霧の沈黙谷
「魔晶石一つで夢が叶うはずだった——しかし、世界はいつも代償を求める。」
魔王軍の前線基地がある暗黒の谷「シャドウフォール」では、将軍たちが日々、人間界への侵攻計画を練っていた。人間の魔晶石依存が激しく、均衡が崩れやすいことを知る者は少なかった。
ある日、魔王の側近である老いた魔導将軍は、古い禁呪書から「完全弱体化の霧」を発見した。それは魔晶石の力を一時的に吸い取り、人間側の魔法を弱める霧だった。燃料はほとんど必要なく、谷全体に広げれば人間の軍勢は簡単に崩れるという。
将軍たちは満足した。これで侵攻が容易になる。
魔族の兵士たちは喜んだ。もう苦戦することはない。
下級魔物たちは歓声を上げた。人間の街を簡単に奪える。
魔王の側近は静かに頷いた。勝利は目前だ。
霧はすぐに谷から広がり、人間界の国境にかけられた。人間の魔導師たちは突然魔力が弱まり、騎士たちは剣に込める力が失せ、街の恒温装置や予知の道具は次々と止まった。魔王軍の進撃は止まらず、複数の街があっという間に落ちた。将軍たちは「この霧は完璧だ」と信じた。
しかし、数ヶ月が過ぎた。
下級魔物の一匹は、霧の中で自分の力が少しずつ弱まっていることに気づいた。
魔族の兵士は、霧が濃くなるにつれ、互いの命令が聞き取りにくくなった。
老いた魔導将軍は、地図を見ながら人間の抵抗が予想以上に少ないことに違和感を覚えた。
やがて霧は魔王軍の基地にまで逆流し始めた。魔晶石に頼らない魔族の力も、霧の影響で徐々に薄れ、兵士たちは動きが鈍くなり、魔物たちは暴走し始めた。将軍たちは侵攻を続けようとしたが、霧はもはや制御できず、基地全体を覆った。
魔王軍は、人間界の均衡を崩した代償として、自らの均衡も崩した。
今ではその谷は「霧の沈黙谷」と呼ばれ、誰も近づかなくなった。
「魔力の均衡は、決して保たれなかった。人間がそれを試すたび、世界は静かに、しかし確実に代償を回収した。」




