第5話 授業
何故だ。何で、こうなるんだ。
椅子に腰を下ろし、俺は両手で頭を抱えていた。
講義が行われる教室の中にいる学生は、先程からさらに増えて80人ほどになった。その半分、いや三分の二ほどの学生の視線が、俺と綾香に注がれている。俺と綾香を指差し、ひそひそと何かを囁き合っている学生も目に入る。
手は尽くしたはずだ。マスクとサングラス、そして帽子で、綾香のかわいい顔、そして猫耳は完全に隠している。それなのに、どうして? 綾香が神様だから、何か特別なオーラを発していて、それを他の学生が敏感に感じ取っているのだろうか。
隣の綾香に視線を向ける。綾香は注目を集めていることには気付いてない様子で、教室の中を興味津々といった様子で見回し、時折サングラスやマスクを指で触っている。外したくてしょうがないのだろう。
「こんにちは、それでは講義を始めます」
程なくして教授が教室に姿を現した。たしか、神村という教授だったはずだ。身長は俺より少し大きく、体型はやや太めで、頭は綺麗に禿げ上がっている。
「本日は、地方に伝わる神話の体系、及び興味深い伝承について解説していきます」
神村先生はスクリーンに映像を映し、自作のパワーポイントの資料を使って講義を始めた。
うちの大学はそれなりに偏差値が高いので、講義中に馬鹿騒ぎするような学生はさすがにいない。とはいえ、真面目に授業を受ける学生が多い、というわけでもなく、特に神村先生は多くの学生に舐められていた。
教室内に、スマホをいじってゲームに興じている学生がちらほらと目に入る。神村先生は授業の最後の出席確認を学生に課しているため、その出席確認だけしにきた、という学生はそれなりにいるのだろう。そういう学生の存在を神村先生は間違いなく認識しているはずだったが、叱責したり、注意を促したりしているのは一度も見たことがない。
授業をサボろうと覚えば幾らでもサボれるのだが、親に高い学費を払ってもらい大学に通わせてもらっている以上、サボる気にはなれなかった。加えて、神村先生の授業は聞いてみると意外と面白い。スライドも作り込まれてるし、仕事に対する熱意を感じた。
神村先生の話を聞き、時折パソコンでメモをとりながら、ちらちらと綾香に視線を向ける。綾香は神村先生の話に聞き入っているようだった。退屈して暴れ出したらどうしよう、と心配していたので少し安心した。
そんなこんなで90分の講義は終わった。
「綾香、お疲れ様。終わったよ」
「終わった? じゃあこれ外していいんだよね!」
「え、いやまだ……」
俺の言葉を待たず、綾香はサングラスとマスク、さらには帽子を外してしまった。
「ふ〜、やっと外せた。私、帽子もサングラスも、マスクも嫌い。なんか息苦しくて、むずむずするんだもん」
「な、何やってるんだよ綾香! まだ外しちゃ駄目だって! 人がいるんだから!」
俺は慌てて綾香に帽子を被せ、さらに両手で綾香の顔を覆った。しかし、時既に遅しだった。
「ねえねえ、あれ見た?」
「おい、あの子めちゃくちゃかわいいぞ」
「芸能人?」
「なんか頭から耳生えてなかった?」
「あんなかわいい人うちの大学にいたっけ?」
「目の色黄色だったよね、カラコンかな?」
「あの男子の彼女なのかな?」
周囲の学生が発した声が聞こえる。恥ずかしさがどんどん込み上げ、俺は顔を歪めた。自分のやってしまったことを理解したのか、綾香は申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
俺は綾香の腕を引き、ICカードを機械にタッチして出席確認を済ませ、教室を飛び出した。とにかく人目の少ない場所に移動したかった。
「唯斗、ちょ、ちょっと待ってよ!」
「うるさい! 黙ってついてきて!」
俺が一喝すると、綾香は押し黙った。俺は綾香の腕を引いて校舎から出て、そのまま校舎裏へ向かった。人気のない場所に移動し、「何やってるんだよ!」と綾香に言葉をぶつけた。
「どうしてマスクとサングラス、帽子を外したの! まだ近くに人がいたのに!」
「え、だって、唯斗が終わったって……」
「それは講義が終わったって意味! 外していいって意味じゃないよ! 何でそんなことも分からないんだよ!」
怒りが込み上げ、どんどんヒートアップしていく。
「だってだって、マスクもサングラスもなんかむずむずして、帽子もなんか苦しい感じで、一刻も早く外したかったから……」
「あと1分待ってくれれば、教室の外に出れたのに! もう全部台無しだよ! 大勢の人に見られた! 綾香の顔、そして猫耳が見られちゃったんだよ! どう責任を取るつもりだ! そもそも……」
そこで俺は言葉を止めた。綾香は両目からぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。
「ごめんなさい……ごめん……なさい……許して……私が全部悪かったから……謝るから……私を嫌いにならないで……嫌わないで……」
泣きじゃくる綾香は、感情を発露する人間の女の子にしか見えなかった。神様だとは到底思えなかった。
ずきん、と胸が痛んだ。たしかに悪いのは綾香だったが、言いすぎたかもしれない。それに、綾香は人間の世界のことがよく分かっていない。そんな綾香の事情を理解せず、少ない言葉で綾香を誤解させてしまったのは、他ならぬこの俺だ。
「……ごめん、綾香。言いすぎた。許してほしい」
「うう……ひぐ……ううう……」
「俺にも非がある。終わった、とだけ言われたら、外してもいいって思っちゃうよね。俺の説明が足りなかった。本当にごめん」
綾香は泣きながら、一歩、また一歩と俺に近づき、そして思い切り俺に抱きついた。俺の心臓が跳ね、早鐘のように脈打ち始める。
「嫌わないで……私を見捨てないで……」
綾香は腕に力を込め、俺を強く抱きしめた。その体は僅かに震えていた。
「こんなことじゃ嫌いにならないよ。綾香は俺の孤独を癒してくれる大事な存在なんだから、見捨てたりしないって」
「唯斗……唯斗……」
「あの方法で綾香の顔と猫耳を隠すのは、ちょっと難しいかもね。他の方法を考えるよ。綾香に負担がない方法を」
泣きじゃくる綾香の背中に俺は腕を回し、力を込めた。思えば女性とこういうことをするのは久しぶりだ。綾香は人間ではなく神様とはいえ、綾香の温もりを感じて少しだけ心がぽかぽかとした。
やがて泣き止んだ綾香と一緒に、俺は大学を出た。本当は大学の図書館でオンライン授業の課題を進めたかったのだが、今日はこれ以上綾香を大学にいさせない方がいいと判断した。課題なら家でも出来る。駅前の服屋で綾香用の服を何着か購入し、電車に乗って家に帰った。
帰る途中、そして帰ってからも、綾香はずっと申し訳なさそうな表情をしていた。課題を進めている時も、俺が夕食をとっている時も、ずっと変わらず申し訳なさそうだった。
「改めて謝らせてほしい。今日は、本当にごめん」
そろそろ寝ようと思ったその時、綾香が声をかけてきた。俺が買い与えた寝巻きを身につける綾香の表情は暗かった。
「もういいって」
「よくないよ。冷静になってみたら、とんでもないことしちゃったと思って。だって、唯斗はこれからも大学に行くんでしょ? なのに、私が我慢出来なかったせいで、私の顔と猫耳を皆に見られて、そのせいでこれから唯斗は、多分沢山の人から注目されることになっちゃう。そんなこと唯斗は望んでない。そう思うと……私……私……」
綾香は再び泣き出しそうになってしまった。俺は綾香に歩み寄り、頭を優しく撫でた。
「もういいって言ってるじゃん。過ぎたことなんだから。それに、見られたのは一瞬だからなんとでも誤魔化せるよ。いつまでもメソメソしてないで、元気になってよ。俺は、明るい綾香の方が好きだな」
綾香は息を呑み、そしてにこっと笑った。
「……ありがとう。唯斗は、本当に優しいね」
「別に優しくないよ」
「いつまでもメソメソしてるのはよくないよね。もういいって唯斗は言ってくれているし、切り替えるよ。よーし、切り替え切り替え!」
綾香の表情がぱーっと明るくなった。その時、俺のスマホが振動した。電話がかかってきたようだ。俺はスマホを手に取り、誰が電話をかけてきたのかを確認し、電話に出ることなくスマホを机の上に置いた。
「じゃあ、そろそろ寝ようか」
「え? その、たしかスマホって名前だったよね、なんか振動してるけど、いいの? というか何で振動してるの?」
「あー、電話がかかってきてるんだよ」
「電話? なら電話に出た方がいいんじゃないの?」
「いや、いいんだよ。俺はその人とあまり話したくないから」
綾香は何か言いたげな様子だったが、「そろそろ寝よう」と俺は言葉を重ねた。電話に出ないことにあまり触れられたくなかった。
「綾香はベッドで寝て。俺は床で寝るから」
「え? 何で? 一緒にベッドで寝ようよ。床で寝るなんて駄目だよ、寝心地が悪いよ」
「いやいや、一緒に寝るのはまずいでしょ」
「何で?」
綾香は首を傾げている。
「昨日一緒に寝たじゃん。何で今日は駄目なの?」
「昨日は、猫の姿だったから一緒に寝たんだよ。今日は人間の姿になってるんだから、そんな綾香と一緒に寝ることは出来ないよ」
「どうして?」
「えっと、男女が一つのベッドで寝るっていうのは、すごく特別な行為で、普通じゃないっていうか、なんていうか……」
「よく分からないよ。いいじゃん、一緒に寝ようよ」
綾香はベッドに体を横たえ、俺を手招きした。ここで拒否したところで、結局綾香の押しに負けるのは目に見えている。俺は溜め息をつき、ベッドに体を横たえて毛布を被った。壁のスイッチを操作して部屋の電気を消す。
「何でこっちに背中向けてるの?」
「そりゃ向けるでしょ。見つめ合うのはさすがに恥ずかしいよ」
「ふーん」
神様とはいえ、あれだけかわいい綾香と同じベッドで眠っている。ドキドキしないわけがない。高鳴る心臓を落ち着かせようと、俺は深呼吸した。
静寂。かち、かち、という時計の秒針の音だけが聞こえる。傍の綾香が体を動かす素振りは見せない。寝てしまったのだろうか、と思っていると、「唯斗」と綾香が声を発した。
「何?」
「やっぱりさ、神様である私が人間の世界にいるって、すごくおかしいことなんだって、今日気付いたよ」
「……」
「唯斗はとても優しいから、こんな私を受け入れて、家に泊めてくれているけど、こんな状況をなんとかしないといけないって強く思った。唯斗にこれ以上迷惑をかけないように、私は元いた神様の世界に戻る必要がある。そのために、私頑張るよ。覚えてないことが多すぎるけど、なんとか頑張って、元の世界に戻れるようにするから」
俺は言葉を返すことが出来なかった。綾香が神様であることは疑いようがない。今までは神様なるものをあまり信じていなかったが、猫から人間に姿を変え、そして無の空間からお金を生成した綾香を見て考えが変わった。
神様は存在する。確実に。
神様である綾香が、元いた神様の世界に戻ろうとするのは何らおかしいことではない。しかし、綾香が元の世界に戻ってしまうということは、綾香と一緒に過ごす日々が終わることを意味する。それを想像すると、なんだか寂しい気持ちになった。
言葉を返さない俺に、「おやすみなさい、でいいんだよね、寝る時の言葉は。おやすみなさい、唯斗。また明日」と綾香は声をかけた。程なくして安らかな寝息が聞こえてきた。やがて俺も微睡み、意識が暗闇へと沈んでいった。




