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ep5 魔王の視線

その男の背中は、いつからこれほど遠くなってしまったのだろうか。


上空一千メートル。鉄鋼帝国旗艦、空中戦艦『鉄竜アイアン・ドレイク』の艦橋デッキ。


吹き荒れる夜風は地上の熱を孕み、鉄の錆びた匂いと焦げた脂の臭気を運んでくる。だが、皇帝ヴァルガスの周囲だけは、針葉樹の森のような冷たい静寂に包まれていた。


ソニア・ベルローズは三歩下がった位置から、主君の立ち姿を見つめていた。漆黒のマントが、夜の闇に溶け込むように翻る。その肩は広く、岩のように微動だにしない。


かつて彼女がその肩に額を預け、明日を語らった日々は、遠い過去の幻影だ。今の彼は、鉄鋼帝国という巨大な機構の「心臓」であり、大陸を焦土に変える破壊の化身でしかない。


「……古いページが、また一枚燃え落ちたか」


ヴァルガスが、鉄仮面の奥で低く呟いた。その声に歓喜も悲哀もない。神々が綴った不要な物語を、冷徹に破り捨てていく静かな響きだけがあった。


ソニアは、彼が見下ろす視線の先を追う。


眼下、燃え盛る王都アル・レイスの彼方。断崖の上にそびえ立っていた石造りの巨塔――数千年の叡智を収蔵した知の聖域が根元からへし折られ、赤黒い土煙を上げて瓦礫へと還っていく。


(エリアス様……)


ソニアは胸の内で、恩師の名を呼んだ。「世界は美しい星図でできている」と笑った少年の瞳が、今は鉄仮面の奥で冷たく燃えている。あの優しかった老賢者は今、かつての教え子の手によって灰になったのだろうか。


ギィィ……。


鋼鉄が悲鳴を上げる音が、ソニアの思考を現実に引き戻した。ヴァルガスの手甲が、手すりの鉄パイプを握り潰し、ひしゃげさせていた。


(……貴方でも、痛むのですか)


ソニアは息を呑んだ。鉄仮面で表情は読めない。だが、その拳の震えは、彼の中にまだ「人の心」の熱が残っていることを示し、ソニアの胸を締め付けた。


なぜ、そこまでするのですか。恩師を焼き、故郷同然の国を滅ぼしてまで、貴方は何を急いでいるのですか。その問いは喉の奥にへばりつき、決して言葉にはならない。今の彼に「なぜ」と問うことは、皇帝への反逆を意味するからだ。


「ご報告します!」


無粋な足音と共に、親衛隊長がデッキに駆け上がってきた。直立不動で敬礼し、興奮した声で告げる。


「目標『星見の塔』の完全崩落を確認。これより機甲猟兵イェーガーを展開し、残存する星法文献の回収、および生存者の掃討に移行します!」


ヴァルガスは振り返らなかった。その背中から放たれる冷気が、親衛隊長の言葉を凍らせる。


「……回収は不要だ。すべて灰となった」


絶対零度の声。


「生存者の捜索も、深追いはするな」


「はっ? しかし、塔の地下より数名が脱出した痕跡ありとの報告が……」


「捨て置けと言ったのだ。……死に損ないの老兵と、星を観測することしかできぬ無力な少女だ。私が敷く新しいことわりに、彼らの歩む道筋はない」


「は、はっ! 失礼いたしました!」


隊長は逃げるように去っていった。再び、静寂が戻る。


ソニアは一歩、主君に歩み寄った。彼の視線は、まだ眼下の闇――西の荒野の入り口に向けられていた。そこには、肉眼では見えないほどの、微弱な命の脈動があるはずだ。


(……あの方ですね)


ソニアには分かった。彼が見逃したのは、ただの生存者ではない。かつて彼に剣を教え、王者の振る舞いを叩き込んだ近衛騎士団長、ローラン・ヴァロア。彼の「過去」を知る、数少ない生き証人。


殺せたはずだ。この戦艦の主砲を開けば、虫けらのように消し去ることができたはずだ。それをしなかったのは慈悲か。それとも――これ以上己の手を過去の血で汚すことを、彼自身の理性が拒絶したのか。


「……行くぞ、ソニア」


ヴァルガスは、何かを振り払うようにマントを翻した。その時、手甲の隙間から、どす黒い血が滴り落ちたのをソニアは見逃さなかった。


「少し、休息を……」


「無用だ」


短い拒絶。彼は懐に忍ばせた何かにそっと触れ、そのまま歩み去っていく。ソニアは深く頭を下げ、孤独な背中を追った。


   *


鋼鉄の扉が重々しい音を立てて閉ざされると、そこは世界から隔絶された密室となった。


戦艦『鉄竜』の最深部、皇帝私室。装飾の一切ない、修道房のように殺風景な空間だ。あるのは執務用の机と、仮眠用の粗末なベッド、そして壁一面に貼られた大陸全土の星脈地図だけ。ここにあるのは、世界を冷徹に終わらせるための、過酷な道具だけだ。


「……ぐっ、ぅ……ッ!」


入室した途端、ヴァルガスの膝が折れた。机に手をつき、激しく肩を揺らす。鉄仮面の通気孔から、咳き込むたびに赤黒い飛沫が散り、冷たい鉄の床を汚していく。


「陛下!」


ソニアは即座に駆け寄り、その体を支えた。重い。甲冑の質量ではない。彼が引き受けている正体不明の「業」が、そのまま肉体にのしかかっているようだ。


ヴァルガスは乱暴に鉄仮面を剥ぎ取った。ガラン、と仮面が床に転がる。


露わになった素顔。世間が恐れる「魔王」の顔ではなかった。


端正だが、病的に蒼白な肌。目の下には濃い隈が刻まれ、頬は削げ落ちている。かつて「貴公子」と呼ばれたヴィンスの面影は過酷な責務によって磨耗し、今にも砕けそうなガラス細工のようだった。


「……布を」


掠れた声。ソニアは懐から清潔な白布を取り出し、震える手で彼の口元を拭う。白い布が、瞬く間に鮮血で染まった。


(その血は、どこから流れているのですか)


彼が背負う何かが、文字通りその身を内側から焼き焦がしているかのようだ。


「発作の間隔が短くなっています。医師に見せなければ……」


「無用だと言っている」


ヴァルガスは血の付いた布を奪い取り、握り潰した。灰色の瞳が、狂気的な光を帯びて壁の地図を睨む。


「治る病ではない。これは等価交換ですらない。星の寿命を強制的に奪い、強引に天の秩序をねじ曲げるための、肉体を削る代償だ」


彼はよろめきながら立ち上がり、壁の地図に指を這わせた。アル・レイス、アヴァロン、リブラ、そして帝都アイゼンブルグ。主要な都市には、赤い×印が引かれている。


「神々がこの地上に強いた古い星図を焼き尽くし、世界を白紙に戻す。そのごうには、相応の熱量が要るというだけのことだ」


それは単なる侵略の計画図ではない。神が地上に強いた星図(運命)を自らの手で焼き尽くし、世界を完全に白紙に戻すための、壮絶な墓標の目録だった。


「あと三年だ」


ヴァルガスは夢遊病者のように呟き、懐から銀色の懐中時計を取り出した。カチリ、と蓋を開ける。


そこにあるのは、砂の代わりに砕けた星屑がサラサラと落ちていく『終焉の砂時計』。ソニアには、その時計の真の意味がわからない。ただ、彼がそれに追い立てられるように、焦燥を募らせていることだけは分かる。


「あと三年で、すべてを終わらせる。……それまではこの命、悪魔に売り渡してでも保たせてみせる」


その言葉には、悲壮な決意が滲んでいた。


(なぜ)


ソニアの胸に、何度目かも分からない問いが湧き上がる。穏やかだった貴方が、なぜ突然、恩師を焼き、故郷を滅ぼす修羅と化したのですか。貴方をここまで駆り立てる、私には想像もつかない巨大な絶望があるのではないですか。


「……ヴィンス様」


ソニアは、二人きりの時だけ許された名で彼を呼んだ。そっと近づき、彼の手から血塗れの布を抜き取る。そして、その氷のように冷たい手を、両手で包み込んだ。


「教えてください。貴方は何を恐れ、何と戦っているのですか? 私には……貴方が何かに怯え、泣いているように見えます」


ヴァルガスの肩が、ピクリと震えた。ゆっくりと視線を落としたその瞳に、一瞬だけ、かつての婚約者に向ける柔らかな光が宿った気がした。


だが、それは瞬きの間に消え失せた。バシッ、という乾いた音が、密室に響く。彼は、ソニアの手を振り払ったのだ。


「……うぬぼれるな、ソニア」


拒絶。冷徹な皇帝の声が、ソニアの心を切り裂く。


「私が怯えているだと? 笑わせるな。私はただ、神が綴った退屈な既存の星図を、自らの手で乱暴に書き換えるという遊戯を楽しんでいるだけだ。腐りきったこの世界を灰に還元し、人の足で歩む時代を自ら切り拓くことをな」


(嘘だ)


ソニアは唇を噛んだ。


貴方は嘘をつくとき、右の眉を少しだけ上げる癖がある。昔と変わらない。貴方は私を遠ざけようとしている。自分の血で、私まで汚さぬように。


「……行くぞ」


ヴァルガスは乱暴に鉄仮面を拾い上げ、顔に装着した。カチャリ。冷たい金属音が響き、苦悩する青年の素顔が隠される。


そこに立つのは、もうヴィンスではない。鉄鋼皇帝ヴァルガスだ。


「夜明けまでにはリルケ大運河へ到達し、封鎖線を敷く。……大陸の首根っこを押さえるぞ、親衛隊長」


彼はマントを翻し、扉へと向かった。ソニアは赤くなった手を胸に抱き、深く一礼した。


「……御意に、陛下」


(私は知ることはできない。貴方の真意も、その時計の意味も)


けれど、貴方が地獄へ落ちるというなら、私はその奈落の底まで付き従おう。たとえ貴方が私を拒絶し、貴方の吐く血で私の手を真っ赤に染めることになっても、この命が尽きるまで、貴方の孤独な背中を守る「影」であり続けよう。


戦艦『鉄竜』は、唸りを上げて闇を切り裂く。窓の外、東の空が微かに白み始めていた。


だが、それは希望の朝ではない。灰色の雲が垂れ込める、重く、苦しい「鉄の時代の夜明け」だった。星の光は見えず、ただ鉄の歯車の駆動音だけが、世界を支配する時代の始まり。

(第5話 完)

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