おまけ③:子獅子と子虎
ある日の朝。
皇城の回廊を吹き抜ける風はまだ柔らかく、春の香りをわずかに残していた。
その静かな一角で、
ラウラに付き、侍女としての仕事を学ぼうとしていたソフィアは、可愛らしい妨害を受けていた。
妨害の主は、帝国皇子シュヴァルツ。
父親譲りの漆黒の髪がかすかに風になびき、
紫の瞳がソフィアを見つめ、きらきらと光った。
まだ幼いその子は、満面の笑みで彼女の足にしがみついている。
「ソフィア!あそんで!」
小さな手が、侍女服の裾をぎゅっと掴む。
その力強さに、ソフィアは思わず動きを止めた。
すかさず、皇女クラウディアが青の瞳を吊り上げ、兄を睨む。
編み込まれた黄金の髪が、朝陽に反射し金糸のように煌めいた。
「にいさま!ソフィアがこまってるでしょう!」
「なんだよ!クラウディアだってソフィアとあそびたいだろ!」
「うっ……でも、おしごとはだいじなのよ!」
兄妹げんかを始めるふたりのやり取りを、ラウラは苦笑しながら見守る。
「ソフィアさん、業務はゆっくり覚えていきましょう。
今日は皇子さまや皇女さまと遊んであげてください。」
その言葉に、ふたりの瞳が同時に輝いた。
「やった!」「いいの!?」
「すみません、ラウラさん。」
「いいえ。陛下も姫様もお忙しいですからね。
ソフィアさんが傍にいてくださると助かります。」
(赤ちゃんの頃から、ソフィアさんに抱かれると泣き止んでいましたものね……。
──その頃のことは、流石に覚えていないのでしょうけれど。)
思い出すように微笑むラウラの横で、双子は勢いよく突撃し、ソフィアにしがみついた。
「ソフィア!ゆうしゃごっこ!ゆうしゃごっこしよ!」
「にいさまずるい!えほん!えほんよんで!ソフィア!」
言い合うふたりを前に、ソフィアは小さく笑みを浮かべた。
「順番ですよ。前回遊んだ時は“ゆうしゃごっこ”が先でしたから……。
今日は絵本を読みましょうか。」
「わぁい!」「ちぇっ……。」
ソフィアは膝を折り、優しくふたりの目線に合わせる。
「さあ、おふたりとも。図書館に移動しましょうか。どうぞ。」
その声を合図に、ふたりは歓声を上げて飛びついた。
右肩に皇子、左肩に皇女。
小さな体を軽々と抱え、ソフィアは何事もないように歩き出す。
その光景を見た新入りらしき侍女たちは、口を覆ってひそひそと囁いた。
「あのソフィアさんって人……力持ちよねえ。」
「ええ、あの年頃の子どもって結構重いのに、まるで羽のように抱えてるんだもの。」
彼女たちの言葉に、ラウラだけがわずかな苦笑を浮かべた。
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昼前。
エレツィアが皇子と皇女の部屋を訪れると、
そこでは奇妙な光景が広がっていた。
四つん這いのソフィアの背に、双子が仲良く乗っていたのだ。
「「かあさま!」」
ふたりの声が重なる。
エレツィアは微笑を返しつつ、そっと問いかけた。
「……ソフィア。これは何をしているの?」
ソフィアは真顔のまま、姿勢を崩さずに答える。
「私は勇者が駆る“馬”なのだそうです。」
その瞬間、シュヴァルツが抗議した。
「ソフィア!うまがしゃべっちゃダメなんだぞ!」
「ひひーん。ひひーん。」
どこか諦めを滲ませた声音で、“馬”が嘶く。
その完璧な従順ぶりに、エレツィアは額を押さえた。
「……シュヴァルツ、クラウディア。
そろそろソフィアを人間に戻してあげて。お昼ご飯にしましょうか。」
「「はぁい!」」
双子の返事が揃い、明るい笑い声が部屋いっぱいに弾けた。
⸻
昼下がり。
双子の寝かしつけを終えたソフィアは、ラウラのもとに戻った。
「ソフィアさん、少し休憩してください。
子どもの相手は体力を使いますから。」
ラウラの声音には、身を案じる切実さがあった。
ソフィアは控えめに首を振る。
「いいえ。大変でしたが……疲れてはおりません。
業務に復帰いたします。」
しかし、ラウラは穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと首を横に振った。
「違います。今のことじゃないんです。
あの子たちはお昼寝を終えたら……また元気いっぱいになって、全力で突撃してきます。
その時に備えて、貴女も休んでおくべきです。」
その言い方は、まるで戦場に赴く新兵に助言する古参兵のそれだった。
ソフィアは思わず言葉をなくし、素直に頷くことしかできなかった。
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庭園の長椅子。
穏やかな昼の日差しが草花を照らし、風が木々を揺らす。
休憩と言われても手持ち無沙汰で、ソフィアはふと空を仰ぐ。
ゆっくりと流れる雲を見ていると、侍女たちが次々と声をかけてきた。
「ソフィアさん。今、休憩かしら?ゆっくり休んでね。」
「ソフィアちゃん、あの年頃の子は加減を知らないからね。無理すんじゃないよ。」
「ええ、ありがとうございます。」
どの声も柔らかく、優しい。
かつて“剣聖”だった頃、誰もがソフィアに畏れを抱いていた。
それが、今はただ気さくな同僚として、あたたかな言葉を寄せてくれる。
(帝城は冷たい場所だと……ずっと、思っていたのに。)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
長椅子に背を預けたまま、ゆっくりと流れる雲を見送り続けた。
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夕刻。
──ラウラの助言は正しかった。
昼寝から目覚めた双子は、完全回復した猛獣のように全力で突撃してきて、
ソフィアは大立ち回りを演じる羽目になった。
(……魔王の次に難敵だったかもしれない。)
そう思わずにはいられなかった。
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夜。
燭台の揺れる光の中。
寝台には、遊び疲れた双子が寄り添って眠っていた。
エレツィアはその寝顔を見つめ、小さく微笑む。
「……子どもの成長って、あっという間ね。
ついこの前産まれたばかりだと思っていたのに……今ではもう、こんなにわんぱくで。」
「ええ。健やかに育っていらっしゃいます。」
「ふふ、覚えているかしら。
クロイツァーさまが産まれたばかりのふたりを見て、“賑やかになるぞ”と仰っていたこと。
本当に、その通りね。」
燭火がゆらりと揺れ、エレツィアの紫水晶の瞳がソフィアへ向く。
「ソフィア。家族って……いいものでしょう。」
その問いに、ソフィアはほんの少しだけ瞬きをして、静かに頷いた。
「……ええ。」
燭火の明かりが、ふたりの影をやさしく重ねる。
寝ている子どもたちを起こさぬように、
ふたりの口づけは、触れるだけの静かなものだった。
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ソフィアとしての生活は、賑やかに、そして穏やかに流れていく。
その日々は、どこまでも暖かく。
彼女は、幸せだった。




