第一話 はらぺこな彼女の事情
顔にかかるあめ色の髪を払いのけ、いつもより重く感じるローブの胸元をきゅっと握り、一歩ずつ、足を進める。長い髪を結ぶ気力もない。
ネルは焦っていた。
とにかく早く、たどり着かなくては。
扉から外へ出ると、目の前に高くそびえ立つ建物が現れた。ところどころ蔦が煉瓦の壁を覆うその様子は、他の棟と比べて歴史の長さを感じさせる。
が、今のネルにそれを感じる余裕はない。
その壁に手をついてなんとか進んでいたが、ついに力が抜け、ずるずるとその場にうずくまってしまった。
――ああ、こんなところで……
ネルは目を閉じ、己の限界を感じていた。
そこへ。
「……大丈夫ですか?」
それは、いかにも仕方なく声をかけましたというような、後ろ向きな声色だった。
しかしこれぞ天の助け。ネルはがばりと顔を上げる。
「すみません、あの、何でもいいので、食べ物を……!」
「は?」
かすんでよく見えなくなってきたネルの目にも、彼の戸惑いは十分に感じられた。頭がぼうっとする。
「……私、食べないと、もう……」
「え」
少しの沈黙と、短いため息ののち。
気力が尽きて再びカクリとうつむいたネルの耳に、先ほどより低めの声が届いた。
「手、出してもらえます?」
言われるまま片手を差し出す。乗せられたのは、飾り気のない茶色の紙で包まれた小さな何かだった。
ネルは夢中で包みを開き、出てきた薄緑色の丸いものを口に入れた。
さくりと噛むと、素朴な甘さ。そして、少しの苦味。
「……おいしい」
ネルがつぶやくと、再びため息が聞こえた。
「それでいいです?」
「あ、はい、なんとか……ありがとうございます」
少しだけ力が戻ってきた気がしたネルは、もう一度顔を上げる。今度はちゃんと見えた視界にいたのは、紫色のローブをまとった青年だった。
黒髪で色白、黒縁の眼鏡をかけた彼はそっけなく言う。
「じゃあ、僕はこれで」
「はい、あの、お菓子ありがとうございました」
立ち上がろうとしてよろめくネルを見て、踏み出そうとした足が止まった。
「体調が悪いなら医務室に行った方が」
「違うんです。あ、そうなのかな? あの、私、お腹が……」
「はい?」
青年は怪訝な顔をした。
「私、ここで働き始めてから、お腹が空きすぎて困ってるんです!」
我ながらあまりにも情けない台詞に、ネルは泣きたくなった。
「……」
眉間の皺を深くして、ネルをじっと見る眼鏡の青年。こいつ何言ってんだ、とわかりやすく書いてある顔で。
腰に手を当て、長めのため息をついた彼は言った。
「……何か食べればいいんですね? 歩けます?」
「あ、はい、すみません歩きますすみません」
ものすごく不機嫌そうな彼から伸びてきた手を、素直に取る。温かくはないが、冷たくもない温度。
青年はネルを立たせると、大変不本意、といった顔で歩き出した。
* * *
ここは国立魔法研究所。
古の魔法を解き明かし、人々の生活をより便利で豊かにする術を研究する施設である。
研究員になれるのは魔力がある者のみ。そのため高収入なのだと聞いて、街にやってきたばかりのネルはこの求人に飛びついた。
あわよくばとは思ったものの、魔力保持者は珍しい。すぐに働けるなら清掃員でも食堂の調理員でも何でもよかった。
ところが魔力測定の結果、なんとネルには魔力があることが判明。研究員見習いとして採用されることになり、ネルは舞い上がった。これなら一生安泰、家族に仕送りまでできると喜んだ。
しかしすぐに、困ったことが起きた。
お腹が空きすぎるのである。
初めは気のせいかと思った。だが働き始めてひと月。徐々に事態は深刻になっていった。
朝食を満腹になるまで食べて出勤し、昼の鐘が鳴るなり食堂に飛んでいき、昼食をめいっぱい食べても、仕事が終わるまでには空腹で目が回りそうになるのだ。
これはもしかしておかしいのでは? と思いつつ、ネルはこっそりお菓子を食べて耐えてきた。
そして今日、ついに恐れていたことが起きた。
寝坊して朝食を満足に食べることができず、昼の鐘まで持たなかったのだ。
* * *
「ローブは目立つので」
そう言った青年は敷地を出るところでローブを脱ぎ、脇に抱えた。ネルもそれにならい、時折ちらと振り返る彼によろよろついて行く。
大きな公園を突っ切った先の通りを進むと、曲がり角に店の看板が出ていた。
建物の壁にはたくさんの植物が飾られ、黄色や紫の花が目に鮮やかだ。
扉を開けて待つ青年を見て慌てて中へ入ると、そこは食堂のようだった。
店内は昼時らしく賑わっており、常連が多いようで、店員と客が気安く話す姿も見える。
天井から垂れ下がるように緑や花が飾られて、それほど広くはない店なのにそう感じさせない。まるで植物園にいるかのような、安らぎのある空間だ。
なんとか空いた席に座るなり、ネルは急にキリッとした顔で注文を始めた。その量が尋常ではなかったため、驚いた青年の眉間から少しの間皺が消えたほど。
長い注文を終えると、ネルはいくらか落ち着いた表情で口を開いた。
「あの、ご迷惑おかけしました。素敵なお店に連れてきていただいてありがとうございます」
「いえ」
青年は短く答えた。視線は合わない。
「えっと、私はネルといいます。紫のローブってことは、研究員の方ですよね? お名前を聞いてもいいですか? このお礼は必ず」
紫のローブは研究員の証。ネルの茶色のローブは研究員見習いの印である。
灰がかった暗めの紫色は、彼の雰囲気によく似合っていた。とても頭が良さそうだ。
「……ヒューゴですが、お礼は結構です」
ヒューゴと名乗った青年はすげなく断ると、窓の外を見たままたずねた。
「今日のようなことはよくあるんですか?」
「まあ、はい。仕事の日はかなりギリギリです。昔から、あんたは燃費が悪くて食費が大変だよって母から言われてましたけど、ここまでひどいのは初めてで……」
そこでネルは少し声を落とし、テーブルに乗り出す。
「研究所で働くようになってからなんです。こんなにお腹が空くの。だから、もしかして魔力を使ってるからなんじゃないかって思うんですよね。ここって、魔力で動くものが多いじゃないですか」
重要な扉の鍵や、火や水を扱うとき。明かりをつけるときなど、研究所内は魔力を使う機会が多い。
とはいえほんの少しの魔力で事足りるようになっており、魔力保持者であれば何ら不自由なことはないはずである。
ここでようやくヒューゴと目が合ったが、料理が運ばれてくるとネルの注意はそちらに逸れた。
「普段はどうしてるんです? 見習いとはいえ、こんな調子では仕事にならないでしょう」
「ごはんをたくさん食べてなんとか持たせてます。あと、念のためにいつも何か食べ物を持ってます。……今朝は寝坊して朝ごはんがいつもより少なかったんで、お菓子足りなくなっちゃって」
ネルはへらりと笑ってみせたが、ヒューゴは顎に手を当てて何か考え始めた様子だ。
彼がそのまま動かないのを見て、ネルは黙々と料理を食べ始めた。大好きな肉料理だ。力がどんどんみなぎるのを感じる。
「……魔力を使うことで空腹になるという例も聞きませんし、普通、倒れそうなほど魔力を使うこともないはずですが」
「そうですかあ。何なんだろう」
言いながら、ネルは料理に夢中だ。もりもりと皿を綺麗にしていく様子を見て、ヒューゴは呆れ顔で言った。
「自分のことですし、もう少し真剣に考えては?」
「……そうですね。もう少し腹持ちのいいものを考えます」
「……」
このままではあっという間にテーブルの料理が全て無くなりそうだ。
ヒューゴは黙って自分の食事に手をつけた。
そんな出会いから数日。
ネルがふらふら歩いていると、目の前に影が落ちた。
「今日もギリギリなんですか?」
眉を寄せ、腕を組んで立つ紫色のローブの青年。
そんなエラそうな姿でも、神々しさすら感じる。ネルの哲学では、食べ物をくれる人はみんな良い人なのだ。
「ヒューゴさん……!」
ネルは一瞬目を輝かせ、そしてすぐ情けない顔になる。
「今日もなかなかな感じです。でも食堂まではなんとか」
ヒューゴはため息をつき、握った手を無言で突き出した。反射的に手で皿を作ると、それはネルの手のひらにぽとりと落ちた。
「少し調べました」
手を見ていて、反応が遅れた。
「魔力と腹具合の関係についてはまだわかりません。ただ、もし魔力の使い過ぎで空腹になっているのだとしたら、今の状態を改善する方法はあるかもしれません。君が望むのであれば……」
「なんでもします! 教えてください!」
「……そうですか」
ネルの勢いに仰け反りつつ、ヒューゴは少し考えて言った。
「今日、仕事の後予定あります?」
「よてい……」
「あるなら」
「いえ! ないです、何にもないですよ!」
「じゃあ、ちょっと確かめたいことがあるので仕事を終えたら……」
ヒューゴは言葉を切り、ネルをちらりと見た。
「あの店でいいですか? 場所わかります?」
「もちろんです! おいしい場所はすぐ覚えます!」
「ではそういうことで」
「よろしくお願いします!」
言うだけ言うと行ってしまった彼の後ろ姿を見ながら、ネルはほっとしていた。今の状態はかなりひやひやするので、とてもありがたい申し出だ。
ネルは包み紙を開き、出てきたころんと丸い薄緑色の焼き菓子を口に入れた。
ほんのり甘くて、少しほろ苦い。体に良さそうな味がした。