火魂と青年の事変②
青年は、落ち込んでいた。
恋情を見せた少女は、どうやら青年が人間の姿でいることがお気に召さないようだった。
まさに、人間ならざる「悪魔ダンタリオン」に思いを寄せているから。
悪魔を見たこともないくせに、悪魔へと恋い焦がれている少女。
火魂は、「そういうお年頃なんじゃねー?」と気に留めてもいなかったが、この火魂の正体を見れば、心奪われてしまうに違いないと、青年は気が気でない。身内の贔屓目がなくても、この悪魔は美しい容姿を備えているのだ。
共に暮らすことになっても、自分が本当の悪魔ダンタリオンではないと、言い出せなかった。
少女の焦がれる、「悪魔である」という興味を、繋ぎ留めておきたかったのだ。
最初の頃は、近づいただけで逃げられた。
少しでも寄ると嫌そうな顔をされる。
物は手渡しを嫌がって、絶対に触れないよう警戒する。
表情は乏しくないが、青年の前ではほとんど澄ました顔か、嫌そうな顔しか見せない。
それでも、その端正な顔が表情によって動くとき、どんな些細な変化も青年は見逃したくなかった。
綺麗な薬草が花を咲かせていたときや、湖畔の透明な水面を見たときなど、華がほころぶように明るくなる表情に、目が離せなくなる。
いつか、この一瞬を記録できる魔法を作ろうと、心のノートに記録したほどだ。
少女がどうしてこんな森に来たのかは、わざわざ聞くまでもない。自分ですぐに調べた。
貴族の道楽息子に、弄ばれたらしい。
未遂で終わったことがわかり、怒りをなんとか沈めた。
人間一人消すことは至って簡単だが、貴族の子弟が一人いなくなったとあれば、国が騒ぐだろう。少しでも足がついて、以前のように襲撃されれば、シャルとの暮らしが終わってしまう。それは許せなかった。
幸いにも、少女からその話が出ることはなかった。
彼女が涙ながらにもその話をすれば、貴族の屋敷ごと消し炭にする自信があったからだ。
とりあえず腹いせに、その道楽息子には女に振られ続ける呪いをかけておいた。
青年の日々の暮らしは激変した。
ただの作業だった物事が、全て色づいたかのように明るい世界となった。
少女が、シャルがいるだけで、心が浮き立ち楽しかった。少女が喜んでくれるなら、どんなことでもしたいと思った。
何か手伝いたいと言われれば、簡単な薬草集めを教え。
暇を持て余していれば、散歩に誘い。
街にいた頃の思い出を懐かしそうに話せば、オペラにも連れて行った。
だんだんと、シャルとの距離が縮まってくるのを、人間に疎い青年も実感できるようになってきた。
生まれて初めての、幸福だった。
ただ、どうしてそれを幸福に感じるのか、シャルと一緒にいると湧き上がるモノは何なのか、その感情に名を付けられずにいたけれど。
「わたくし、幸せです。ダンタリオン様の、おかげです。」
潤んだ燐灰石色の瞳が、青年を見上げている。
街灯に照らされて輝くその目を、ダンタリオンも目を細めて見つめ返した。
──ダメだ、くらくらする。
そのかわいい声でダンタリオン様、と呼ばれると、自分が呼ばれていると勘違いしそうになる。
しかし、シャルとの距離が縮んだとはいえ、彼女が慕っているのは悪魔のダンタリオンなのだ。自分ではない。
勘違いしそうになる気持ちに、鞭を打つ。
当たり障りのない笑顔を貼り付けてそれを誤魔化そうとすると、シャルの表情は悲しそうになる。
──シャル、ごめん。オレは悪魔じゃないんだ。
その爆弾は、突然落とされた。
「……抱いて、ください………………。」
夜、背後からシャルの震えた声が聞こえる。
「………シャル?何だって……?」
聞き間違いだろうか。明らかに自分に都合のいい言葉が聞こえてきた。
なんだ、抱いて、って。日常生活で使うような言葉でない。
悪魔に身体を貸したとき、発情させられた人間が言っているのしか聞いたことがない。
「抱いて、ください!」
「へっ!?」
ごちゃごちゃ考えていた青年の懐に、シャルは飛び込んできてしまう。心臓が飛び出しそうになる。
ふわっと香るシャルの匂いに、欲望が首をもたげた。
危うくその欲望に呑まれそうになりながら、なんとか平常心を取り戻そうとする。
──取り戻そうとしたが、無理だった。
無理だったが、青年の限界は、背中を撫でることまでだった。
嫌だったのか、青年の腕から抜け出そうとするシャルの手を引き、思わず抱き留める。驚いた顔がかわいすぎて、額にキスをした。
シャルの身体は、温かかった。
ずっと触れていたい。しかし、自分が何をしでかしてしまうかわからない。それくらい、シャルへの欲望ではちきれそうだった。
「ダンタリオン様………………。お慕いしております………。」
シャルの言葉に、青年は固まった。
「………………うん、ありがとう。」
ダンタリオン。
彼女が呼んだその名前に、我に返る。
そうだ、シャルが本当に抱いてほしいのは、自分では、ない。
青年はこれ以上、シャルから他人への愛の囁きを聞きたくなくて、魔法で彼女を眠らせてしまった。
──ごめん、シャル。悪魔になりきれなくて、ごめん。
「おい。」
その後ろで、この世で唯一シャルを悦ばせられるだろう、青白い火魂がざわめいていた。
「んだよ、チキン野郎すぎだろお前」
「……………うん、師匠。わかってますよ、…………」
自分が悪魔ダンタリオンでないと、告げられないなんて。
悪魔ダンタリオンでないとわかったとき、シャルとの関係が途切れてしまうのが怖いだなんて。
「ほんとーにわかってんのか?お前?据え膳食わぬは男の恥、っつー言葉が人間になかったか?」
なんの憂いもなく、彼女を抱けたら。
そんな夢のような機会は、自分には巡って来ないだろう。
悪魔には人間の心の機敏なんてわからないんだ、と青年は心の中で師匠に反発した。
それからというものの、夜になるとたまに密着してくるシャルには、困った。
彼女の首筋からは、いい匂いがするのだ。かぶりつきたくなる。それを必死で押し止めて、額や髪に口付けることで自分を抑えた。
その度、シャルの潤んだ瞳に出会って、自分の欲望がそれ以上暴れ出さないよう、精一杯自制するのだった。
「おい、こら。そこだ!いま唇を奪え!………ああ~………。お前、毎度毎度眠らせる魔法で芸がねぇなー。たまには性欲刺激する魔法でもかけろよ」
火魂は、声が聞こえないのをいいことに、完全に傍観者として野次を飛ばしてくる始末だ。
「師匠、うるさいです」
「いや、お前。ほんとにわかってねぇな。ちょっと身体変われ。」
「絶対に嫌です。」
そんなことを続けていたある日、気付いてしまう。
シャルの、元気がない。
何もない空を見つめて、ため息をついている。
その姿も艶っぽく、思わず抱き締めたくなるほどだ。
「ありゃ、欲求不満だろ、どー考えても。」
青白い火魂が非難じみた声音で言う。
──そうか、娯楽もオペラに行って以来だ。もう一度、街に出掛けるのもいいかもしれない。
金を作ろうと、出かけることが増えたのがいけなかった。
「今日、俺の身体で遊んだぜ」
悪魔からの一言に、ついに起きるべくことが起きてしまった、と理解してしまう。
青年の恐れていた、悪魔ダンタリオンとの邂逅がなされたという。
「なななななな何もしなかったでしょうね、師匠………」
青白い火魂が、愉快そうな声音で答える。
「ま、ちーっとからかいすぎたかもな。くくっ……」
もうダメだ。あの姿を見たら、彼女は悪魔に心酔するだろう。
ずっと騙し続けた自分を、蔑むだろうか。
「しかし、あの反応は面白かったなー。お前にも見せてやりてぇよ。」
嫌だ。悪魔のからかいに、シャルがどう反応したかなんて、絶対に聞きたくない。
「アイツ、この俺を眼中から外してっからな。すげー嫌そうな顔してよ。お前にぞっこんだぜ?くくっ…、良かったな。……っておい、聞いてんのか?」
耳を塞いだ青年に、悪魔の言葉は届かない。
青年は、完全に落ち込んでいた。
だというのに、シャルは毎夜青年と床を共にしようとしてくる。
青年は、混乱した。
悪魔の正体を、知ったのではないのか。
青年が偽者だと、理解したはずでは。
これは、黙っていた青年への罰なのだろうか。
「ダンタリオン様………。」
シャルが熱っぽい吐息と共に名前をこぼすが、青年はたじろいで目を逸らした。
ダメだ。
見つめ合うと、一線を踏み越えてしまいそうだ。
オレの、オレの名前は。
──ダンタリオンでは、ないんだ。
青年の頭ごしに、青白い炎がめらめらと燃えていた。
「おい!早く組み敷け!何してんだよお前は!このお前を欲しがってる目を見てなんとも思わないのか!?早くぶち込め!」
相変わらずの下品な野次に、耳を傾ける気も起きない。
今日も、シャルの甘い誘惑から逃れるために、眠りの魔法をかけてしまうのだった。
火魂は、自分の弟子にすっかり呆れていた。
「童貞すぎてイライラすんな」
思えば、悪魔として身体を借りていたときも、遊んだのは悪魔一人。身体の主そっちのけで自分だけ愉しんだ日々を思い起こしながら、完全に子育て失敗したなと思う。人間なんて育てたことがないから、仕方ないけどな、と自分を省みることはないが。
これは、ちょっとした刺激を与えての、ショック療法が必要かもしれない。
これでも、色々してくれる弟子には感謝しているし、かわいい。どうにかしてやりたいという気持ちもあるのだ。
いいことを思い付いた、と悪魔は見えない顔でほくそ笑んだ。
悪魔が、とんでもないことをしてくれた。
「嬉しいだろ?お前の大っ好きなコイツに触れられるんだから」
「や、いやです………!やめてください!」
「ずっと望んでたじゃねぇか。応えてこねぇこいつに欲求を高めながら」
「あなたは、ダンタリオン様じゃ、ない………」
シャルに、青年の身体で迫るという、とんでもないことをしてくれたのだ。
ただただ、青年は乱れていくシャルを見ていることしかできなかった。
しかし、嫌がるシャルは、名前を呼んだ。
──ダンタリオン様、と。
本物が、青年の中に入っているというのに。
何度も呼ぶその声に、自分の名前が「ダンタリオン」なのではないかという気がしてくる。
自分こそが、シャルに求められているのではないか──?
突然、悪魔に身体を返された。
「おい、さすがのチキン野郎なお前でも、わかるだろ?」
完全に面白がった声である。
目の前には、息の上がった扇情的なシャル。
見たことのないシャルの様子に、顔が赤くなる。
なんだこれ。かわいい。かわいい。かわいい。
舐めたい。キスしたい。抱き締めたい。
さっきまで悪魔がしていたように、シャルへ触れることができたなら。悪魔を拒絶したシャルは、自分のことは受け入れてくれるのだろうか。
『ダ、ダンタリオン様は、貴方のような方ではありません……!』
シャルの言葉が脳内を駆け巡る。
青年は言葉が出せないまま、そっとシャルレーヌのめくれていた寝間着を元に戻す。青年には刺激が強すぎた。
「あ、も、申し訳ありません……。」
「……………………………、ね、寝ようか。」
やっと出た言葉が、これである。
後ろで青白い火魂が呆れたような声を出す。
二人はギクシャクしながら、同じ布団に横になった。
「おい、何でここまでしてやったのに、お前は何もしねーんだよ。大丈夫か?お前の生殖機能は生きてんのか?──いや、待てよ。そうやって焦らす方法か?いきなり高等技術だな、弟子よ──」
青年を心配する火魂の声に、構っている暇はない。
青年は、あふれ続ける煩悩を倒すのに忙しい。
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青年は、ついに決意をする。
今一度、きちんとシャルに求婚しよう、と。
悪魔ダンタリオンとしてではなく、シャルと同じ、人間として。
「シャル、………」
「はい、ダンタリオン様。」
湖畔で声をかけると、シャルが風で乱れた髪を耳にかけてこちらを振り向く。
「ええと、言わなければいけないことが、ある」
「はい」
最近、シャルの表情が、よくわかるようになってきた。澄ましているような今の顔も、僅かに細められた目から穏やかな感情が読み取れる。
かわいい。かわいい。かわいい。
きょとんとするシャルの視線に、青年はハッと我に返る。彼女のかわいさに心奪われている場合ではない。
こほん、と咳払いして、青年は勇気を出した。
「シャル、────オレと、結婚してほしいんだ」
シャルは、「?」という顔をして、青年を見つめてくる。
間が、あった。
「ダンタリオン様、わたくしたちは、もう夫婦になったのではなかったのですか…?」
シャルのか細い声は、みるみる震えていく。
青年が顔を上げると、シャルの瞳に涙がたまっていくところだった。
「シャル、…………!」
おろおろしている間に、シャルの頬を溢れた涙が伝わっていく。
「わ、わたくしだけ、夫婦になったつもりで………?」
シャルが顔に手を当て、俯いてしまったところで、青年はたまらず彼女を抱き締めた。
「シャル……!ごめん、実は最初に言った花嫁になる話、あれは契約なんて何もしてないんだ!だからシャルはまだ誰の花嫁でもないし、何にも束縛されていない!」
「え……?」
シャルが、腕の中で身じろぎする。
「それにもう知ってると思うけど、オレは悪魔じゃない。本当のダンタリオンはそこの火魂で、オレじゃないんだ。でも、シャルが悪魔の花嫁になりたがっていたのはわかっていた。だから、だから……言い出せなくて」
説明しようと、青年の口調はどんどん早口になっていく。
こんな説明でわかってもらえるのか。
不安を抱きつつも、青年は一気にまくし立てた。
「オレ、シャルのことが好きなんだと、思う。いや、好き、だ。好きなんだ!悪魔じゃないオレだけど、シャルと結ばれたいんだ…!」
叫ぶように思いを言葉にする。
抱き締めたままのシャルは、それを黙って聞いていた。
湖畔に、清らかな風が吹いた。
沈黙したシャルが心配になり、青年は腕を緩めて彼女の表情を伺う。
シャルは、口元に手を当て、顔を真っ赤にしていた。
かわいくて、口付けたくなる。
顔を寄せたところで、シャルの不思議な色の目と合った。
「シャル、返事が………ほしい。」
自信なさ気な青年の声に、シャルはふわりと微笑んだ。
「前にもお伝えしましたけれど、わたくしも、お慕いしております。」
あまりにも眩しい笑みに、青年は女神が降臨したかと目を疑った。いや、女神だった。
青年は、脳内で忍耐が限界点を突破した音を聞いた。
「おいおい、何こんなところで盛ってんだよ。外だぞ、外。つーかコイツ、あんだけご立派なご高説垂れておいて、結局すんのかよ。処女ってこえー」
背後で悪魔の声がするが、構っている暇はない。
「おい弟子よ、仮にも自分からって初めてなんだろ?それがこんなところでいいのか?まあ、俺は楽しめるからいいけど。……ああっ、コイツがよがるところはそこじゃない、もっとよく探せ、そうだ!いいぞ!もっと痛がらせろ!────なあ、後で変わってくんない?」
青年は、組み敷かれたまま息を切らすシャルを下にして、背後を振り返った。
「師匠。ちょっとうるさいから、あっち行っててくれない?」
明るい日差しが、湖畔に降り注いでくる。
悪魔の棲む森は、今日も平和である────
読んで頂いてありがとうございました!