第五十一話『幸福論』
全力で走るのは久しぶりだ。希望を持って走るのはもっと久しぶりかもしれない。
何故なら自分にとって走るとは、逃げるための行為であったから。ヴァレットは本邸内部を駆けながら、そう思った。
それも致し方ない。彼女の生涯の大部分は、危機から逃れるために消費されたのだ。
食事に盛られた毒から。
実母に向けられた兵から。
自身を暗殺しようと付け狙う分家たちから。
何時だって、ヴァレットは逃げ続けて来た。
アラクネの女王討伐とて、大きな観点で見れば逃げ延びた果ての行為に過ぎない。アーリシアとの正面衝突を避けた結果だ。
仕方がないことだった。弱者に取れる選択肢は、常にふた通り。
ヴァレットのように逃亡するか、勇敢に死ぬかのどちらか。
尊厳を売り渡せば、命は得られる。命を投げ出せば、尊厳は守られる。
ただそれだけの二者択一。いつの世も弱者とはそう言うものだ。ヴァレットもまた、その理を是としてきた。
けれども、今こうして駆けている行為は違う。両肩を上下させ、走り抜いているこれは、決して逃亡行為ではない。
ただ、勝利するため。弱者から強者へと成り上がるための道筋だ。
ヴァレットは自分の命を賭け札に、尊厳を取り戻すための戦いに打って出たのだ。
ならばもう、後戻りなどできるはずがない。
「……本当に、嫌なところにいてくれるものね」
呼吸を整えながら、ヴァレットは彼女──アーリシアが待ち構える居室の扉を見た。
謁見室。本来ならば、客人がヘクティアル当主と謁見するための一室だ。他家の人間が易々と立ち入って良い部屋ではない。
だがヴァレットの体内を流れる魔力は、間違いなく自らの片割れがはここにあると断じている。
ならば、あれはここにいるだろう。疑いもなく、ここにあるのだろう。
ヴァレットは一瞬の躊躇さえなく、扉を押し開いた。
彼女には、覚悟を決めるための時間など必要ない。そんなものは、とっくの昔に決めている。ならば流れるように前へと進んだのは当然の事だった。
ゆっくりと、扉が開いていく。
謁見室は長方形の構造に作られており、謁見者が扉から入れば、正面最奥に当主の姿が見えるようになっている。
足元には朱色のカーペットが長々と敷かれ、当主へと続く道を案内していた。その道筋の先で、当主は豪奢に設えられた椅子に座り、謁見者を上段から見下ろすのだ。
それこそはこの世でただ一人、ヘクティアル公爵しか座ることが許されない絶対の座。ヴァレットさえも、未だ触れた事のない椅子。
だがそこに今、別の人間が腰を下ろしている。
ヴァレットの脈動が、より一層の強度を伴って唸りを上げた。
「この私に出迎え一つないだなんて、家臣の躾がなっていないようね」
ヴァレットの一言が、謁見室に響き渡った。
誰に言うのでもない、ただその場にいる全てを睥睨するだけの言葉。
「貴方に必要なだけの出迎えを、与えていたつもりでしたが」
応じたのはたった一人。
分家の人間でありながら、当主の座に腰を下ろした女。
アーリシア=リ=ヘクティアル。
彼女は座したまま、はっきりとヴァレットと視線を交わらせて口を開く。
「ですが、同時に確信もしていました。貴方ならば、例え万難を排しても来るでしょう。貴方はそういう人間ですもの。ですが、それは貴方にとって不幸なだけかもしれませんよ」
アーリシアの視線は、まるで死刑執行人かのように冷徹だ。その上、彼女の為のギロチンは、その手元に揃っている。
傍に控えるは忠誠の騎士バグリッシ。
やや離れて、しかし彼女の身に何かあればすぐに飛び掛かれるだろう位置に二人の異郷者。
『闘争請負人』ヘルミナ、『影亡き』ズシャータ。
彼女らが所属する異教旅団は、相変わらずアーリシア勢力に与している。まかり間違ってもヴァレットに手を貸そうとはしない。
過剰戦力も良いところだった。ヴァレットの如き小娘一人を殺すのならば、騎士一人で事足りる。
だが、それでもなおヴァレットの瞳は絶望に染まってなどいなかった。
まるでそれ以外は目に入らないとでも言うように。ただアーリシアの影のように佇むそれへと声を出す。
「──グリフ。貴方はどう思うわけ? 私は不幸かしら、それとも幸福かしら」
本当ならばヴァレットは、この場で即座に駆け出したい気持ちでさえあった。
自らの所有物が、自らの従士が、自らの片割れが。
その価値も理解できない他人の手元に置かれている。
生涯において、これほど口惜しいことはない。これほどの不快感はない。
だからヴァレットは言った。
そうして言外に問うている。
──お前は一体、誰の所有物だ?
アラクネの女王を討伐したあの日、あの時。自分の命を救う為、などという理由で手元を離れたことさえヴァレットには耐えがたい。
だがそれ以上に苛立たしいのは、この期に及んで彼がアーリシアの手元にあることだ。
本当ならば、ヴァレットが旗を掲げ、蜂起を示した瞬間に合流しても良いではないか。
異郷者が動くと言うなら、動かせておけば良い。自分たちは異郷者に遅れなどとらない。ヴァレットはそう信じている。
だが。魔力の外郭は揺蕩いながら言った。
「……ヴァレット。今更、俺が言うのも馬鹿げた話だが」
久しく聞いた彼の声は、随分と強張っていた。自信に満ち溢れていたはずの声に、緊張が籠っている。
「ここで引いて、静かに余生を過ごす選択肢も君にはある」
まるで懇願のような言葉だった。
グリフはその生命を声に乗せるようにして続ける。
「そちらの方が、よほど幸せに生きられるはずだ。言っただろう。俺は君に幸福になって欲しい。それこそ誰よりも幸せにな。だが、無茶をし過ぎれば簡単な幸福だってなくなっちまう」
ヴァレットは彼が何を言いたいのか、わかりすぎるほどに理解していた。
彼の言葉に嘘はない。間違いなく本心からヴァレットの幸福を祈っている。今の姿は、その為の現実的な努力だと言うわけだ。
問題はただ一つ。あの日と同様に、残酷すぎるほどヴァレットの心情を見抜いていない事だけ。
「グリフ」
だからヴァレットは、一歩踏み出しながら言った。
腰元の護身用の剣に手を伸ばす。ここに来るまでの間、全ての手札は出し切った。今彼女に扱える武器はこれ程度のもの。戦力としてはゼロに等しい。
「貴方、意外と傲慢なのね」
だがそれでも、ヴァレットは歩みを止めない。
彼女の命はすでに賭け札になっている。ならば、全力をもって賭けるだけ。
ヴァレットは笑いながら言った。
「ようやく私も気づいたわ。幸せは誰かにしてもらうものじゃない。私がなるものなのよ。他人に押し付けられた幸せほど不快なものはない。貴方が言った通り、私は誰よりも幸せになる最期以外迎える気はないの」
そうでしょう、とヴァレットは続けながら更に歩みを進める。
アーリシアの傍で、バグリッシが大剣を引き抜いた。たとえ相手が素人にすぎずとも、主人のためならば彼は一切の容赦をしない。間合いに踏み入った瞬間、その頭蓋を両断する。
だが、アーリシアの片腕が彼を押し留めた。
「よろしくてよ、ヴァレット。わたくしも貴方に賛同します」
「おい、話が終わるまで待つ約束だろう!」
「もはや、話は終わったのです。控えなさいグリフ」
アーリシアがグリフの言葉さえも押しのけて、自らも細剣を引き抜いた。
「彼女の言う通り、幸福とは与えられるものではなく、自らの手で選び取るものです。それを理解し、こうしてわたくしの前に彼女は立った」
それならば。そう、付け加えるようにアーリシアは宣言した。
「ヴァレット、貴方はわたくしの敵に他なりません」
ここに、グリフの儚い希望は消滅した。
アーリシアにしろ、ヴァレットにせよ。彼女らは一代の傑物なのだ。両者が同じ時代にあいまみえた。その時点で、彼女らは互いに必ず意識し合う。
そうしていつしか必ず、こう思うようになるのだ。
──どちらかが必ず、死ななければならない。
宿命か、もしくは運命のように。物事は収束していく。製作者の想いさえ超えて、これこそが必然なのだと語るかのよう。
アーリシアが、一歩ずつ近づくヴァレットに向けて言う。
「もう手札はないのでしょう。わたくしに対する勝算がおありで?」
真っ当な質問だった。今この時を持って尚、両者の戦力差は圧倒的。ヴァレットに優位な面は何一つない。
「あら、意外なことを聞くのね。勝算があろうがなかろうが、同じことでしょう。私は計算をするためではなく」
だが彼女はまるで、歌うように言った。
「──勝利するためにここにいるのよ」




