3話 野生の生活
青々と茂った木の葉越しに陽射しが燦々と降り注いでいる。
夏の森にもかかわらず、前世で聴き慣れた蝉の鳴き声は無く、ドクドクと脈打つ心臓が耳奥で響いている。すっかりと慣れた四肢で足元の花を踏みつけながらひたすらに風をきる。揺れる視界のなか、獲物からは決して目を離さない。
逃げ惑う獲物と俺の距離がだんだんと縮んでいく。
もう少し、もう少し…
獲物はもう目と鼻の先だ。その時、獲物が木の根に躓いて減速した。
今だ!
追いついた俺は獲物の首に覆い被さるように牙を突き立てた。獲物が生き延びようと暴れる。鉄の匂いと暖かい命が口と鼻腔に広がっていく。
やがて、暴れていた獲物の動きが完全に停止した。激しく脈打っていた俺の心臓も落ち着きを取り戻していく。
暗い巣穴の中から始まった狼生だが季節も変わって、俺は鹿を狩れるくらい成長していた。我ながら感慨深い…といっても生後一年どころか半年も経っていないのだが。
ん?魔法はどうなったのかって?聞くな。使えたら魔法で狩りやっとるわ。
魔力関係はな……本ッッッ当に進展がない。あることはわかってんだけどなぁ…
「グルゥ」
そうこうしていると群れの面々が集まってきた。両親と二番目と五番目の兄弟だ。ちなみに一番目と四番目は両親がいないときに茶色で背中に木のこぶみたいな模様がある狐に連れていかれてしまった。
兄弟が減ってしまったことには残念に思うが、別に狐に恨みとかはない。その時は標的にされないように息を殺すのに精一杯だった。まぁ、たいした時間も過ごしてない兄弟が二匹くらい死んだところで結構どうでもいいというか…。もし俺が死んでたら呪い殺すレベルで恨んでただろうが。
野生って厳しい…前世がどれほど恵まれてたかよく分かる。
それじゃあ、いただきます。
鹿のお腹のあたりに噛みついて毛皮ごと心臓とかの内臓を優先して食べていく。先に食べた方がいい気がする。多分栄養あるとかそういう感じだろ。
まずは肝臓。実質生レバー。肝臓は人気部位だから分け合って食べる。うーん…何回食べても不思議な食感…内臓脂肪がうまいぜ。味はよくわからんけどうま味って感じ。
次は心臓を…もう食べられてるや。じゃあ肺…ももうないじゃん。食べるの速すぎ…五匹で一匹の鹿だからしょうがないけども。
その時父親が食事を中断し、頭を高くあげて匂いを嗅ぎ始めた。どうしたのかと思い、それに倣って俺も匂いを嗅ぐ。
………風上、自分の正面側から生き物っぽい匂いがする。ウサギや狐とも違う、嗅いだことのない匂いだ。
近いな…しかもこっち側に近づいてきてる。足元の血の匂いで全然気づかなかった。
でも大丈夫だと思う。この森には俺の種族より強いやつはいない筈だ。それに縄張りを出たわけでもないから相手も狼ということもないだろう。
ドスン…ドスン…ドスン!ドスン!ドスン!
そんな足音が急激に加速して大きくなっていく。体が自然と動きやすい体勢へと変わる。
これ本当に大丈夫か!?…来る!!
勘に従い、横に全力で飛び退いた瞬間、辛うじて黒い影が突進してくるのが見えた。強力な風圧が自分の体を打ちつけるのを感じ、黒い影の正体に目を向ける。
それは熊だった。その体躯は漆黒で動物園で見たことのある熊の3倍はあったと思う。そしてその凶悪な口には母親が咥えられていた。
バキィッ! ジュクッ…ブシャグチャッ……!
まるで蝿でも潰したかのように容易く、その顎に捉えられた母親は骨が砕け、肉の湿った音を奏でた。
その鮮肉となった母親を噛み潰した牙にはやけに鮮やかに痕跡が残っており、否が応でも自分達の牙がプラスチック製の安っぽい玩具であるかのような錯覚を押し付けてくる。
一瞬で一匹死んだ。その現実が俺の牙をカタカタと震わせた。
ダメだ、これは。逃げなきゃ。
小さな、本当に小さなその音を、怪物の耳は聞き逃さなかった。咥えていた血袋としての役割すら果たさないものを無造作に捨て、巨頭がぬるりとこちらへ回る。どろりと濁った、それでいて圧倒的な威圧感を含んだ双眸が、こちらを捉えた。
「グゥゥゥゥルルルルルル……」
内臓を直に掴んで雑に揺さぶられるような、地を這う重低音。逃げなければならない。理性はそう絶叫しているのに、恐怖が俺の足を掴んで離さない。芝生を踏みしめる怪物の前足が、わずかに引かれた。
「グルオオオォォォォォッッッ!!!!!」
威嚇という生易しいものではなかった。それは音の暴力だった。正面から浴びせられた暴風のような音圧に、周囲の木々の葉が悲鳴を上げて引きちぎられ、視界が歪んだ。
それらは戦意を挫くのに十分過ぎた。いや、戦意は既に挫かれていた。そしてそれは俺以外も同様だろう。それを確認する余裕は俺には無かった。まるで背骨までも挫かれてしまったようだ。
次に死ぬのは誰だろう。俺かもしれない、そんな恐怖が皮肉にも動けという命令を無視していた足を少しだけ震わせた。




