17
グレネル男爵令嬢エルシーは物静かな女性だ。趣味は刺繍である。クラリスにプレゼントしてくれたハンカチに刺された薔薇は見事で、香りがしそうなほどだった。素晴らしい作品というのもあるが、初めて貰った友人からの贈り物ということもあって、使うのがもったいなくて部屋に飾っている。
そんなエルシーは竜騎士である兄からしょっちゅう聞く飛竜のことを身近に感じているのだという。
イーズテイルが水撒きをしてくれるのだと話すと、目を輝かせて聞き入った。
「樹もやすやすと引き裂く鋭い爪なのに、井戸の綱を器用に扱いますのよ」
「まあ!」
エルシーに刺繍を教わるようになったクラリスはスザンナの道具を借りていた。それを見たカールが、自分のものを買うと良いと言って小袋をクラリスのてのひらに載せた。中には金貨や銀貨、銅貨が入っている。
それでエルシーと刺繍道具を買いに行くことを勧められた。夫に続き、友人との買い物、というイベントにクラリスは誘惑された。
勇気を出して誘ってみれば、エルシーは快く応じた。
「護衛にオズワルドを連れて行くと良い。彼は腕も立つし、なによりエルシー嬢の兄だから、気兼ねせずに買い物を楽しめるでしょう」
そう言ってカールが引き合わせてくれたグレネル男爵子息オズワルドは確かに、竜舎で見かけたことがある竜騎士だった。
「お忙しいのにすみません」
「いいえ、とんでもない。カールとは大通りと広場を歩いたんですよね。奥の方も行ってみましょうか」
クラリスは大通りから一本入った路地を歩きながら、エルシーとあれこれ見て話し合った。やはり、見る物すべてが珍しい。
目当ての店へ向かう途中に巾着袋が売られているのを見つけて、ふと思いついていくつか手に入れる。
エルシーが良く来るのだという刺繍用品を扱う店に入ると店員がていねいに挨拶をして店長を呼ぶ。
通された奥の部屋に、いくつもケースが運び込まれ、商品を選ぶ。
「クラリスさまにはこちらがよろしいのでは?」
刺繍針を選んでもらい、色鮮やかな束になった刺繍糸に目を奪われる。
「こんなにも鮮烈な色合いを出せるのですね」
「植物や鉱物、貝殻などからも染色するそうですわ」
感心するクラリスにエルシーが説明する。
「魔獣の素材を使えたらより一層多様な色味をだせるのですけれどね。瘴気抜きをしてもどうしても臭いが強烈でしてね」
店長の言葉にクラリスは驚く。
「魔獣の素材からも染色できるのですね」
「できるのはできるのですが、臭いの問題があって、それを解決しなくては商品にはならないのです」
店長は魔獣の素材の臭いをなんとかできないかと、あれこれ試行錯誤するも、成功に至っていないと言う。
「辺境ではとにかく魔獣の素材が手に入りますからな」
たくさんある資源を有効活用できないのは、商人として勿体ない気がするのだという。
「それに、竜騎士のみなさま方が命がけで戦われるのですからな。なにひとつ無駄にしたくはありません」
オズワルドがいるからそんな風に言うばかりでもないのだろう。
辺境の地で生きて行くには力を合わせる必要があるのだ。それを分かっているから、みながより良い手法を見出そうとしている。
カールは夜会の後、アスチアンに早いうちに会って話をしたいと打診したところ、いつでも良いという快諾を受け、学者を招いた。
「飛竜が瘴気を必要とするとのことだったが」
「まだ仮説に過ぎません」
飛竜が魔獣の肉を食べる、しかもある一定量を摂取するのだと聞いて、そう考えたのだと言う。
「それは野の飛竜の場合だな」
「ウィングフィールドの飛竜は魔獣の肉を食べないのですか?!」
「ああ。ふだんは瘴気を帯びない野の獣を狩る」
飛びつくようにして前のめりになるアスチアンに、カールは頷く。
「ということはどういうことでしょうか。魔の森に近い場所に暮らしている上、討伐に向かう際、摂取するので十分ということなのか。ならば、瘴気の摂取量は多すぎてはいけないのか?」
徐々に自分自身に問うようにぶつぶつと言う。その内容にカールは疑問を投げかける。
「しかし、瘴気を取り込めば狂気に陥り、病にかかるのではないか?」
「その通りです。ですから、大量の瘴気は飛竜にも毒です。薬草の薬効も過ぎれば毒となるのと同じなのだと思います」
服用量によって薬にも毒にもなるのだという。
薬草という言葉から、カールはクラリスが育てるもののことを想起していた。
ウィングフィールドとは縄張りを別にする飛竜は、瘴気を得るために魔獣の肉を食べるという。魔獣の素材は瘴気抜きをしなければ用いられない。瘴気抜きをしても、人間は魔獣の肉を食べない。
ウィングフィールドの飛竜は魔獣の定期討伐で魔の森に入るから、その際、瘴気を得ているのであれば、クラリスが丹精した薬草が瘴気を含まないのだろうか。
「神殿の教えでは瘴気は穢れであり、邪悪の象徴だとされていますから、にわかには受け入れがたい話だとは思いますが」
カールが考え込んだのを、アスチアンはなんと受け取ったものか、そんな風に言う。
「もともと、神殿は人をまとめあげるために必要なものだったのです」
人は群れを作らなければ、生きてはいけない。そうして、集落ができ、国ができた。知恵ある者は知恵を出し、技術を持つ者は技術を提供し、そして、力あるものは力を振るった。
「ひとりで知恵や技術、力を少しずつ持つよりも、圧倒的大多数がそれぞれできることをする方が効率が良かったからです」
アスチアンはそうすることで、多種多様なことに対応して来たと言う。
高度知能を持ち、個性を持つのだから、まとめあげることは大変な苦労がある。
「そうだな」
しみじみとカールが頷くと、ああ、とアスチアンが気づく。
「飛竜は非常に高い知能を持つと聞きます。それでいて甚大な力を持つ。そんな飛竜たちをまとめあげるのは並大抵の苦労ではないでしょう」
まったくもってその通りだ。飛竜の中でも最も賢いイーズテイルでさえ自由気ままでたまに手を焼く。人の手には余りある。
「まとめるためには「敵」が必要でした」
その「敵」にはちょうど具合の良い存在があった。好戦的で圧倒的な力を持つ魔獣だ。魔獣から受ける被害が甚大であったため、自然と敵意と憎悪が向く。
それらを邪悪と認定し、対比的に聖に属する存在が神である。