(35)雨音が学校を休んだわけ
晴太は靴を脱いで家に上がった。そしてゆっくりと階段を上っていく。一段上がるごとに軋む音が晴太の耳に響いた。
(静かだけど……雨音しかいないのかな……?)
しかしそちらの方がむしろ晴太にとっては好都合だった。ただでさえ女の子の家に上がったということで緊張しているのに、そのうえ親御さんに鉢合わせたとなればもう走って逃げ帰ってしまうだろうと晴太は思っていた。
階段を上りきった先は突き当たりで、左に少し入って両脇に扉が二つあった。晴太はその右側の扉に向き直る。
「雨音……?」
「…………晴太くん?」
少し間が空いて中から雨音の声が聞こえた。晴太はひとまず安心した。というのも、家の中があまりに静かすぎて、どこかこっそり侵入しているような気分になっていたのだった。
「入って良いわよ」
「じゃあその……お邪魔します」
雨音の許可を貰ったところで、晴太はドアノブに手をかけてゆっくりと彼女の部屋のドアを開ける。
晴太自身、女の子の部屋というものをよく知らないので何とも言えないが、少なくとも妹の夏希の部屋と比べるとかなりシンプルだった。それに、夏希の部屋はピンク系統の色が多いので、晴太の中で女の子の部屋といえばピンクというイメージがあったが、雨音の部屋は水色系統で統一されていた。しかし、随所に置いてある小物やその他はやはり女の子っぽいものが多かった。そして何より、部屋に入った瞬間に感じた匂いである。男の部屋にはない、独特の匂い。甘いような爽やかなような、どこか落ち着かない匂いだ。
雨音の部屋は、入って正面に学習机があり、その左にベッドと小窓を挟んで本棚が位置していた。雨音はそのベッドの上に、なぜか額を片手で押さえた状態で腰掛けていた。
「……雨音?」
「いらっしゃい」
そう言いながら雨音はやはり額を押さえていた。
「やっぱり熱があるとか……?」
少し心配になって晴太は尋ねるが、雨音はすぐにそれを否定した。
「違うの!そうじゃなくて、熱は……ないんだけど…………」
否定はしたものの、どうにも雨音の言葉は歯切れが悪かった。何かを隠しているのは確かだが、何を隠しているのかが晴太には分かりかねていた。
そこで晴太はふと、風の強い日の体育の授業で女の子達がよく額を押さえているのを思い出した。
「もしかして前髪?」
晴太は何の気なしにそう尋ねてみた。
当然彼女たちは熱があるわけではなく、風で崩れる前髪を気にしているのだが、もしかして今の雨音も額ではなく、そっちを押さえているのではないかと思ったのだ。
「っ!?」
どうやら図星だったようで、雨音は今まで片手で押さえていた所をもう片方の手でも覆った。
「え、前髪がどうかしたの?」
前髪を隠している時点で『どうしたのか』なんてわかりきっているが、晴太は尋ねてみた。一方雨音は、観念したように額に当てた手の力を緩めた。そして「絶対笑わないでね?」と不安そうな目で念を押してからゆっくりと両手を外してた。
「あー……やったねー、これは」
口に出してからしまったと思った晴太だったが、もう遅い。雨音はまるで、信じていたのに裏切られたといわんばかりの目で晴太をにらみつけていた。
「あ、いや、別に悪いっていってるわけじゃなくて……!」
「やめて。下手な慰めじゃ惨めになるわ…………」
そう言ってまたふさぎ込もうとする雨音に、晴太は苦笑する。
「また……!笑いたいのなら思いっきり笑いなさいよ……」
「いや、ほんとそういうことじゃなくてさ」
晴太は雨音の額をもう一度よく眺めてみる。部屋を見ても分かるが雨音はどうもオシャレに無頓着なようで、普段の彼女はボサボサとまではいかないものの髪の毛を眉毛が隠れる程度に伸ばしっぱなしにしている。が、何があったのか、今日はその前髪が極端に短く、額の半分ほどの位置まで上がっていた。そのため通常は見えない眉がしっかりと見えている。ある意味イメージ通りの、細くて形の整った綺麗な眉だが、普段隠れているせいか晴太は何となく違和感があった。それでも晴太的には決して悪くない、という感想だったが、雨音本人はそういうわけにもいかないようだった。
「少し切りたくて、でも少しだったから自分でしようと思ったの。そうしたら…………」
雨音の顔に、どうして自分でしようと思ったのだろうという後悔の色が浮かぶ。
「それで、こうなっちゃったんだね……」
そう言う晴太にも、散髪に行くのを面倒くさがったことを後悔した経験が一度ならずあるので、雨音の気持ちはよく分かった。しかし、男と女では失敗したときのダメージの度合いが違うし、そもそも晴太はここまであからさまに失敗したことはない。なので大体は『まあ誰も見ないだろう』で片が付くが、今の雨音は注目していなくても分かるくらいスッパリと前髪が切り落とされている。ましてや雨音は有名人だ。気付かれないようにするのはほぼ不可能だ。
「溶け込みの魔法でも風景に溶け込むのは限度があるし…………こんなことなら透明化の魔法を習得しておくべきだったわ」
「いや、そんな高等技術……」
そんなことの為に習得しちゃうのか、と言いかけたが、晴太はぐっとこらえる。代わりに別の言葉を話した。
「いやでもさ、さっきも言ったけどそんなに悪くないっていうか、むしろ似合ってる……と思う。お世辞とか慰めとかじゃなくて、ほんとに」
果たして、その言葉も適切なのかどうかは分からなかったが、晴太は今、落ち込む彼女を前にしてそう言う言葉をかけたかった。彼女の笑った顔が見たかったのだ。もちろん全くの嘘というわけではなかった。額を見せる髪型は、いつもと違う違和感こそあったものの雨音の凜とした瞳と涼しげな顔立ちに可愛らしさを加えていた。
「そう……なの?」
雨音は伏せていた顔を少し上げて、上目遣いに晴太を見る。晴太は小さく頷いて返した。
「そういうわけだからさ、学校来なよ。水も寂しがってたよ」
「水も、ということは、晴太くんも寂しかったってことかしら?」
「……うん」
普段の晴太なら、そういうことを言われるとどぎまぎして、あたふたしていただろうが、色々とホッとしたことで少し気が大きくなっていた晴太はあえて素直に答えた。
「そ、そう……」
晴太の予想外の反応に、雨音はたじろぐ。いつもとは逆転したような会話に緊張が薄らぎ、逆に余裕が出てきた晴太はさらに続けた。
「周りの反応とかさ、もしやばそうな感じだったら水の理科室に行きなよ」
しかし雨音の方も、晴太が来たときよりだいぶ余裕が出てきたようで、いつもの調子でにやりと笑った。
「俺のとこに来いよとは言ってくれないのね」
「……逆に来れるの?僕のクラスに」
「無理」
「だよね」
静と動で水とは対極にあるような雨音だが、そういう所は親友らしくおそろいなのだった。
「そうね、じゃあその時は晴太くんにメッセージを送るから、一緒に行きましょう」
「え?メッセージって、どうやって?」
「それはまあ、考えておくわ」
どこか含みのある笑みを浮かべる雨音を見て、晴太は自分の脳内に直接メッセージが届く場面を想像する。果たしてそんなことが出来るのかどうかは分からないが、雨音ならやってのけそうで晴太は身震いをした。
「お、お手柔らかにね……」
それからしばらくは世間話をしていたが、ふいに雨音が時計を確認して「あ」と呟いた。
「どうしたの?」
「そろそろお母さんが帰ってくるわ」
「あ、お母さんが……」
晴太はしばらく忘れていた、ここが人の家であるということを思い出した。ここへ来たときの緊張が再び蘇る。そもそもこの状況、年頃の娘の部屋に男が入っているが、母親の目にはどう映るのだろうか。父親なら即アウトだろうが、母親がどういう反応を見せるのかが晴太には予想が出来なかった。しかし、雨音もおそらく晴太とのことを隠していると思われるので、かなりまずい状況にあることは確かだった。
(いやその、雨音さんとは友達というか、知り合いというか……やましいことは一切ないんですけど……)
本当にやましいことなどないのだが、晴太はつい心の中で言い訳を考えてしまう。
「それで、その……」
その時、俯いたまま雨音が呟いた。
「晴太くんさえよければ……少し出かけない?」
ありがとうございます。切りすぎジェイソンですね。大事件です。




