ep6 灰の朝
夜明けは訪れた。
だが、それは希望を告げる朝ではなかった。
東の空に滲んだ太陽は、血を吸った真綿のように濁り、地上を薄ぼんやりとした鉛色に染め上げていた。
音がない。
鳥のさえずりも、風のそよぎも、人々の営みの喧騒も。
世界中の音が、降り積もる「白」によって吸音されてしまったかのようだ。
ハラリ、ハラリ。
空から際限なく降り注ぐものがあった。
雪ではない。熱を持たない、乾いた白い粉。
それは、一晩で燃え尽きた王都アル・レイスの遺灰であり、数千年の栄華を誇った星法文明の死骸だった。
「……寒い」
ノアは、自身の震える肩を抱いた。
灰は雪のように積もり、荒野のゴツゴツとした岩肌を、そしてノアたちの足跡を白く覆い隠していく。
彼女の亜麻色の髪にも、長い睫毛にも、死の粉が絡みついている。払おうとして指で触れると、黒い墨のように崩れ、肌に粘り着いた。
(美しかった星図の、燃えカス……)
ノアは、汚れた指先を見つめた。
この灰の一粒一粒が、かつては誰かの家であり、誰かの愛読書であり、誰かの明日への約束だったのだ。
物質としての形を失い、意味を剥奪された、かつての日常の残骸。
調和を失ったその醜い粉が、今、世界を白装束のように包み込んでいる。
「歩け、イリア様。……止まれば、死ぬぞ」
前方から、錆びついた蝶番のような声が聞こえた。
ローランだ。
老騎士の姿は、見るも無惨だった。
白銀の甲冑は砕け、半分以上が剥がれ落ちている。露出した古傷だらけの皮膚には、新たな火傷と切り傷が刻まれ、そこから滲んだ血が灰と混じり合って凝固していた。
それでも、彼は立っていた。
折れた剣を杖代わりに、一歩、また一歩と、土塊のような大地を踏みしめていく。
その背中には、イリア王女が負われているわけではない。
彼女は自分の足で歩かされていた。
ローランが、鬼となって無理やり歩かせているのだ。
「いや……もう、歩けない……。靴が……足が……」
イリアが弱々しく呻き、膝から崩れ落ちようとする。
彼女の豪奢なドレスの裾はボロボロに裂け、足元のサテンの靴は泥と血で赤黒く変色していた。温室で育った花にとって、荒野の岩場は鋭利な刃物の上を歩くごとき苦行だろう。
「立つんだ!」
ローランが振り返り、イリアの腕を乱暴に引き上げた。
その力強さに、イリアが悲鳴を上げる。
「痛い……! 離して、ローラン! 無礼者!」
「無礼で結構! ここで倒れれば、貴女様はただの野犬の餌だ。王家の誇りも、血筋も、獣の腹の中で糞になるだけだぞ!」
叱責。
しかし、その言葉の裏には、主君を死なせまいとする悲痛なまでの忠誠があった。
甘やかして死なせるより、憎まれてでも生かす。それが、生き残った「盾」としての最後の矜持なのだと、ノアは理解した。
ノアは、黙ってそのやり取りを見ていた。
助け船を出す言葉も、同情する気力も、今の彼女には残っていなかった。
彼女の腰には、父の遺品である『白紙の魔導書』が提げられている。
その鉛のような重みだけが、彼女を現実に繋ぎ止める錨だった。
(お父様……)
ノアは、灰色の空を見上げた。
父はもういない。
あの塔も、蔵書も、書きかけの論文も、すべて消えた。
「エリアス・レクシア」という星図は、ここで無残に引きちぎられたのだ。
その現実が、鋭利なナイフのように胸を抉る。
ふと、ノアの視界――『星綴り(ほしつづり)』の瞳が、前方の風景の歪みを捉えた。
「……境界線です」
ノアの乾いた声に、ローランが足を止めた。
彼らの目の前に、風景の質が変わる一線があった。
ここまでは、まだ「王都圏」の植生が残る、まばらな草地だった。
だが、その先は違う。
地面が、白く渇いている。
草一本、虫一匹いない、完全なる死の世界。
地中の精霊結晶が枯渇し、土地そのものがミイラ化した場所。
「西の荒野」。
別名、星の墓場。
「……ここから先は、神の加護はない」
ローランが呻くように言った。
「水もない。食料もない。あるのは、星の渇きに狂った魔獣と、死だけだ」
そこは、人が住むための場所ではない。
神の紡ぐ物語から切り捨てられた、空白の余白。
「それでも、行くのですか?」
ノアが問いかける。
引き返すなら今だ。今ならまだ、帝国の捕虜になって生き延びるという「屈辱のルート」も残されている。
ローランは振り返らなかった。
彼は、灰にまみれた顔で、西の地平線を睨みつけた。
「行くさ。……我らの王都は焼かれたが、魂までは焼かれていない。這ってでも、泥をすすってでも、生き延びてみせる」
老騎士は、境界線を踏み越えた。
ジャリッ。
乾いた砂の音が、不気味に響く。
イリアも、泣き腫らした目で、ふらふらとその背中を追う。
ノアは一人、境界線の手前で立ち尽くした。
彼女は一度だけ、背後を振り返った。
鉛色の霞の向こう。
かつて自分が生きていた「美しい幾何学」があった方角。
そこにはもう、醜い煙の柱しか見えなかった。
(さようなら)
ノアは、心の中で呟いた。
過去への決別。
そして、彼女もまた、死の荒野へと足を一歩踏み出した。
境界線を越えると、空気が変わった。
重い。
呼吸をするたびに、肺の中に乾いた砂が流れ込んでくるような錯覚を覚える。
そこは「西の荒野」。
地脈のエーテルが完全に枯渇し、星の加護を失った死の世界。
ノアは、自身の『星綴り』の眼が、機能を失っていく恐怖と戦っていた。
これまでは、空間に散らばる光の点を視界で捉えることができた。
けれど、ここでは正常な星の繋がりがほとんど読み取れない。
灰色一色の砂嵐。
光の届かない空白地帯。
かろうじて視えるのは、消えかけた光のような、頼りない残滓だけ。
まるで、世界の端にある断崖絶壁から、虚無の海へと放り出されたような孤独感。
「……う、ぅ……」
背後で、重い音がした。
イリアが倒れ込んだ音だった。
王女は、灰と砂にまみれた地面に両手をつき、肩で息をしている。その美しい金髪は、汗と埃で固まり、見る影もない。
「イリア様!」
ローランが駆け寄ろうとして、よろめいた。
彼もまた、限界だったのだ。
「不落の白壁」と呼ばれた巨体は、今はひび割れた土人形のように脆く見えた。
「……置いていって」
イリアが、地面に顔を伏せたまま呟いた。
その声は、掠れてほとんど聞き取れない。
「もう、歩けない。足が……痛いの。喉が……焼けるように熱いの」
それは、わがままではないとノアには分かっていた。
生物としての限界の吐露だった。
温室で育った花は、荒野の風に吹かれるだけで枯れてしまうのだ。
「……ダメだ」
ローランが膝をつき、震える手でイリアの肩を抱いた。
「ここで止まれば、死ぬ。……陛下に、顔向けができん」
「お父様は死んだわ!」
イリアが顔を上げ、絶叫した。
その瞳から、大粒の涙が溢れ出し、煤けた頬に白い筋を作る。
「みんな死んだ! 国も、家も、全部燃えてしまった! これ以上生きて何になるの!? こんな泥の中で、痛みに耐えて……みじめに這いずり回るくらいなら、ここで死んだほうがマシよ!」
王女の慟哭が、何もない荒野に吸い込まれていく。
それは、誇り高いがゆえの拒絶だった。
薄汚れた敗残者として生きるくらいなら、綺麗なまま終わりたいという、幼い潔癖さ。
ローランが言葉を詰まらせる。
彼には、主君の「誇りある死」を否定する言葉が見つからなかったのだろう。
その時。
ジャリッ、と乾いた音がした。
ノアが、イリアの目の前に膝をついたのだ。
彼女は無言で、腰から『白紙の魔導書』を外し、その重厚な表紙を開いた。
そして、地面の泥――灰と、イリアの涙が混じった汚い泥を、指先ですくい取った。
「……何をしているの?」
イリアが、涙に濡れた目で不審げにノアを睨む。
(お父様、ごめんなさい。最初の1ページ目は、ひどく醜いものになります)
ノアは心の中で短く謝罪すると、泥のついた指を、真っ白なページに押し付けた。
『アル・レイス王女、イリア。西の荒野にて死亡。死因:靴擦れの痛みに耐えられず音を上げたため』
ノアの指が、醜い文字を書きなぐる。
しかし、綴り手としての光を帯びていないその泥の文字は、不思議な羊皮紙に染み込むことはなく、乾くそばからパラパラと崩れ落ちていく。
「……何をしているの? そんな泥、すぐに消えちゃうじゃない」
涙目のイリアが呆れたように言うと、ノアは淡々と、感情のない記録者の声で答えた。
「ええ。消えます」
「……え?」
「私が光で綴る価値もない。ただ汚れて、剥がれ落ちて、誰の記憶にも残らない。……ここで終わるなら、それが貴女の『結末』です。悲劇のヒロインですらありません。ただの無意味な泥です」
「ふ……ふざけないで!」
イリアの顔色が、蒼白から朱色へと変わった。
極限の怒りと屈辱。
国を焼かれた悲しみよりも、今、目の前の少女に「弱くて情けない」と断じられた事実が、王女の誇りを猛烈に逆撫でしたのが、ノアにははっきりと見て取れた。
「取り消しなさい……ッ! 私が無意味だなんて、そんなこと!」
イリアは激昂して立ち上がり、ノアから魔導書を奪い取ろうとした。
だが、ノアはすっと本を閉じ、泥だらけの指で重厚な革の表紙をがっしりと掴んで、手元へ引き寄せた。
その動作によって、無垢だった表紙に、生々しい泥の手形がべっとりと焼き付く。
ノアは、表紙についたその泥を、あえて拭わずにイリアを見据えた。
「消しません。……嫌なら、ご自分の足で歩いて、別の結末を私に書かせてください」
イリアは歯を食いしばった。
ギリリ、と音がするほど強く。
涙は止まっていた。代わりに、ノアを睨みつける瞳には、殺意にも似た昏い光が宿っている。
「……誰が、貴女なんかに」
イリアは、震える足で大地を踏みしめ、自身の体を無理やり支えた。
足に激痛が走っているはずだ。だが、彼女はそれを憎悪でねじ伏せてみせた。
「誰が貴女なんかに、私の結末を書かせるもんですか! 私は……イリア・シルベ・アルカディアよ! こんな泥の中で、野垂れ死んでたまるもんですか!」
ビリッ!
イリアは邪魔なドレスの裾を鷲掴みにし、力任せに引きちぎった。
動きにくかった長いスカートが、膝上の丈になる。
剥き出しになった足は傷だらけだったが、二度と崩れ落ちないという意志を持っていた。
「……参りましたな」
ローランが呆気にとられた後、深いため息と共に微笑んだ。
それは安堵の笑みのようにノアには見えた。姫が、可憐な花であることを辞め、棘のある野薔薇になることを選んだと悟ったのだろう。
「行こう。……風を背にして」
ローランが折れた剣を杖にして、再び歩き出す。
イリアも、ノアをきつく睨みつけながら、肩で息をして歩き出した。
(破滅のページは、回避された)
ノアは、手元の魔導書を見下ろした。
中のページは純白のままだが、外側の表紙には、現実という泥が深くこびりついている。
彼女自身もまた、父を失った喪失感を、「生き延びて新たな星図を描く」という執念で埋めたのだ。
これは、希望の物語ではない。
意地と、執着の物語だ。
三つの影が、灰色の荒野へと消えていく。
背後には、燃え尽きた故郷。
頭上には、鉛色の空。
行き先など分からない。
ただ、死の臭いがする場所から、少しでも遠くへ。
少女たちの足跡は、灰に埋もれながらも、確かに明日へと続いていた。
(第1章 完)




