(50)ワンダーランド
途切れ途切れに晴太は言葉を絞り出した。心臓の音が耳のすぐ内側から聞こえるほど大きく鳴っている。もし否定されたら、そんなつもりじゃなかったと言われたら。そんな気持ちが晴太の心を埋め尽くしそうになる。しかしそんな不安な気持ちも、雨音の崩れた表情を見て吹き飛んだ。
雨音は基本的に無表情であるが、それでも笑うことはある。それは初夏の朝のような、涼やかで綺麗な笑顔である。でも今晴太の目の前で雨音が見せている表情は全く違った。さっきまでわずかだった頬の赤みは誰が見ても分かるほどに増し、目を細め口角は上がっている。それはまるで誕生日プレゼントを貰った子供のような、今まで晴太が見てきた誰のどんな笑顔よりも素敵な笑顔だった。
「ごめんなさい……嬉しくて……」
雨音は、溢れ出す笑みを恥ずかしそうに両手で隠すと、何度か深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。それから少しずつ、今までのことを話し始めた。
最初に晴太のことを知ったのは二年生に上がってすぐの頃、一般クラスに成績のいい男子がいるらしいと言う噂に興味を持って、合同授業の時にこっそりと観察していたこと。第一印象は、おとなしくて人に流されやすそうだな、という程度だったこと。しかしそういう所が何となく自分自身に重なり、それ以来晴太のことを目で追うようになってしまったこと。何となく特別な感情を抱き始めたこと……。
そうして体育祭の前日のあの日、たまたま放課後に廊下を歩いていたら教室に晴太の姿を見つけて、勇気を振り絞って話しかけた。しかしそれがまさかあんな話になるとは雨音も思っていなかったらしく、おかしなことを言ってしまったという後悔でその日は眠れなかったらしい。
「その時はまだ単純に興味だった。いえ、好きではあったのかも知れないけど、今まで恋なんてしたことなかったから……よく分からなかったの。でも晴太くんと一緒に過ごしているうちに、段々とこれが恋なんだと分かり始めた」
時に頬を赤らめながら語る雨音の告白を、晴太はじっと聞いていた。緊張のあまり呼吸がしづらくなる。出来ればこの場から逃げ出したかった。だがそれ以上に嬉しさと雨音に対する愛しさが体の中心からこみ上げてきた。
「だから、私からも改めて言わせて欲しい。少し回り道をしてしまったけど…………あなたのことが好きです。私と、お付き合いしてください」
その瞬間、晴太の中の全ての不安が、不幸が、全て吹き飛んだ。今この瞬間から新しい人生が始まる、そんな幸福感に包まれた。
「ああ……よろしくお願いします」
晴太はそう言って、照れて笑った。雨音も同じように照れて笑った。
その時だった。
サァー……
二人は同時にその音に気付いた。街中で聞く音とは少し違ったので気付くのが遅れたのだ。それは堅いコンクリートを叩く音よりも柔らかい、木の葉を揺らす雨の音だった。まさかと思い外の方を向いた二人の目の飛び込んで来たのは、この世のものとは思えない、何とも不思議な景色だった。
「雨……晴れてるのに……」
雨音は放心したように言う。さっきまで爽やかな晴天だったはずの空から、透明な雨粒が無数に落ちていた。空は青空のままで。
「天気雨ってやつだね」
晴太はそう言った。頻繁に起こることではないが、晴れているのに雨が降ることがある。いわゆる天気雨という気象現象だ。狐の嫁入りなどと呼ばれたりもする。今日は雨の予報だっただろうかと晴太が思っていると、隣に立つ雨音がぽつりと呟いた。
「ワンダーランド……」
ワンダーランド、不思議の国。それは晴太と雨音が始めて話したあの日、晴れ男の晴れと雨女の雨が重なったらどんな天気になるのかという疑問に対して晴太が出した答えだ。答えと言っても、まるで不思議の国のような天気、つまり想像も付かないという意味なので正確には答えになっていないのだが、そのことがきっかけで二人は仮の恋人になった。そして今、互いにその『仮』を取り払って二人は恋人になった。
「ワンダーランドか……」
晴太は体育祭の前日のあの日を思い出して呟いた。
あの日は確か雨音が楽しみに、そして晴太が嫌がっていたので、天気は素直に雨だった。今日はどうだろうか。別に晴太は今日を楽しみにしていたわけではない。雨音も然り。それでも二人の目の前に広がる空は見事に晴れと雨、まさにワンダーランドだった。まるで二人の気持ちがぴったりと重なったことを示すかのように、青い空から透明な滴が、無数の線を描いて眼下に広がる海へと落ちていた。かすかな雨の音がトンネルの壁に染みこみ、先程よりも少し強い風が潮の香りと湿気を運ぶ。
ただ、こんなものでいいのだろうか、という気持ちが晴太の中にあった。雨音と出会ったあの日から、共に過ごして、時に別々の時間を過ごして、そして特に何のきっかけもなく雨音を好きになった。何気なく歩いてきた道の先に素晴らしい景色が広がっていた。しかし、本当にそんなものでいいのだろうかと晴太は思ったのだ。
(でも……)
晴太はチラリと横目に雨音を見る。雨音は先程からずっと放心したように目の前の不思議な光景に見とれていた。
(今はまだいいか)
思うところは色々あるし、気持ちの整理が付かない部分もある。それでも今はこんな素晴らしい景色を雨音と見ている、それだけでいいかと晴太は思ったのだった。
どうもありがとうございます。あとちょっと続きます。




