猫はふみふみする 1
――私は今日、彼に別れを告げに行く。
「僕と結婚してください」
詩織が彼氏である柊一に、そうプロポーズをされたのは2ヶ月前の事だった。
「ちょっと、待って……柊一。この交際は2年間で終わりにするって約束だったでしょう?」
仕事関係の交流会で知り合った彼は、背が高くてイケメンというほどではないかもしれないけれど、人当たりが良く好感の持てる青年だった。
しかし、柊一とは年齢差があった。
詩織の方が歳上で、けれどそんな彼女に柊一は何度断られても交際を申し込んで来たのだ。
当然、詩織は年齢差のある彼を受け入れるつもりなどなかった。
しかし、若さゆえの一途さというものなのか、それとも断られ続けたことで彼もどこか意地になってしまっているのかもしれない。どちらにせよ頑なに諦める様子を見せない柊一に、詩織はとうとうひとつだけ条件を付けることで彼との交際を一旦受け入れることにした。
それが「この交際は2年間で終了させる」ことだった。
詩織が最初に提示したのは「1年間」だったが、その際も柊一の粘り強い交渉の末、「2年間」ということで話がついたのだった。
実際に付き合ってみればそのうち柊一の気持ちも変わってくるかもしれない、もしそうでなかったとしてもこの2年間をひとつの経験として綺麗に終わらせること。
歳の差があれど大人同士であれば、交際するだけならまだ本人同士が良ければと言えるかもしれない、けれどその先となるとまた話は違ってくる。
彼の大事な若い時間を、それ以上奪ってはいけない。
「確かに、あの時はとにかく詩織さんと付き合えるなら、何でも構わないと思っていました。けれど、僕は詩織さんを思い出にするなんてどうしても出来ません。この先もずっと貴女と一緒に生きて行きたいです」
正直、柊一からのプロポーズが少しも嬉しくなかったと言ったら嘘になる。彼との交際は想像していたよりも遥かに楽しかった。
けれど、詩織にはそれで十分だった。
「私は……」
詩織が口を開いた瞬間、柊一がそれを遮った。
「今、答えを出すのは待ってください。きっと詩織さんには無駄なあがきと思われるかもしれませんが……約束の2年間まであと2ヶ月あります。それまで僕との事をもう一度考えて欲しいです」
この2年間で、互いに相手の考えていることが多少なりとも察することが出来るようになったのかもしれない。
当初の約束を変える気がないであろう詩織に対して、柊一はささやかな抵抗を見せる。詩織もまた、こういう時の彼に何かを言っても余計に頑固になってしまうのが解っているので、素直に柊一のその言葉を受け入れたのだった。
そして、今日がその答えを出す日だった。
柊一との待ち合わせ場所に向かうために、詩織は路面電車を待っていた。
この街には駅前の電停から東に路面電車が走っており、途中から南に曲がる路線が2本ある。そこを走る車両のひとつにネコ電車があった。
車体には可愛い猫のイラストがいくつも描かれており、車両の両端にはちゃんと猫の耳の形をした飾りも付いている。内装も猫をモチーフにした模様となっており、肉球のマークが描かれた降車ボタンを押すと「にゃ~」と猫の鳴き声で報せてくれるのだ。
そしてこの時、偶然にも詩織の前に到着したのがその猫の車両だった。
緊張で強張っていた彼女にとって、可愛らしいデザインと路面電車の緩やかな振動は、少しだけそんな気持ちを慰めてくれるような気がした。
その時、ふいにコンッ、と小さな音がしたかと思えば、左隣りに座っていた幼い女の子がおもむろに座席から降りようとしていたので、咄嗟に左手を伸ばしてそれを制止する。
「電車が動いている時に、席を立つと危ないわよ」
4、5歳くらいだろうか、優しくその子に注意しながら彼女の隣に座っている母親らしき人物をチラリと見る。だいぶ疲れた様子で目をつぶったまま、今の様子に気が付いていないようだった。
「どうしたの?」
とりあえず小さな声で、女の子に聞いてみる。
「……あのね、スタンプ、落としちゃったの」
知らない人から声を掛けられて少しモジモジしながらも不安そうな声で女の子がそう答えると、詩織は足元の辺りを見回し消しゴムくらいの大きさの木片を見つける。「待ってて」そう言ってスタンプらしきものを拾うと、彼女の小さな手に渡してあげた。
「これかな? はい、どうぞ」
「ありがとう」
よほど大事なものだったのかギュッとそれを握り締めると、満面の笑みでお礼を言う女の子につられて、こちらまで表情が柔らかく解けていくのが自分でも分かった。
女の子はそのスタンプを自身のポシェットに仕舞ったあと、小さなメモ帳を取り出して再びこちらに顔を向けて小さな手をちょんちょんと動かして手招きをするので、詩織はそれに合わせて体を屈ませると、
「あのね、本当は内緒なんだけど、お礼に教えてあげるね。このメモ帳がいっぱいになるまでにゃんにゃん電車に乗ると願いごとが叶うんだって」
「そうなの?」
「うん。パパに教えてもらったの」
嬉しそうな声でメモ帳をぱらぱらと捲りながら話してくれる女の子。1ページごとに1つ猫の足跡のスタンプが押されている。きっと先ほど拾ったスタンプは、この車両に乗った回数を数えているものなのだろう。
と、その時、
『なぁーう。なぁーう』
降車を報せる鳴き声が聞こえた。
この鳴き声、確かに猫の鳴き声なのだが、実際にそれを聞いてみると想像と違ってちょっとリアルな感じで「なぁーう」と聞こえる気がする。
すると、母親がハッと目を覚ました瞬間、子どもの姿を確認して小さく安堵する。「友希、次で降りるからね」娘にそう声をかけると、路面電車がギギギとブレーキをかける音がして完全に停車したのが分かると、女の子は母親に手を引かれながら席を立った。
そして電車を降りる際、ふいに女の子がこちらを振り返って小さくバイバイをした。
そんな幼い子どもの何気ない仕草に、瞬間、詩織の胸はどうしようもないほど締め付けられてしまった。
――私は、彼を心から愛している。
認めるのが怖かった。いつの間にか「2年間」という予防線を張っておかなかったらすがってしまいそうになるほどに……。
胸の痛みをぐっと堪えるように詩織は目を閉じ、あふれ出そうになる感情が落ち着くのを待った。
この2ヶ月、大きな戸惑いの中で一瞬だけ夢を見た時もあった。けれど、詩織はすぐにそれを打ち消す。
これまで詩織はもちろん柊一も決してその話題に触れる事はなかったけれど、街ですれ違う子どもを見る柊一の眼差しがとても優しい事を詩織は知っている。
年齢的に自分が彼の子どもを授かる可能性は低いだろう。今は様々な理由から子どもを持たない選択をする夫婦も知られるようになったとはいえ、実際に彼や彼のご両親のことを考えた時、やはり柊一には将来子どものいる幸せを歩んで欲しいと思ったのだった。
――なぁーう。
と、その時また鳴き声が聞こえた。
次の降車を報せる声かと思ったけれど、ふいに膝の上に重みを感じて詩織が閉じていた目を開けると、目の前に猫がちょこんと座っていた。
くりくりとした瞳が印象的な、白に黒と茶色の模様をした猫。
電車内に猫? どこから? 突然の光景に戸惑っている詩織をよそに、その猫は彼女の膝の上で何やら場所を探るように、しきりに彼女の太ももを前脚で踏み踏みし始めた。
――ふみふみ、ふみふみ。
太ももに当たる肉球の感触が何だかくすぐったい。
――ふみふみ、ふみふみ。
不思議だと思っているはずなのに、けれどここにいるのがまるで日常的な光景としてそれを受け入れている感覚もある。
どれくらいそうしていたのか、しばらくしてようやくフィットする位置を探り当てたのか猫がふと立ち止まると、その場に腰をおろし器用にくるりと体を丸めて寝そべった。
喉をゴロゴロ鳴らしながら、頭を詩織のお腹の辺りに何度もこすりつけるような仕草を繰り返したあと、満足したように眠りに入った。
膝の上でスヤスヤと眠る猫。半開きになっている口から舌がちょこんと出ていて、何とも言えない愛くるしい寝顔とその温かい感触に、張りつめていた気持ちが少しずつ解れていくような気がした。
ふと、先ほどの女の子に教えてもらった話を思い出す。この車両にどれくらい乗ったかは分からないけれど……。
――もしも、本当に願いごとが叶うとしたら、私は……。
詩織は心の中でそっとつぶやきながら、気持ち良さそうに寝ている猫を撫でようとそっと手を伸したその時、ガタンと電車が大きく揺れた次の瞬間にはもう膝の上の猫の姿は消えていたのだった。
お読みくださった皆さまに、心から感謝します。
最後まで見届けてもらえたら嬉しいです。




