(37)恋
その時、視界に広がっていた景色を、その美しさを的確に言い表す言葉を晴太は持ち合わせていなかった。もっともその瞬間、特にこれといって言葉は浮かばなかった。突き抜けるように青い海と空、それから眩しいほど白い入道雲と爽やかな初夏の風がそっくりそのまま晴太の心の中に映り込んでいたのだった。
「ここ、いいでしょう?静かだし、景色もいいし。そう意味では晴太くんが教えてくれて場所とも似てるかも知れないわね」
しばらくぼーっと海を眺めていた晴太は、雨音の声でふと我に返る。
「いやいや、似てないでしょ!てか何なのここ!?」
晴太は両手を広げてその場所全体を指した。いうなればそこは地中に埋まったトンネルだった。はしごを下りた場所から床と天井、そして左右をコンクリートに囲まれた空間が続いている。しかし十メートルほど進んだ所で、そこから先が崩れたようになくなっていて赤みがかった鉄骨がむき出しになっている。そしてその先が海である。海と言っても高低差があるので見えるのは遠くの海だ。それがかえってこの世のものとは思えない景色を生み出していた。
「それが、私自身この場所がいつ、何のために作られたのか全く分からないの」
雨音は海を眺めながら答える。晴太も同じように海の方向に目を向ける。島の東側はすぐ近くに本土が見えるが、西側の海には見える範囲に陸地がないので、キラキラと光る水面のうねりが水平線までずっと続いていた。見れば見るほど美しい景色である。
「この場所を見つけてすぐの頃、私も気になってそれとなく両親に尋ねてみたのだけど…………神社の下に何があるかなんて考えたこともなさそうだった。それから図書館でこの神社のことを調べてみたけど、この場所どころか神社そのものの歴史や成り立ちも明らかになっていないようだったわ」
「全てが謎……ってことか……」
晴太はここに来る前に聞いた、異世界に繋がっているという言い伝えのことを思い出していた。おそらくその指し示す場所はこの地中トンネルのことだろう。とはいえ、実際にこの場所が異世界に繋がっているのかどうかは分からない。むしろ常識的に考えれば可能性は限りなく低いと言える。が、その言い伝えによってこの場所に近づきたがらない人が一部にいることを踏まえると別の考え方も出来る。例えば異世界に繋がっているという話は単なる嘘で、重要なのはこの場所に人を近づけないためだった、と。そう考えると地中に向かう入り口が隠されていたのも頷ける。まあ、あくまでもトンネルが上の神社よりも前に作られていたとすればの話だが。
「……そういえば」
そこでふと晴太は疑問に思った。
「雨音はどうやってこの場所を見つけたの?」
今までこの場所に近づこうとする人はあまりいなかった。加えて入り口自体も、何かあると知らなければ見つからない程度には隠されていた。だから晴太は、雨音がいつどういうタイミングでこの場所を見つけたのか疑問に思ったのだ。しかし雨音は「ああ、そのことね」とまるでたいしたことではないという風に頷いた。
「前にも少し話したと思うけど、小さい頃は友達がいなくて、いつも一人だった。それで休みの日も部屋に籠もって読書ばかりしていたら、母親に、家に籠もってばかりは不健康だからたまには外に出なさいと言われてしまって……」
(分かる……分かるよそれ……!!)
そこまで聞いて晴太は、心の中で激しく頷いていた。同じような言葉を晴太も幾度となく言われてきたからだ。晴太の場合母親ではなく妹だったが。
「でも、一人で街の方に行くのも気が滅入るから…………どうしようかと思っていたときにこの遠山神社を見つけて、底の裏手で本を読んでいたの」
結局本を読んでたのかと晴太は思ったが、口には出さなかった。
「ちょうど入り口があったそばの柱に寄りかかって座っていたから。それでも最初は全く気がつかなかったわ。でも、ある時ふと、本当に偶々見つけて……それでふたを開けたらはしごがあって、何だか心地いい風が吹いていたから下りてみたら…………」
そこで雨音は言葉を切って、横目で海の方を見やる。
「こんなことになっていた、というわけよ」
「なんか……凄い話だね……。運命的というか。それでここが気に入って、よく来るようになったんだ」
「そうね」と言いながら雨音はその場に腰を下ろす。
「大体はこんな風に座ってボーッとしたり、読書をしたりしていたわ」
「へー」と相槌を打ちつつ晴太も雨音の横に膝を抱えて座る。雨音の言うとおり、心地よい風がさらさらと髪の毛を揺らした。何というか、驚くほど落ち着く空間である。なぜこんなに落ち着くのか晴太は考えてみるが、答えはすぐに分かった。この場所は静かなのだ。静かで、一人になれる場所。
普通に生活していれば、完全に一人になれる場面というのはそうそうない。家にいれば家族がいるし、外に出ても誰かしら人が歩いている。人がたくさんいる中でひとりというのはどこか寂しさがつきまとう。すなわち『孤独』だ。
だがこの場所はどうだろう。周りには誰もいないし、人がいる音や気配すら感じない、本当の意味で一人になれる空間だ。自分しかいないのだから一人だけでいても何ら不思議はない。言うなれば一人になることが許された空間なのである。
「ここって凄く落ち着くから……。一人になりたいときとか、よく来ていたわ」
雨音は少しだけ寂しそうにそう呟いた。彼女が何を思ってそう言ったのか、晴太にもよく分かったが、だからといってその感情に対して的確な言葉を伝えられるわけでもなく、ただ同じように二種類の青が交わる水平線を眺めていた。晴太の、それから雨音の、心の中にある上手く形容できない気持ちを溶かして消してしまいそうな青さがそこにはあった。
しばらくそうやって二人遠くの空を眺めていたが、やがて雨音が口を開く。
「だけど、一時期ここに来なくなったことがあってね」
「へぇ……?」
「水と仲良くなった頃よ」
「あぁ……」
晴太は納得して頷く。もともと一人になりたいときに来る場所。水と出会い、一人になることが少なくなったので自然と足が遠のいたのだろう。
「あの頃はとても楽しかったわ。毎日彼女のくだらないアイディアや設計図やらを見せられて、中には目を見張るものもあって……」
二人がであったのは小学生の頃だ。そんな頃から大人顔負けの発明を思いつく水もすごいが、それを理解できた雨音もさすがである。
「でも高校に入ってから、またここに来ることが多くなって。まあ少し……寂しかったのね、水と話せなくなって……」
雨音が高校に入ってから、彼女と水の間に少し距離が出来た。と言っても仲が悪くなったわけではなく、進学し物理的に距離が離れたことで何となく精神的にも距離が出来てしまっただけだったのだが、だからこその寂しさなのだろう。
「でも……最近はあまりここには来てないわね」
「水と元通りになってから雨音、雰囲気変わったよね。明るくなったっていうか」
晴太は自分の言葉に納得するようにウンウンと頷くが、雨音は何か言いたげに晴太の顔を見る。
「いえ、まあそれもあるけど……それよりも少し前というか……」
そしてすぐにフイッと顔を逸らす。
「正確には、晴太くんと出会ったあたりから……なのだけど……」
そう呟いた雨音の頬はほのかに赤く染まる。いつもの無愛想な顔にほんの少し、だが確実にその感情が浮かび上がった。その顔を見た瞬間、晴太の中で何かが弾けた。今まで形のなかったものが形を取ってすとんと落ちる。心を覆っていた霧が晴れて今目の前に広がっているような、あるいはそれよりももっと綺麗な、透き通るほど透明に近いのに鮮やかな世界が広がる。
(心臓が、ドキドキする)
実を言うと晴太は今日、雨音の家に向かっていたときからずっとドキドキしていた。というか、今までずっとドキドキしていた。何も気付かないふりをしていたというわけではないが、単純に緊張しているんだと思っていた。もちろん緊張していたのも間違いではない。しかしこの瞬間、今までの分からなかった色々なことが分かった気がした。きっと雨音と同じ気持ちあろうことも。
「恋…………」
気付けば晴太はそう呟いていた。
「恋……?」
雨音は首をかしげる。当然、晴太が急にうわごとを言ったから、などという理由ではない。次の言葉を待つように雨音はじっと晴太を見つめた。
「えっと…………」
言わなければ、伝えなければと晴太は思った。だが、本当にそうだろうかと、雨音もそうは思っていないのではないかと、経験のなさ故の不安が首をもたげる。それでも雨音のわずかに赤くなった頬が、晴太の背中をとんと押した。
「僕は……僕は雨音に恋をしたんだと思う。たぶん……僕は雨音のことを好き……になったんだと思う。だからその……一応とか、仮とかじゃなくて…………僕の彼女になって欲しい」
ありがとうございます。もうラストスパートでございます。
山の斜面にはみ出した地下トンネルから見える海。僕も見たい。




