎないという現実が、重くのしかかる。
「がぁッ……!」
血しぶきが舞い、ローランが遂にその場に膝をついた。
左肩が完全に脱臼してだらりと垂れ下がり、脇腹からはとめどなく血が流れている。
星法を使えぬこの空間では、傷を塞ぐ魔法も使えない。流れる血は、そのまま命の時間の砂が落ちていくのと同じだった。
「ローラン!」
イリアが悲鳴を上げる。
彼女は自分の身の危険も顧みず、倒れ伏した老騎士のもとへ駆け寄ろうとした。
だが、ローランは血に染まった右手でそれを制した。
「来るな! ……逃げ……ろ……」
ローランは口から血の泡を吹きながらも、這いつくばって、迫り来る星被の足首にすがりついた。
それは、騎士としての意地だった。
最早剣を振るう力はない。ならば、己の肉体そのものをただの障害物として投げ出し、主君へ向かう道を一秒でも長く塞ごうとする、悲壮な忠誠心。
「邪魔、ダ……ッ!」
だが、星被は鬱陶しそうに老騎士の顔面を蹴り飛ばした。
ゴシャッ、という鈍い音と共に、ローランの意識が完全に刈り取られ、その巨体がぼろ布のように砂埃の中に転がった。
「ローラン……嘘、でしょ……?」
イリアの顔から、完全に血の気が引いたように見えた。
幼い頃からずっと傍にいて、絶対に倒れることのなかった「不落の白壁」が、泥にまみれてピクリとも動かない。
その光景が、彼女の心を芯から凍りつかせたのだろう。
最大の障害を排除した星被たちは、ゆっくりと首を巡らせた。
その濁りきった視線が、立ち尽くすノアではなく、背後で震えているイリアへと固定される。
「……イシ……」
星被の口から、空気が漏れるような音がした。
粘着質で、底知れぬ飢餓感を孕んだ響き。
「……イシ……。ソレハ……オレノ……」
男の口から漏れる言葉は、もはや人間の言葉としての形を保っていなかった。
ただの音波としての、純粋な欲求。
「ひッ……」
イリアは後ずさった。
この化け物たちが見ているのは、イリアという人間ではなく、彼女の首にかかっている光を失った精霊結晶のペンダントであることは、ノアの目にも明らかだった。
父王の形見であり、アルカディア王家の象徴。
それを奪われることは、イリア・シルベ・アルカディアという人間の存在証明を完全に否定され、ただの肉塊になり果てることに等しい。
(……逃げなきゃ。殺される!)
イリアの足が、恐怖で後ろへ下がろうとする。
喉が干からび、悲鳴すら声にならない。
だが、その時、彼女は足元に転がっていた『泥』を見て、ハッとしたように動きを止めた。
数時間前、彼女はあの泥だらけの魔導書の前で誓ったはずだ。
もう二度と、みじめに這いずり回るような真似はしないと。
悲劇のヒロインを気取って、誰かに「醜い結末」を書き込まれるくらいなら、自分の足で立って死ぬと。
ノアは、イリアの横顔に宿った凄絶な決意の光を見て、そう確信した。
「……渡さない」
イリアは後ずさるのをやめた。
両手でペンダントを胸の奥に強く握りしめ、ボロボロになったサテンの靴で大地を踏みしめる。
その眼には大粒の涙が溜まっていたが、彼女は誇り高き王女としての意地で、化け物たちを睨み返した。
「これは、私のお父様のものよ! アルカディアの誇りよ! 絶対に、渡さない……ッ!」
少女の悲痛な叫び。
だが、その気高い拒絶が、皮肉にも、星被の狂気的な渇きに油を注ぐ結果となった。
「ヨコセェェェェッ!」
三体の怪物が、一斉にイリアへと跳躍する。
結晶化した腕が、彼女の柔らかな身体を引き裂こうと迫る。
ローランは倒れ、ノアの指は星の光を紡げない。
もはや彼女を守る壁は、どこにも存在しなかった。
死の影が、王女の頭上にすっぽりと覆い被さった。
(第8話 完)




