番外編⑬
水と渚、それから晴太と雨音が一堂に会した日曜日。みんなが帰って再び静かになった理科室で、水は一人設計図と向き合っていた。いつもの風景だ。しかしいつもと違うことが一つ、水の右手は全く動いていなかった。さっきまでの会話がグルグルと水の頭の中をめぐり、持ち前の集中力を根こそぎ奪っていた。
「はぁ……」
水がこの日何度目かのため息をついたその時、理科室のドアが静かに開けられる。
「あら水、まだいたのね」
教室の入り口に雨音が立っていた。彼女の姿を見た瞬間、それまで沈んでいた水のテンションが一気に上がる。
「雨音先輩!?どうしたんですか?晴太先輩と帰ったんじゃ……?」
「ええ、一度はね。でも途中で忘れ物をしたのを思いだして、引き返してきたの」
雨音は教室の後ろまで歩いていき、机の上に置いてあった紙をつまみ上げる。
「何ですか?それ」
水が尋ねると、雨音はその紙を持ったまま水のもとまで近づいてきた。そして机に置いてあった書きかけの設計図の上に重ねてその紙を置く。
「入部届?」
その紙には大きくそう書いてあった。そして部活動の欄には『魔道部』と綺麗な字で書かれている。
「入るんですか?」
「ええ、先週魔道部の助っ人で大会に出たでしょう?その時色々あって、本格的に入部することにしたのよ」
「そうだったのですか」
雨音はこの学校始まって以来の天才と呼ばれているがその理由の一つが国内屈指と噂される程の魔法の才なのだ。その才能を遺憾なく発揮して体育祭では天候まで考慮した見事な演舞を披露したのだが、それがちょうど悲願の全国大会優勝を目指す魔道部部長の目にとまり、助っ人として参加することになった。
「今から提出しに行くのですか?」
「ええ。というか、そもそも今日学校に来たのはこれを出すためだったのだけれど、すっかり忘れてしまっていて。恥ずかしかったから晴太くんにはもう既に提出した体で報告をしたわ」
雨音はそう言っていたずらっぽく笑う。クールだとか怖そうとか言われがちな雨音だが、実は結構茶目っ気のある女の子なのだ。それは友達である水だけが知っていることだった。はずだった。
小学校の時に知り合い、中学も同じ学校に通った。先に卒業した雨音を追いかけるように入学した栄第一高校。しかしその時雨音の隣には見知らぬ男がいた。久条晴太である。晴太は今まで水しか知らなかった雨音の茶目っ気や弱さ、可愛さを知っていた。同時に、今までは水以外の話しなどしなかった雨音が晴太の話をよくするようになった。水は完全に嫉妬していた。雨音に近づく晴太のことが嫌いだった。そして何より、そんな自分がもっと嫌いだった。
「雨音先輩は……晴太先輩のことが好きなのですか?」
気付けば水はそんなことを口にしていた。
「ええ、好きよ。といっても最近気がついたのだけど」
雨音の口から『好き』という単語が出たとき、水の心は大きく波打った。それが自分に向けられたものでないことがどうしようもなく辛かった。実を言うと、水はもう少し前から雨音の晴太に対する気持ちに気付いていた。だがあえて言わないようにしていたのだ。それは雨音の気持ちが自分以外に向くのが不安だったからだ。
「そう……ですか」
水は底まで沈んでいきそうな気持ちを抑えながら呟く。すると水の様子がおかしいことに気付いた雨音が心配そうに水の顔を覗き込んだ。
「水……?どうしたの?」
その瞬間、水の仲で何かが崩れた。
「雨音先輩!あちきも……好きです!雨音先輩のことが……友達よりももっと……!!!」
これだけは言ってはならぬと今までせき止めていた感情が一気に溢れ出した。ああ、もう終わったかな、と水は心の中で思った。好きだなんて、友達よりもっとだなんて、同性に対してそんなことを言ったら気持ち悪いと思われるに決まっている。水は雨音との関係の終りを感じ、涙を流しそうになる。
しかし突然の告白にも雨音は全く動じない。
「それは恋人として、という意味かしら?」
「それは…………分かりません」
雨音と恋人になりたいのか、と聞かれると、正直水にもよく分からなかった。ただ友達という言葉には収まらないほど好きなことだけは分かっていた。それこそ晴太に嫉妬するくらいには。
「そう……」
雨音は水の答えを聞いて考え込む。次に雨音がいう言葉がどんなものなのか水には想像も付かなかったが、きっといい返事ではないのだろうと思っていた。
やがて雨音が水を見て、おもむろに口を開く。
「正直なところ、私はそっちの趣味はないからあなたと恋人にはなれないわ」
「そう……ですよね」
完全に終わった、と水は思った。雨音に対する気持ちがバレてしまった以上、今までのように行かないことは明白だった。
しかし、雨音の言葉には続きがあった。
「ただ……友達より進んだ関係ならもう一つ、親友というパターンもあるわ。もし水さえよければ、これから私たちの関係を『親友』と呼ぶことにしない?」
「親友……?」
その言葉は意外にもすんなり水の中に入ってきた。今まで沈んでいた気持ちが嘘のように軽くなる。心の内側から何かのエネルギーが溢れ出してきた。それが喜びだと分かるのには少し時間がかかった。
「駄目、かしら」
心配そうに首をかしげる雨音に、水は必死で伝えようと口を動かすが、心がくしゃくしゃになって中々言葉が出てこない。しばらくしてやっとの思いで短い言葉を吐き出す。
「駄目じゃ……ないですっ……!!!」
親友、親しい友人。だがそんな字面上の意味よりももっと大事なことがその言葉には込められていた。もしかすると、水は雨音に恋心を抱いていたのかも知れない。それでも水にとっては親友という言葉だけで十分満足だった。自分が今までどうしても言い表せなかった曖昧な感情を限りなく正確に表している言葉だと水には思えたのだ。
「そう、よかったわ」
雨音はホッとしたように笑った。
「思えば私は、今まで水以外に友達がいなかったから。友達と親友を識別する必要もなかったのよね。でも私にとってあなたは、これから先もずっと一番の友達であり続ける。だからこれを機に、あなたのことを親友と呼ぶことにするわ」
「っ!?先輩……!!!」
水は思わず雨音の胸に飛びついた。
「水!?どうしたの、いきなり……!」
「えへへ……」
雨音の胸にぐりぐりと顔を押しつけて、水は嬉しそうに笑う。
「ちょっと水、恥ずかしいわ……」
「大丈夫ですよ、この時間は誰も通りませんし。まあ普段から誰も通りませんが」
水はそう言ってから、目線を挙げて雨音の顔を見る。普段はクラスや家族の前でもほとんどポーカーフェイスを崩さない雨音が、今は恥ずかしそうに頬を真っ赤に染めている。親友である水だけが知る特別な表情である。
「水……早く離れなさい。あなたの体が吹き飛ぶ前に……」
「わわっ」
恥ずかしさのメーターが一周回ったのか恐ろしいことを言いだしたので、水は慌てて体を離す。雨音はそのまま手で服についてしわを伸ばしている。水はその姿をじっと眺めていたが、ふと思い、雨音に尋ねる。
「先輩は、晴太先輩とはまだ付き合っていないのですよね?」
先程雨音は晴太のことが好きだと答えたが、一時間ほど前、渚の二人は付き合っているのかという問いには『半分』という曖昧な回答をしていた。
「ええ、付き合ってはいないわ」
雨音ははっきりとそう言った。しかし雨音と晴太は雨と晴れがどうのとかいうよく分からない理由で仮の恋人になっている。半分付き合っているということはその辺の事情を加味しての回答だったのだろうと水は思った。
「でも、好きなのですよね?じゃあ告白しようとか思っていたりするのですか?それとも向こうからして欲しい、とか?」
水は続けて尋ねる。すると雨音は少し考えてから、ゆっくりと答える。
「そうね……。よく男性の方から思いを伝えて欲しい、というような話を聞くけれど、私は特にそういうこだわりはないわね。だからまあ、そうなると私から……ということになるのかしら…………」
どうやら雨音はその辺のことをまだよく考えていなかったようで、自分が晴太に告白するという事実に顔を赤くしている。
「まあ、あちきには背中を押すことくらいしか出来ません。むしろ、出来れば考え直して欲しいくらいなのですが」
水もここ数週間にわたって晴太と関わり、多少は彼の良さも分かって来ていた。だからまあ雨音との仲を認めてやらんこともない、という気持ちではあった。
「そうね、いえ、そうよね。ここで怖じ気づいたら傘咲雨音の名が廃る。ここは一つ覚悟を決めて、私のこの気持ちを晴太くんにぶつけるわ」
そう言いながらも雨音の体は小刻みに震えている。しかし、水からすれば晴太は晴太で雨音のことをよく思っているようなので、雨音が玉砕することはまあないだろうと言えた。怯える雨音が可愛かったのであえて言わなかったが。
「まあ、何とかなるのではないでしょうか」
「そう?」
何でもない風を装っているが、雨音の顔には安心と嬉しさがありありと浮かんでいた。
「ええ、確実なことは言えませんが」
実際、晴太が雨音の告白を断らないとも限らない。人付き合いの苦手な、そう言う意味ではひねくれた人たちなので原因がどういう結果を導くのかあまり予測が出来ないのだ。まあ自分も人のことを言えませんが、と水は心の中で苦笑する。
「あ、髪型とか変えてみたらどうですか?ギャップで押せるかも知れません」
雨音は美人で立ち居振る舞いもスマートな非常によく出来た女性だが、オシャレに関してはかなり無頓着なのだ。それにギャップ萌えという言葉もある。我ながらいいアイディアだと水は思った。
「そうね。じゃあ取りあえず前髪でも整えてみようかしら。運動をするには少し長いと思っていたところだし。魔道部に入るという意味でも、心機一転になるかも知れないから」
雨音は自分の前髪を指でつまむ。水は髪の毛を整え、オシャレに着飾った雨音の姿を想像する。想像するだけでもよく分かるが、きっと実際に目の前にしたらもっと綺麗なんだろうと思った。
「いいですね。その時はぜひ一緒にお出かけしましょうね?」
「ええ、もちろんよ」
閑散とする日曜日の学校に二人の笑い声が響いた。
ありがとうございます。あと一つ番外編があります。




