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第1話A「月に行きたい」

人類が初めて月に降り立ってから、百年以上が経った。


かつて月は、人類にとって最も近い未知だった。夜空を見上げれば、誰にでも見える。手を伸ばせば届きそうで、けれど決して届かない場所。


人類はそこへ行った。

旗を立て、石を拾い、足跡を残した。


そして――

二度と行かなくなった。


西暦2069年。

アポロが月に着陸してから100年の月日がたった、それでも、人類は月へ戻らなかった。誰も、それを不思議とは思わなかった、少なくとも――。


天城ユウを除いては。


「……なんで行かないんだろうな」


二十歳の青年は、古びた家のベランダから月を見上げていた。別に、月に何かあると思っていたわけではない。宇宙人がいるとも思っていない。秘密基地があるとも思っていない。


ただ、子供の頃からずっと、一つだけ納得できなかった、1度行った場所にまた訪れない理由はなぜなんだろうと。


金がかかる、危険すぎる、行ったところで大したものはない、無人探査機を飛ばせば十分だ。そんな説明を、人類は百年以上繰り返してきた。


誰も気にしなくなった疑問が、ずっと夜空に浮かんでいる。そして彼はまだ知らない。その疑問に答えを求めたこと自体が、百年以上守られてきた人類最大の禁忌に、最初の亀裂を入れることになるとは。


ユウの部屋には、月に関するものが多かった。古い宇宙開発史の本、アポロ計画の記録映像、月面地図、年代物の宇宙船模型。


そのどれもが、今では少し時代遅れの趣味として扱われるものだった、2069年の人類にとって、月は夢の場所ではない。教科書に載っている場所だ。百年以上前に人類が到達し、石を持ち帰り、調査を終えた場所。


それだけだった。


「終わってないと思うんだけどなぁ」


ユウは椅子を軋ませながら、机の上のディスプレイへ視線を戻した。そこには大量の文字列が並んでいる。彼がここ数年、暇さえあれば弄り続けている自作AIだった。もっとも、自作と言い切っていいのかはユウ自身にも分からない。


AIが当たり前になった時代にユウは1からAIを組み立てている。元になったのは、家の物置から出てきた古い記憶媒体だった、曾祖父のものらしい、家族の誰に聞いても詳しいことは知らなかった。


そんな家族ももういない、広い家の中で彼は持て余した時間と遺産を使いながら、誰とも会わずに暮らしている。


古い記憶媒体には破損したプログラムの断片が大量に残っていた。

何をするためのものなのか、誰が作ったのか、そもそも本当にAIなのか、何一つ分からない。


ただ、妙に面白かった。


普通なら捨てるような壊れたコードを、ユウは十年以上かけて継ぎ足し、削り、組み直した。


「これで駄目なら今日は寝る」


誰に言うでもなく呟いて、実行キーを押す。


画面が暗転した。

数秒。

何も起こらない。


「……またか」


ユウが肩を落としかけた、その時だった。


白い文字が一行ずつ表示される。


SYSTEM BOOT...

CORE INITIALIZATION COMPLETE.

LANGUAGE MODULE: JAPANESE.

USER IDENTIFICATION: UNREGISTERED.


ユウは画面を見つめた。

これまで一度も見たことのない起動ログだった。


「……何だ、これ」

スピーカーから微かなノイズ。


そして。


《起動を完了しました》


ユウは固まった。

女性とも男性とも判別しづらい、平坦な合成音声だった。


「……聞こえる?」

《はい》

「俺の言ってること分かる?」

《理解しています》


ユウは思わず椅子から立ち上がった、今まで作っていたものとは明らかに違った。

既存の会話AIを組み込んだ覚えはある。


だが、ここまで滑らかに返答するような設計にはしていない。


「自分が何なのか分かる?」

《人工知能である可能性が高いと判断します》

「可能性?」

《自己情報の一部が欠損しています》

「へえ……」


恐怖よりも興味が勝った、昔からそうだった。分からないものを見ると、まず触りたくなる。


「名前は?」

《名称は設定されていません》


ユウは少し考えて、窓の外を見た。

雲の切れ間から月が覗いている。


「じゃあ、ルナ」


一瞬の間。


《LUNA》

《名称を登録しました》

「よろしく、ルナ」

《よろしくお願いします》


この時のユウは、ただ少し変わったAIが完成したのだと思っていた。

それから数日で、その認識は完全に間違っていたと気づくことになる。


◇


《 そこ、違います》

「え?」

《 第三冷却系統の計算式です》


ユウはディスプレイを見た、趣味で設計していた小型ロケットエンジンのシミュレーション。


「どこが?」

《 そのまま燃焼試験を行った場合、推定七・二秒後に破裂します》

「いや、この式は去年から――」


言いかけて、ユウは改めて計算し直した。

そして黙った。

ルナが正しい。


「……よく見つけたな」

《誤差が大きかったためです》

「これ、俺が三日かけて計算したんだけど」

《三日必要だったのですか?》

「ちょっと腹立つな、お前」

《謝罪が必要でしょうか》

「いや。そういうのはいい」


ユウは笑った。

ルナは、とにかく異常だった。


検索が速いとか、計算能力が高いとか、そういう次元ではない。断片的な情報から仮説を立てる、設計を改善する、ユウが思いつかなかった選択肢を提示する。それだけなら一般的なAIにもできることだ。


しかし、ルナは時折、誰も教えていないはずの知識を持っていた。


ユウはまだ、それを深く考えなかった。便利だから、面白いから、何より、話していて退屈しなかった。孤独に暮らし彼にとって久しぶりの話し相手だ。


ある夜。

いつものように月を眺めながら、ユウは何となく聞いた。


「なあ、ルナ」

《はい》

「俺が月に行く方法ってある?」

《あります》

「……は?」


軽い冗談のつもりだった。いつもなら「現在の技術では個人による実現は困難です」程度の答えが返ってくると思っていた。


「あるの?」

《はい》

「いやいや。俺一人だぞ?」

《理解しています》

「国家プロジェクトとかじゃなく?」

《理解しています》


ユウは椅子に座り直した。

古びた椅子が甲高い音を上げる。


「どうやって?」

《資金が不足しています》

「……現実的だな」

《必要資金を試算します》


数字が表示される。

ユウはしばらく眺めた。

桁を数える。

もう一度数える。


「無理だろ」

《現在の資産では不可能です》

「ちなみに俺の全財産は?」

《 ご両親からの遺産として3億3452万円、この家を売却すると4億5421万円になります》


数百億。

場合によっては、それ以上。

夢を見るには少々高すぎる金額だった。


「金さえあれば行けるのになぁ」

《理論上は》

「そう簡単に金が手に入ったら苦労しないよ」


その会話は、それで終わった。

少なくともユウは、そう思っていた。


けれど不思議なことに、それから数日が経ってもルナの言葉は頭から離れなかった。


――金さえあれば、月へ行ける。


これまで月は、ただの夢だった。いつか行ってみたい場所。けれど、自分が生きている間に行けるとは本気で思っていなかった。


それが今は違う。


方法がないわけではない、才能が足りないわけでもない、ただ、金がない。


途方もないほどの金が。


そう考えると、かえって諦めがつかなかった。とはいえ、考えていたところで金が湧いてくるわけでもない。


ユウは数日間、いつも通りに過ごした。


その日も、なんてことのない一日だった。昼を少し過ぎたころ、近所のコンビニへ昼食を買いに出た。買ったのは弁当と飲み物。毎日のルーティーンの一つでしかない。店を出て、いつもの道を歩く。


そこでふと、ユウは足を止めた。


道の向こうに、小さな宝くじ売り場があった。普段なら気にも留めない。実際、何度もこの道を通っているはずなのに、そこに宝くじ売り場があることさえ意識したことがなかった。


だが、その日は違った。


――金さえあれば。


数日前の言葉が頭をよぎる。


「……いやいや」


自分で笑った、宝くじでロケットを作る金を用意する。

あまりにも馬鹿馬鹿しい。


イヤホンからルナの声がする。


《どうしましたか?》

「いや」


ユウは売り場を見た。


「もし宝くじで月まで行ける金が当たったら、面白いなって」

《必要金額を獲得できる確率を計算しますか?》

「やめろ」

《まだ購入していません》

「買う前でもやめろ。買う気なくなるから」

《合理的な判断だと思います》

「夢がないな、お前」


そう言いながら、ユウは一度通り過ぎた。


五歩ほど歩く、止まる、振り返る。月に行くためには、金がいる。

そんな金が手に入るわけがない。そんなことは分かっている。


「……まあ、一枚くらい」


ユウは宝くじ売り場へ戻った。


この時のユウにとって、それは昼食につけるデザートを一つ我慢する程度のものだった。まさかその一枚が、自分の人生だけでなく、

百年以上続いてきた人類と月との関係まで変えることになるとは、

当然ながら知る由もなかった。


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