ep4 紅蓮の夜
闇は、時間の感覚を奪う。
地下通路に響くのは、三人の荒い足音と、湿った石壁から滴る水滴の音だけだった。
世界から色彩が剥落している。
そこは、光も音も届かぬ、現世と冥府の境界線のような場所だった。
先頭を歩くのはノアだ。
松明はない。だが、彼女の『星綴り(ほしつづり)』の瞳は、暗闇の中に微かに残留する「エーテルの道筋」を捉えていた。
かつて星詠みたちがこの地下道を掘った際、岩盤に刻み込んだ星法の回路。数百年が経過し、もはや機能していないその残骸を、ノアは「消えかけたインクの跡」として読み取り、迷路のような暗渠を進んでいく。
父が、命と引き換えに開いてくれた道。
その事実が、足に鉛のような重りを巻き付けていた。
振り返りたい衝動。
今すぐ戻って、瓦礫を退ければ、煤だらけの父が「やあ、遅かったね」と笑っているのではないか。そんな甘い空想が脳裏をよぎる。
だが、ノアの眼は残酷なほど正確に現実を告げていた。
背後の闇――塔があった方角からのエーテル供給は、完全に絶たれている。
登場人物「エリアス・レクシア」の記述は、終了したのだ。
ロスト。
その冷徹な二文字が、胸の奥で氷のように居座っている。
(泣いてはだめ。……読み進めなきゃ)
ノアは胸に抱いた『白紙の魔導書』を強く握りしめた。
革表紙の冷たい感触が、震える指先に突き刺さる。
父は言った。「お前自身の言葉で書け」と。
ならば、まずはこの暗闇を抜け出し、次のシーンへ到達しなければならない。
それが、生き残ってしまった執筆者としての、最初の義務だ。
「……ハァ、ハァ……ッ」
背後から、鉄錆の擦れるような呼吸音が聞こえる。
ローランだ。
老騎士は、とっくに限界を超えていた。
蒸気式機甲鎧の一撃を受けた脇腹は甲冑ごと陥没し、歩くたびに金具が肉に食い込む音が、湿った闇に反響する。
それでも彼は、左腕でイリア王女を支え、右手には折れた剣を握りしめたまま、一歩も遅れずに付いてきていた。
その姿は、忠義という名のゼンマイだけで動く、壊れかけた絡繰人形のようだった。
イリアは、もう泣いていなかった。
いや、泣く力さえ尽き果てていた。
泥と煤で汚れたシルクのドレスを引きずり、魂の抜けた硝子玉のような目で、ただローランに運ばれている。
かつて「王国の月」と謳われた高貴な輝きは見る影もない。そこにあるのは、理不尽な暴力によって折られた、ただの一輪の花の死骸だった。
「……あと少しです」
ノアが小声で告げた。
彼女の声は、長い間使われていなかった古書のように、カサついていた。
前方から流れてくる風が変わったのだ。
地下特有のカビ臭さが消え、代わりに鼻をつく異臭が混じり始めた。
焦げた木材。
溶けた石。
そして、大量の有機物が炭化した、脂の腐ったような臭い。
「出口だ……」
ローランが呻いた。
通路の勾配がきつくなり、自然の岩肌が露出した洞窟へと変わる。
その先、頭上の岩の裂け目から、光が漏れていた。
だが、それは希望の光ではなかった。
夜明けの蒼さでも、月光の銀色でもない。
血を煮詰めたような、毒々しい赤。
その色が、ノアの白い頬を不吉に染め上げる。
「……外へ出ます。目を塞がないでください」
ノアは自分自身に言い聞かせるように呟き、岩棚に手をかけた。
指先に、熱風が絡みつく。
それは自然の風ではない。数キロ離れた場所で発生した莫大な熱量が、大気を押し出し、ここまで届いているのだ。
ノアが外へ顔を出した、その瞬間だった。
世界は「音」で彼女を殴りつけた。
ゴォォォォォォォ……!
轟音。
それは風の音ではない。大気そのものが悲鳴を上げ、燃えている音だった。
視界が開ける。
そこは、星見の塔があった断崖から数キロ離れた、西の荒野の入り口だった。
ゴツゴツとした岩場に立ち、ノアはゆっくりと背後を――来た道を振り返った。
「あ……」
言葉が、喉で凍りついた。
後から這い出してきたローランも、イリアも、その場に釘付けになった。
呼吸を忘れた。瞬きさえ忘れた。
そこにあったのは、現実という枠組みを超えた、地獄の風景画だった。
地平線の向こう。
夜空であるはずの天蓋が、昼間よりも明るく、そして禍々しく輝いている。
アルカディアの王都、アル・レイス。
「地上に落ちた銀河」と讃えられた白亜の城壁、尖塔、図書館、市場。
そのすべてが、巨大な溶鉱炉の中に放り込まれたかのように、紅蓮の炎に包まれていた。
美しい都は、もうどこにもなかった。
あるのは、燃え盛る骸だけ。
崩れ落ちる塔のシルエットが、炎のスクリーンに黒い影絵となって映し出され、蜃気楼のように揺らめいている。
空に浮かぶ星々は見えない。
立ち昇る黒煙と火の粉が、神の記した文字を覆い隠し、地上の理を暴力的に塗り替えていた。
これは、「戦争」という言葉で片付けられる光景ではなかった。
文明の火葬。
数千年の叡智が、鉄鋼帝国の放った火によって、ただの熱エネルギーへと還元されていく。
その空を、巨大な影が泳いでいた。
炎と煙の渦中を悠然と進む、鋼鉄の鯨。
帝国の空中戦艦が、腹部から青白い排気を噴き出しながら、死に絶えた都を見下ろしている。
その圧倒的な質量の前では、人の命など、風に舞う塵芥に等しかった。
ノアは、その光景から目を逸らせなかった。
彼女の碧眼には、街が燃えている物理現象以上のものが見えていたからだ。
空間に張り巡らされていた無数の「因果の糸」が、ブチブチと焼き切れていく。
人々の願い、祈り、明日への約束。
それら「記述」のすべてが、二度と復元できないエラーデータとなって、赤黒い空へ吸い込まれていく。
「……ひどい」
誰の言葉だったか。あるいは、誰の言葉でもなかったかもしれない。
ただ、世界そのものが漏らした断末魔のように、その一言だけが熱風の中に溶けていった。
「嘘……嘘よ……」
イリアが、わななきながら口を開いた。
彼女の膝から力が抜け、荒れた地面に崩れ落ちる。
目の前に広がるのは、彼女が愛し、守られるはずだった世界の死骸だ。
かつて王都を彩っていた青白い街灯――精霊結晶は砕け散り、そこから噴き出した暴走エネルギーが、石畳を溶岩のように溶かしている。
「お父様……お母様……。いや……いやぁぁぁッ!」
王女の慟哭が、熱風にかき消されていく。
それは高貴な姫君の声ではない。巣を焼かれた小鳥の、ただの悲鳴だった。
ローランは兜のない頭を垂れ、折れた剣を地面に突き刺した。
彼はそのまま、主君の眠る都へ黙祷を捧げる。その広い背中が、音もなく震えている。
悔恨。無力感。
守るべきものを守れなかった「盾」の痛みが、見る者の胸を締め付ける。
ノアだけが、立っていた。
彼女は、燃える王都から目を逸らさなかった。
逸らせなかった。
彼女の瞳には、その炎が、単なる燃焼現象以上のものとして映っていたからだ。
(記述が……溶けていく)
数千年の歴史。
積み上げられた文化。
人々の営み、恋、喧嘩、祈り。
それら膨大な情報の集合体が、鉄鋼帝国の放った無慈悲な熱量によって、物理的に分解され、還元されていく。
世界という書物の、あまりに多くのページが、今この瞬間、二度と読めない灰へと変わっている。
ノアは、震える手で『白紙の魔導書』を開こうとした。
記録しなければ。
この喪失を。この理不尽な削除を。
誰かが覚えておかなければ、消えたページは「最初からなかったこと」にされてしまう。
それが、父から託された観測者としての役割だ。
カサリ。
乾いた指先が、白いページを開く。
そこにはまだ、何も書かれていない。無限の可能性と、虚無が広がっている。
(書かなきゃ。……『アル・レイス、陥落。文明の消失を確認』……)
ノアは心の中で文章を組み立てる。
いつもなら、どんな複雑な星の運行も、数式のように美しく記述できた。
けれど。
「……かけ、ない」
ノアの指は、空中で硬直したまま動かなかった。
書こうとする手が、拒絶している。
目の前の光景は、あまりに巨大すぎて、悲惨すぎて、どんな言葉も追いつかない。
「消失」なんていう、冷たい二文字で片付けていいはずがない。
あそこには、パン屋のおじさんがいた。図書館の司書さんがいた。昨日まで笑っていた、数万の「主役たち」がいたのだ。
「インクが……足りない」
ノアの瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。
それはインクではない。
透明な、熱い涙だった。
父を失った悲しみと、世界が壊れる音を聞いた絶望が、許容量を超えて溢れ出したのだ。
ポタリ、ポタリと。
涙が白紙のページに落ち、染みを作っていく。
彼女は魔導書を胸に抱き直し、その場にうずくまった。
記録者としての仮面が剥がれ落ち、ただの十四歳の少女に戻った瞬間だった。
「……立つんだ」
しわがれた声が、轟音の隙間を縫って届いた。
ローランだった。
老騎士は、突き刺した剣を杖代わりにして、震える膝を叱咤しながら立ち上がっていた。
その全身は血と煤で汚れ、かつての近衛騎士団長の威厳は見る影もない。ただの薄汚れた敗残兵だ。
だが、その双眸だけが、夜の獣のようにギラギラと光っていた。
「イリア様、ノア。……ぐずぐずしている時間はない」
「嫌っ……!」
イリアが叫んだ。彼女は地面にしがみつき、燃える王都を見上げていた。
「嫌よ! あそこへ帰るの! まだ……まだ間に合うかもしれない! 私だけ逃げるなんて、そんなこと……!」
「戻れば死ぬぞ!」
ローランの怒鳴り声が、イリアの悲鳴を断ち切った。
平手打ちでもされたかのように、イリアが息を呑む。
老騎士は、主君である王女の腕を乱暴に掴み、無理やり立たせた。その握力には、優しさよりも生存への執着が込められていた。
「よく見ろ、あそこを!」
ローランが指差した先。
王都の上空、煙と炎の渦の中に、巨大な黒い影が浮かんでいた。
それは、雲ではない。
鋼鉄で覆われた巨体。腹部から不気味な青白い排気を噴き出す、鉄鋼帝国の空中戦艦だ。
艦首には、帝国の紋章である「二頭の鉄竜」が刻まれている。
ブォォォォォ……。
戦艦の腹が開き、そこから無数の黒い点――機甲猟兵たちが、降下していくのが見えた。
彼らはハイエナのように、まだ息のある生存者や、残された書物、美術品を「処理」するために降り立ったのだ。
「あれが現実だ。王都は落ちたのではない。……食い荒らされているのだ」
ローランの声が震えた。悔しさに、歯が砕けそうなほど噛み締められている。
「今戻れば、我々もあの鉄の胃袋に収まるだけだ。……イリア様。陛下が最期に命じられたのは、貴女様の『死』ではない。『生』だ!」
イリアの瞳から、光が消えた。
彼女は糸が切れたように脱力し、ローランの胸に崩れ落ちた。
「うぅ……あぁぁ……」
声を押し殺した嗚咽。それは、少女の心が壊れる音だった。
ノアは、涙を拭って立ち上がった。
彼女は胸に抱いた『白紙の魔導書』の表紙を、指先でなぞる。
ザラリとした革の感触。
その冷たさが、彼女にわずかな冷静さを取り戻させた。
(……記述は、止まらない)
父は死んだ。国は滅んだ。
だが、ページをめくる風は止まない。
ここで立ち止まれば、自分たちは「第1章で死んだ哀れな端役」として処理されるだけだ。
そんな結末、父は望んでいない。
「……ローランさん」
ノアは静かに声をかけた。
「西です。風の記述が、西へ向かっています」
彼女は荒野の彼方、暗闇が広がる方角を指差した。
「帝国の探知波のエーテル波形が見えます。王都を中心に、東と南は完全に封鎖されています。……生き残る道は、あの荒野を大きく迂回するルートしかありません」
ローランは驚いたようにノアを見た。
直前まで泣き崩れていた少女の瞳に、奇妙なほど透き通った理知の光が戻っていたからだ。
「……西の荒野を抜ける気か? あそこは『星喰らい』の魔獣が出る危険地帯だぞ」
「ええ。だからこそ、鉄の軍隊も深追いはしません」
ノアは一歩、西へ踏み出した。
ゴツゴツした岩場。冷たい風。
その先には、家も、本も、温かい紅茶もない。あるのは、飢えと乾きと、弱肉強食の野生だけ。
「行きましょう。……物語を、終わらせないために」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
震える自分自身の足に向けた、強制的な命令だった。
空からは、雪のように白い灰が降り注いでいた。
それは燃え尽きた書物の残骸であり、星法文明(神の時代)の遺骨でもあった。
灰は音もなく降り積もり、泣き崩れるイリアの金髪を、祈るローランの背中を、そして前を向くノアの小さな肩を、等しく白く染め上げていく。
プロローグは終わったのではない。
乱暴に破り捨てられたのだ。
そして今、インクの切れたペンだけが、泥の中に残されていた。
(第4話 完)




