第1話
全3話短編連作/次回9月15日22時更新予定
『お疲れ様、ありがとう! 昼休みホントごめん! 今から休憩、しっかり取ってきて! 後でそっちも手伝うから!!』
そんな声に背中を押されて職場を後にしたはいいものの、さてどうしたものか。
時刻はただいま15時過ぎ、少しばかり傾いた太陽はそれでもディスプレイとにらめっこしていた俺にはいささか眩しい。
かけていた眼鏡をはずして一度、二度、目頭を押さえてはみるけれど、それくらいじゃ目の疲れは引いてくれやしない。
「はぁ…………」
自然と口から零れたため息は重い。
昼前に急遽舞い込んだ緊急対応はどうにかこうにかメドがついたものの、自分の作業の方は予定の半分だって進んじゃいなかった。
いや、覚悟の上ではあったけどさ……
とぼとぼと、降り注ぐ太陽光線から逃げ出すように、オフィスビルのすぐ近くにある地下へと降りる階段へ足を向けた。
この時間、周囲を行き交うのは俺たちみたいなサラリーマンばかりではなく、学生や子供連れの主婦も多い。
昼を大きく過ぎてはいても駅直結の地下の飲食街に人の姿は絶えていない。
……普段行く定食屋は昼の営業が終了しているし、ラーメンとかファーストフードとかその辺りでちゃっちゃと済ませるか。
休憩をしっかり取ってきてとは言われても予定がだいぶ押しているのも事実。誰かに手伝ってもらうというのも難しいだろうし、あまりのんびりともしていられない――と。
「あー」
ぴたりと足を止めたのは前々からちょっと気になっていた一軒の喫茶店。
これまでは少しばかり足を踏み入れるのを躊躇っていたのだけれど、この中途半端な時間にラーメンやらで腹を膨らませるよりは軽食で夜までのつなぎにすると考えれば、いい機会なのかもしれない。
外観は少しばかりシックなレンガ調。
とはいったところであくまで地下飲食街の一角なのだから、そんな仰々しいものでもなければ、もちろん人の出入りがないわけでもない。
以前からあるわけだから、少なくともポッと出の怪しい店ってわけでもない。
お値段は――もしかするとちょっとばかりお高いのかもしれないけど。
だから、これまで二の足を踏んでいたのは、その名前。
――喫茶、まよひが。
「……相変わらず、けったいな名前だなぁ」
名前の由来を知っていたら面白がるか、避けるかのどっちかだと思うけど。
そんなボヤキを小さく残して、俺は勢いでそのドアを大きく開いたのだった。
◇◆◇
カラン、カランとドアに付けられたカウベルが来客を示す。
初めて覗いた店内は外から見るよりも広く感じた。
少しばかり薄暗い照明。
店の中央に配置された大きなテーブルのど真ん中には花がいくつも飾られている。
奥には二人掛けのテーブル席がふたつと、カウンター席。
お客は奥のテーブルに一人だけ。座っていたふくよかなマダムがちらりと入口のこちらを見て、何事もなかったように手元の雑誌に視線を戻した。
かちゃり、と小さな音を立てて静かにドアが閉まると、少なからず耳に届いていた地下街のざわめきがシャットダウンされた。
耳をすませば、ジャズなんだか何なんだか少しばかり落ち着いた音楽が、会話の邪魔にならないくらいの音量で流れている。
なんとも風情がある感じ。
とはいえ、「まよひが」なんて名前からは想像できないくらいには洋風で、外観から分かってはいたけれど少し肩すかしを食らったような気分だった。
「いらっしゃいませー。おひとりさまですかー?」
さてどうしたものかと店内を見回していると、どこかやる気のなさそうな間延びした男性の声。
視線を向けると大学生くらいだろうか? エプロンを身に着けた青年が一人、エプロンの裾で手を拭きながらカウンターからこちらに出てきた。
バイト君だろうか? ちょっと気だるそうなんだけど、大丈夫そうか? とはいえ、店内には他のスタッフの姿はない。
「あ、はい。……あぁ、すいません。ここ、食事は……?」
「はいはい。トーストとかそういう感じの軽食ならありますよー。……でも、どっちかというとケーキの方がおすすめですねぇ」
「ケーキ」
はいー、とやっぱりどこか間延びした感じで、青年はにこにことへらへらの中間みたいな笑顔のまま俺にケーキの良さを語ってくる。
やる気のなさそうな声色や気だるそうな眼差しとは裏腹に、だいぶ熱心な売り込みだ。
ここ最近の売上ナンバーワンで、気に入ったらこの店の並びにある洋菓子屋でお持ち帰りもできるらしい。
なんだろう、そんなに俺は甘いものが好きなように見えるのだろうか? 正直ケーキなんてあんまり食べないんだけど。
「ん、んんっ!」
と、そんな疑問に首を傾げていると、奥の席のマダムが喉の調子を整えるかのように声を上げた。
すると店員の青年は予想していたかのような素早い動きで反転、マダムのもとへと足を一歩踏み出して――
「あ。お客さんはカウンターのお席にどうぞ。メニューはお席に、お冷はすぐにお持ちしますので少々お待ちくださいねぇ」
思い出したかのようにこちらに座席を示すと、すたすたと行ってしまった。
マダムは何やら青年に対して口早に何か文句でも言っているみたいだけど、あれは怒っているというか照れているというか……?
……いや、あんまり覗き見するものでもない。
ええと、カウンター席……この、隅の席でいいんだろうか? なんか、こう、カウンターなんてラーメン屋くらいでしか座らないから落ち着かないな。
ちょっと据わりが悪いような気分に居住まいを正しながら、テーブル上の思ったよりしっかりした装丁のメニューを開く。
ドリンクとしてはコーヒー、紅茶、ソフトドリンク。それに軽食でトースト関係と……それからおすすめだというケーキのラインナップ。
さすが喫茶店というべきか、コーヒーひとつとっても何かどこかで聞いたことがあるような名前がずらずらと、一味違った値段で並んでいる。
一瞬後悔しかけるけども、一度腰かけてしまった以上覚悟を決める時だろう。
――でもなるほど。
あまり考えてもみなかったけれど、ケーキ。……悪くないのかもしれない。
よし決めた、と心に決めるのと同時に椅子を引く音が静かな店内に響いた。
「じゃあ、ホント、もう……よろしくね? あんまりこう、押し売りみたいなのしなくていいから」
「ははは、やだなぁ。そんなことしてませんって。ちょっと僕の熱意が暴走しただけですよぅ。……はい。いつもありがとうございます」
「んもぅ! いっつもそうやって誤魔化すんだから」
マダムがぷりぷりと不満を――そうは言ってもどこかくすぐったそうな笑顔で零すのを店員の青年が手慣れた様子で見送っている。
ありがとうございましたーと、やっぱりどこか間延びした声と、カランカランと小さな音と、一瞬だけ地下街のざわめき。
常連、というやつだろう。正直ちょっと憧れたりもする。
かちゃりとドアがまた閉じて、店内には静寂とちょっとの音楽が戻ってきた。
「あー……すいません」
「あ、はーい。お待たせしてすいません。お決まりですかー?」
何となく気後れしてしまいそうになりながら、青年の背中に声をかける。
へらりとした笑顔で振り向いた彼に、結局俺はケーキセットを頼んだのだった。
◇◆◇
「はーい、アメリカンとフルーツタルトのセット、お待たせしましたー」
じっくり10分程度経った後で、目の前にはコーヒーとケーキのセットが並んだ。脇にはなんだかおしゃれな小さな器。どうやらミルクらしい。
この待ち時間に失敗したかと思ってしまったのは、何も空腹を抱えていたからというばかりでもない。
しっかり休憩して来いと言われている以上、何の問題もないのだけれど……どうにも時間が気になって仕方ないのだ。気が急いていると自覚はしているんだが。
もちろん、店員の青年に非はない。
気だるそうな態度に見えはするけれど、コーヒーを淹れる手つきは素人目にも丁寧かつ流れるようで、間違ってもサボって時間がかかっていたとは思えない。
そうして提供されたコーヒーから漂う香気は何となくコンビニのそれとは違う感じがしたし、色とりどりのフルーツをゼリーに閉じ込めたタルトは見た目にも美しくて喉が鳴る。
……ただ、まぁ、あんまりゆっくり味わっているわけにもいかないかな。もったいないけど。
「……あー。お兄さん、もしかしてお急ぎでした? コーヒーは提供に時間がかかるってお伝えすればよかったですねぇ」
そんなこっちの内心を知ってか知らずか、青年はへにょりと眉を下げてこちらにぺこりと頭を下げる。
口元は相変わらず少しばかり緩んでいたけれど、申し訳なさそう……なんだろう、多分。
「あ、いやいや。こっちこそ、その、喫茶店でコーヒーを頼むなんて初めてでね。どのくらい時間がかかるか知りもしなかったんだ。こちらの落ち度だよ――あちっ」
「淹れたてはやっぱ熱いんで、先にケーキ、召し上がってくださいな。お冷のお代わり、お持ちしますねぇ」
ミルクは入れず、そのままコーヒーに口を付けたらその熱さに驚いてしまったけれど、淹れたてなんだしまぁ、当たり前ではある。
……一応言い訳するとコンビニのコーヒーでも二回に一回くらいは口を付けた瞬間に熱さに驚くのだから俺としては平常運転である。……これ、言い訳になっているか?
青年にはケーキからと言われたけれど、何となく悔しくてもう一度カップを持ち上げた。
今度は慎重に、ふぅふぅと息を吹きかけてから口を付ける。
やっぱり熱い。けど。
「――うまい」
口の中に広がる香りもさることながら、コーヒーを口にしたというのにまるで水みたいにさらりと喉に滑り落ちていく感覚は初めてのもので驚いてしまった。
かすかな苦みとミルクを入れていないというのに広がる不思議な甘み。
語彙力がなくて恐縮だがコーヒーっぽさはしっかり感じるというのに、飲み口は非常に軽やかで何杯でも飲めてしまいそう。
また一口、二口。うん、と我知らず頷いてしまう。
「おや、お口に合いました? 嬉しいですねぇ」
ことりと目の前に置かれたお冷のグラスに顔を上げると、青年がにこにことにやにやの中間みたいな笑みで俺を見ていて、ちょっと気恥ずかしくなる。
「あぁ……はは、こんな本格的なコーヒーをいただくのは初めてだね。うん。美味しいよ」
それはよかった、と変わらぬ様子で彼はそっと手のひらをその横のケーキへと向ける。
「こちらも是非。甘い物と合わせるとまた違うんですよぅ」
なるほど、なるほどと首肯して、言われるままにフォークで一口大にして口の中へと放り込む。
果物を閉じ込めたゼリーのひんやりとした冷たさがコーヒーに熱せられた口内を静めてくれる。
甘味は強すぎもせず、果物の酸味と一緒に口の中に広がっていく。
底にあったタルト生地もほのかな甘みと、ゼリーとは違うサクサクとした食感が面白い。
そうしてまた、コーヒーを一口。
たしかにコーヒーだけで飲んだ時よりも苦みを感じる、のか? よく分からないけど、まぁ、美味しいからよし。
「実はここだけの話、先ほどのお客さんがこのケーキのパティシエさんなんですよ。ケーキの売れ行きの確認がてらよく足を運んでくれて」
常連さんですねぇ、とは何故だか俺の前でぼんやりと立ったままの店員さんの言。
「はぁ、なるほど」
気のない返事をしながらケーキから視線を上げれば、変わらず正面、カウンターの中にはこちらを見つめる青年の姿。
あれ、喫茶店ってこんな風に店員と会話しながら食事するようなところだっけ? すごい食べづらいんだけど。
「あの……」
「……お兄さん、つかれてるねぇ」
ちょっと食事に集中したい、と言うより先に、彼は被せるようにそんなことを口にした。
その目はぼんやりと俺を見ていて、俺からすると青年こそ疲れているように見えるんだけど。
「あぁ、まぁ。はは、近頃仕事が忙しくてね……」
何となく流されて返した言葉は我ながらなんとも疲れている風。
ため息だって零れてしまって、誤魔化すようにコーヒーをまた一口。
「うーん、もちろんそれもあるんだろうけど……うん。やっぱりつかれているんじゃないかってねぇ」
「はぁ……?」
何が言いたいのかは分からない。
けれど、何となくニュアンスが違うことは察せられた。
だからって何もできなくて、とりあえずケーキをまた一口。甘くてほっと息を吐く。
「お兄さんさ、肩、重くない?」
青年は右手で自分の左肩をトントンと叩いて見せる。肩でも凝ったアピールかと思えば俺の話?
「まぁ、うん。……デスクワークしててね、この年で恥ずかしながら肩こりが酷いんだよ」
笑って答えはするけれど、さてどうにも空気がおかしいぞと遅ればせながら身構えた。
ちらりと横目で店内を窺っても、もちろんお客は俺以外にはいない。
目の前には変わらずへらりと笑う男が一人。
この流れはなんだ、健康グッズか? 宗教か? 悪いがどっちにしてもノーサンキューだ。
コーヒーとケーキは本当に美味しいから惜しくも感じてしまうけれど、早々にお暇することに……
「そりゃあそうだよ。そんなに『乗っけてちゃ』さ」
ぞくりと背が震えた。
ごくりと、自分の喉が小さく音を立てる。
何かをされたわけでは断じてない。
けれど、照明が一段薄暗くなったような、イメージ。
うっすらと流れるジャズがどこか遠い。
思わず視線をやった左の肩には何もない。
ない、はずだけど。
逃げるようにコーヒーカップを手に取って――思わず息を呑んだ。
「…………っ」
悲鳴にならなかったのを褒めてほしい。
コーヒーの黒い湖面に映ったのは俺の肩に乗る黒い塊…………ただの見間違えだったのか、驚きでカップの中に立ったさざ波が収まった後にはそんなものは見えなくなっていたけれど。
恐る恐るもう一度、左肩を見る。
――――何も、ない。
震えていると自覚しながら、右手で眼鏡をはずして、もう一度。
ぼやけた視界には眼鏡をかけていた時と変わらない景色。
眼鏡を戻したってもちろん何も変わりやしない。
……コーヒーを、飲んだ。
「あ、見えた? ……うん。ごめん。別にお兄さんを怖がらせたかったわけじゃないんだ。言葉じゃ、上手く伝えられなくてねぇ」
「…………『憑かれて』る、って?」
答え合わせの問いかけに、男は相変わらずへらへらと笑みを浮かべながら、そう、そう、とこくこく頷いている。
なんだ? トリック? でも何を? しかもそれを見せてどうしようって? やっぱり何か宗教とかヤバめの……
「ごめん、ごめん。参ったなぁ……その、別に何か押し売りしようとかそういうんでもないんだよ? つい、こう、一応言っといたほうがいいかなっていうか……ちゃんと健全な喫茶店ですよぅ、ここ」
「……いや、胡散臭すぎでしょ」
「ですよねぇ」
はははと乾いた笑いを上げた男は、ここに来て初めてはぁと肩を落とした。
もちろんそんな素振りくらいで気を許そうとは思えない。気分は爆弾の解体処理だ。なんだってこう疲れているっていうのに――憑かれて。
「お兄さんには、どう見えた?」
いつの間にかまた、コーヒーの入ったカップに向けてしまっていた視線を上げれば、少し申し訳なさそうに眉を下げた男の姿。
「……黒い」
「うん?」
「黒い、塊だった」
「うん」
どうして俺はこんな荒唐無稽なことを口にしているのだろうか? もう、この人畜無害を装っていそうな男の術中にはまってしまっているのでは?
からからに乾いてしまっていた喉を潤すために、もはや味も熱ささえもさっぱり分からなくなってしまったコーヒーを一息に流し込んで。俺は。
「あれは……なんだ? 俺は、どうなる? ……どうすれば、いい?」
声が、震える。
不安に、視界も揺れる。
眼鏡をかけているはずなのに、視界がぼやける。
……だというのに、視界の先の男はきょとんと、先ほどまでの申し訳なささえ忘れたように不思議そうに首を傾げて。
「いやぁ、それ。そういうんじゃないから、そこは安心していいよぅ」
あっけらかんと、そんな言葉を吐き出した。
◇◆◇
ことり、と目の前にはお代わりのコーヒー。
驚かせてしまったお詫び、ということだけど、もはやこの店で出てくるものに口を付けてもいいものかどうか。
「うん。本当に、驚かせちゃってごめんねぇ」
ぺこりと、軽く頭を下げるその姿に誠意を感じるかどうかは人によるだろうけど。
俺は、はぁとため息を吐き出して、淹れたてで熱いコーヒーに注意しながら口を付けた。ほとんどやけっぱちだ。
こんなよく分からない状況だっていうのに、悔しいくらいにコーヒーは美味い。
「…………なら、結局あれは、何だったんだ?」
肩を見ても、何も見えない。
恐る恐るともう一度カップに視線を移しても、見えるのはコーヒーの黒とそこを覗き込む俺の顔だけ。
「お兄さんってさ、多分、優しい良い人なんだろうねぇ」
「はぁ?」
いきなりのそんなトンチキな発言に思わず、思い切り睨みつけてしまう。バカにしてんのか?
男は降参するように両手のひらを肩まで上げた。
「違う、違うよ? バカになんてしてないし……褒めてもいないよ?」
「……はぁ?」
もう一段、低い声が出る。
思わず手にしたコーヒーカップの中身をこの男に浴びせてやろうかと真剣に考えて。
「そういうひと、早死にしちゃうからねぇ」
何気ないその言葉に頭から冷水をぶっかけられた気分になった。
ぶるりと、背が震える。
肩がまた重くなったような、錯覚。
「そういうんじゃない」って言っていたアレは何だったんだと、声を絞り出すより前に。
「ソレ、多分お兄さんの優しさとか……うん、そういうのだよ」
「は――――?」
あの黒くて重い、ナニカが?
その言葉の響きとナニカの姿があまりにそぐわなくて、思考がフリーズする。
……そんなもの、別に俺は。
なんとなく、ついさっきまで突然の緊急事態に右往左往していた同僚や上司たちを思い出す。
じゃあ、あの時手伝いなんて申し出てしまったこと自体が間違いで……
「んー、いやいや」
こうするのも何度目か。
視線の先の青年はやっぱりにこにこ、へらへらとやる気のなさそうな笑顔を浮かべていて。
「お兄さんが何をして、それが良いか悪いかなんて知らないけどさ。人にあげてばっかりで人から受け取らないまんまなら、積みあがっていくばかりだろう? そりゃあ、圧し潰されたって仕方ない。……まぁ? 本望なのかもしれないけどね?」
彼が何を言っているのかは分からない。
分からないけれど、『ありがとう』『しっかり休んできて』――ほんの少し前に聞いたばっかりの言葉がなぜか脳裏を過る。
「……じゃあ、この、黒いの。どうすればいいんだ?」
「さぁ?」
「さぁ……って」
「お兄さんが後生大事に背負ってるだけだからねぇ。僕には何とも。……まぁ、たまにはちゃんと受け取ってみてもいいんじゃない?」
「…………はぁ」
青年は徹頭徹尾へらへらといい加減に笑っているものだから、何だか真剣に聞いている自分まで馬鹿らしくなってしまって……少し、肩が軽くなった気がした。これも、きっと錯覚だろうけど。
何だかバカらしくなってしまって、目の前に鎮座するケーキと、お代わりのコーヒーにゆっくりと手を付ける。
すべて美味しくいただいて……それから、ふっと見上げれば時計の針は16時まで後10分。思った以上に時間が経ってしまっていたらしい。
ほんの一瞬だった気もすれば、気疲れのせいかもっと時間が経っていたような気もしたけども。
「あー、えぇと……騒がしくしてしまって、申し訳ない。美味しかったです。コーヒーと、ケーキ」
「いや、いや。こっちこそ本当に、せっかくの休憩時間に変なこと言っちゃってごめんねぇ。よかったらまた懲りずに来てくれると嬉しいよ。――はい、これ。次回使える割引券」
ほら、と気軽に渡されるそれが、あまりに普通の店と同じもんだから、思わずプッと笑いが零れてしまった。
青年は不思議そうに首を傾げたけれど、気を取り直したように「ありがとうございましたー」と、相変わらず気の抜けた声で俺の背中を押してくれた。
なんだか美味しかったり、ゾッとしたり、しなかったり、よく分からない時間だったけれど……悪くはなかった、のかも、知れない。自信はないけれど。
カラン、とドアを開ければ、地下街の喧騒が戻ってくる。
振り返って見上げれば「喫茶、まよひが」の文字。
視線を下ろした左肩には何も見えない。
はぁ、とどんな感情がこもっているのか我ながらよく分からないため息を一つ吐き出して。
「さて、もうひと仕事頑張りますかぁ」
ぽそりとひとつ、気合を入れなおして、地上への階段に足を乗せたのだった。
◆余談◆
「ありがとうございましたぁ」
僕の送り出しの言葉に遅れて、カラン、カランとドアベルが鳴る。
いやはや、なんとも今日は珍しい。
時刻は宵の口。夕飯にはちょっと早い頃。
閑古鳥が鳴くような時間帯、いつもならもっと控えめな客足が今日はマシマシ。
なんと今お見送りしたお客さん以外にもまだ4組もお客さんがいるのだ。
いつもの奥のテーブルで雑談に花を咲かせてくれているお嬢さんたちに、大テーブルでコーヒーを飲みながら物珍しそうに店内を見回しているご新規さんと新聞を読んでるご新規さん、カウンターでスマホを見ている人は……たしか2回目だったかな?
ととと、いけない。ぼんやりしている場合じゃなかった。
どうにも自分は動きがトロくさいので頑張って急がないと、とてもじゃないけど回せないのだ。
そんなわけでせっせとカウンターの奥へと移動してコーヒーの準備。
時間がかかっちゃうのが難点だけど、こればっかりは譲れない。
「すいませーん!」
「あ、はーい。ごめんなさい、今手を離せなくって。少々お待ちいただけますかー?」
譲れないんだけど、こうしてたくさんお客さんが来てくれている時はなかなかそうもいかないところ。
きょろきょろしていたご新規さんがレジで僕を呼ぶのだけれど、お嬢さん二人分のコーヒーの抽出まで始めてしまった以上ちょっとだけ離れて、とはなかなかいかない。
えっと、後はケーキを準備したら持っていけるから――と頭の中で算段を立てていく。
だから、嫌そうに顔をしかめちゃう気持ちはすごくよく分かるんだけど、ごめんねぇ、一人なもんだからどうにもならないんだよ。
こういうことがあるたびに常連さんにはバイトくんでも雇えばいいのにと言われるんだけど、こんなにお客さんが重なることなんて滅多にないからどうにも踏ん切りがつかない。
そんなことをつらつら考えながら抽出を進めていると。
「…………あの」
ちょっと遠慮がちな声が目の前から。
見るとスマホをいじっていたお兄さんが、ちょっと言いづらそうな顔で僕を見ていた。
困った顔と言えばこっちの方こそしたいくらいだったけど、まさかそういうわけにもいかない。
「はい? なんでしょう?」
いつも通りの笑顔を心掛けながら問いかける。
何とか手は動かしたままだけど、どうにもこうにもぎこちなくなってしまうのはマルチタスクってものが苦手だからだろう。
お兄さんはちらりとレジで待ってるご新規さんに目をやって――あ、貧乏ゆすり始めた。まずいなぁ、結構せっかちさんだぞぅ、あのお客さん。
「その……忙しいみたいだし、もしあれなら手伝おうか?」
「…………え?」
びっくりした。
そりゃあもうびっくり仰天だ。思わず準備の手だって止まりかけて、危うくお湯をぶちまけるところだった。
まじまじとその人を見て……あぁ、そうだ。間違いない。つい何日か前に、ウチでお茶していってくれた良い人さんだ!
「や、もちろん自分が怪しいこと言ってるのは分かるんだけど……」
「すっごい助かるよ、ありがとうお兄さん! 僕、コーヒーの準備で手がふさがっちゃってるから、レジの方お願いしてもいいかな?」
良い人なお兄さんが何か言葉を続けていたけれど、僕は感動のあまり一も二もなくお兄さんにお願いしますと頭を下げていた。
「え? えぇ……?」
あれぇ? なんか逆に引かれてない? 僕、今そんな変なこと言ったっけ? ……言ってないよね、うん。
「……ねぇちょっと、まだですか」
あぁいけない。あれは着火まで秒読み段階に入ってる気がするぞぅ。ちょっと短気すぎないかい? 短気は損気だよお客さーん。
なんて無駄口なんて叩いている余裕なんてもちろんないので、手元の注文メモを押し付けるように手渡した。
「お代は……えっと、コーヒーとトーストのセットで1,000円だから! ホントごめん、よろしくね!」
「…………はぁ」
お兄さんはあっけにとられたように手元の紙を見て、イライラしてるお客さんを見て、僕を見て苦笑した。
「すいません、お待たせしました」
「え? 何? お兄さん、店員さん?」
「ええ、そうなんですよ。まだまだ新人で不慣れなもんですからすいません――」
そうしてそれ以上は何も言わないで立ち上がると、彼は颯爽とレジへと向かってくれたのだった。
何あれ、かっこいい……
っと、いけないいけない。お兄さんの活躍に目を奪われている場合じゃない、せっかく助けてもらったんだから僕は僕の仕事をしっかりやっつけちゃわないとねぇ。
――
――――
――――――
「――いやぁ、本当に助かりました! ありがとう、お兄さん!」
「あぁ、まぁ、助けになったなら何よりかな」
「なった、なった! お待たせしちゃって怒られちゃうのは仕方ないんだけどさ、ほら、僕ってこうだからそういう時にお説教が長くなっちゃうんだよねぇ」
そうなっていたらきっと注文をくれていたお嬢さんたちは、今も談笑に花を咲かせ続けてはくれていなかっただろう。
そう考えると感謝してもしきれない。空気が悪くなっちゃうと残念だからねぇ。
「それはよかったんだけど……ええと、ところでこれは?」
「うん? ケーキだよ? 前に来てくれた時は注文してくれてなかったっけ? フルーツタルト」
ちょうど今日までの人気の限定品で、残っていた最後の一切れだ。貴重品だよ?
「いや、それはそうだけど。よく覚えてたな……って、そうじゃなくて、今日はしてないですよね、ケーキの注文」
「うん。お兄さんのご注文はモカブレンドだったよねぇ。大丈夫大丈夫、これからしっかり淹れさせてもらうから!」
「あ、いや、それはお願いしたいんだけど、だからこれは?」
「あぁ、それはお礼だよ。お礼。ほんっとうに助かったからさ。せめてこれくらいは、ってね」
どうも僕の勢いが強かったのか、お兄さんは気圧されたように体を引いて、まじまじと僕と手元のケーキを見比べて。
それから小さく、ふっと笑った。
「あー、なら……まぁ、いただこうかな?」
「うんうん。そうしちゃってよ。……あ、そうだ! ところでお兄さんさ。スポットでのバイトとかって興味ない?」
――それは、良い人のお兄さんが常連さんになってくれる最初の一歩。
まぁ、スポットバイトは残念ながら断られちゃったんだけどね。




