青い鳥、青の温度
「クッキー焼けた?」
「うん。」
レミエが、台所に顔を出したところで、ちょうどクッキーが焼きあがった。どう考えても、タイミングを見計らってきたとしか思えない。
「やけどしないようにね。」
そう言いつつ、ライアンに目配せしたのが分かった。大丈夫なのに、と唇を尖らせる。
雪加は、クッキーを冷まして、かごに入れる作業だけ任された。
「みんなに、渡してくる!」
包みのたくさん入ったかごを雪加は、振り回すようにもって、使用人に配って歩いた。
母屋に戻ったのは、二人だけの夜の舞踏会をした次の日だ。
驚くほどに、素早い差配をジョゼはして見せた。有能だこと。雪加は思わずつぶやいた。
聞いていないと思ったジョゼだったが、なぜか輝かしい笑顔で雪加に、褒められて光栄だといった。あまり、褒めたつもりは無かったのに。
雪加は、傷つかないように、次が無いことをほのめかしたのに、ジョゼはそれをすべて覆していった。
まるで何かの証明のように、雪加の次を用意する。
もう踊ることはないかもと言ったから、本邸の舞踏会に参加することになった。ジョゼの両親にも紹介されて、ファーストダンスを主人でもないのに踊らせてもらった。
ジョゼの両親は、結婚式にも来ていたらしく、ちゃんと認識も挨拶もできないことを雪加がひどく恥じれば、ジョゼは仕方がないといった。それも、結婚式がいかに大きな催し物にされて家族との交流がないがしろにされてしまったか、その後、どれほど忙しかったか、両親を認識できなくても致し方なかったという理由を並べ立てて、雪加を慰めた。
歌を歌う機会はないと言ったから、ピアノのある部屋に呼び出されて、歌を歌わせられた。無理矢理と言っていいほど強引だったけど、自分とジョゼしかいなかったから、仕方なく歌った。彼は、とても、嬉しそうだった。
クッキーを焼いてくれといったのも彼だ。渡さなかったクッキーを実は口にしていたことを、本当にとんでもない罪かのように告白されて、雪加は再度クッキーを作ってくれと頼まれた。今度は堂々と一緒に食べたいと言われて、雪加はすぐにyesとは言えなかった。
でも、雪加が焼くしかないように材料と時間とライアンを派遣されてしまった。
「雪加、渡さなくていいの?」
「うーん、でも、」
「渡さないと、たぶん、泣くと思うけど。」
「うーん、そうかな。」
「たぶん、号泣するよ。で、雪加が渡すまで、クッキー攻撃、終わらないと思う。」
ジョゼは、雪加といる時間がなによりも大切だと、いつでも口にする。
何もかも、口にして、雪加といることがどれほど幸せなのか、説明してくる。どうして、雪加を選んだのか、どうして雪加でないとだめなのか、切々と説明する。
雪加が不安に陥ると、それを口にしなくてもいつの間にかそばにいて、言葉をくれる。
それは、とてもうれしいことだったけど、なんだか、そこはかとなく悲しかった。
ジョゼは、雪加がする些細なことで、とても喜んだ。こんなことで、どうして、そんなに喜ぶのか、分からないくらいのことで。
でも、自分はそれだけ、ジョゼを不安にしていたのだと思うと悲しかった。
『好き』という気持ちを、雪加はジョゼに抱いているけれど、それを向けることはどうしても勇気が出なかった。それを素直に言うと、ジョゼは必要ないといった。
いつかは、欲しいものだけれど、抱いてもらえるならそれでいい。自分がその分、雪加にすべての『好き』を向けるから。
ジョゼに返せるものなんて、何もないのに。
「雪加、旦那様なら執務室だけど?」
「お仕事、終わってからにするよ。」
「そんなこと言うと、無理やり終わらせてきちゃうわよ。」
雪加は、また、そんな冗談と言ってやり過ごして、部屋に戻った。仕事の邪魔はしたくない。それでなくても、何もできなくて足を引っ張っているのだから。
ちくちくと刺繍をしながら、雪加は過ごしていた。
最初の二枚を渡さずにいたら、ジョゼがハンカチを作ってほしいとお願いしてきた。最初のものよりも格段にいい出来の物が出来そうだった。
「雪加!」
ノックもなしに飛び込んできたジョゼは、雪加の向かいに座って優雅にお茶を飲んでいるレミエを華麗に無視して、雪加の隣に座った。
「えっと、お仕事はよろしいの?」
「ええ!もう、終わりです。」
終わりなのか、終わらせたのか。雪加は苦笑して見せた。
「雪加から、いい匂いがします。」
そういって、自然に首筋に唇を寄せられて、雪加はたじろいだ。
このまま、雪加を食べてしまいたい。
そう耳元でささやかれたら、雪加だって困る。レミエは、砂をかむような顔をして、肩をすくめた。
だから、言ったのにと言わんばかりで、雪加は腕を突っ張ってジョゼを突き放してから、クッキーの籠をレミエに取ってもらった。
「焼いたクッキーです。お口に合うか、分かりませんが。」
「おいしそうだ。雪加は、天才ですね!」
形のいいものばかり残しておいたのは、内緒だ。雪加は、手放しの称賛に困りながら、少しだけドキドキした。口に運ばれてクッキーが咀嚼されるのを見ていると、むくむくと不安が膨れてくる。
「雪加、」
「はい……、」
「今までで、一番おいしい。」
「もう、また、嘘、」
「嘘じゃありません。雪加の作ったクッキーが一番おいしい。前回、内緒で食べたときより、ずっと、おいしい気がします。」
それは、愛情が入っているから。雪加は、思ったけれど、口にしない。恥ずかしくて、それになにより気色が悪いと思われたらいやだったからだ。
「愛情が入っているなんて、うぬぼれてもいいですか?」
思いがけない質問に雪加は、目を丸くした。顔を上げると、どこかとても切なさを滲ませたジョゼの姿があった。
雪加は慌ててうなずきを返す。
「うれしい。」
本当に、嬉しい。かみしめるように何度も口にして、それから、もう一枚とクッキーに手を伸ばす。何枚も口にしようとするので、さすがに止めた。
「夕食が、」
「でも、雪加が焼いてくれたものだ。全部食べたい。」
「一緒に、お夕食を楽しみたいのに。」
雪加がつぶやくと、とてつもなく感動したようにジョゼが目を潤ませる。雪加の両手を取ったジョゼの様子を見かねてか、レミエが大きくため息を吐いた。
「もう、勝手にしてほしいわ。」
レミエの一言など聞こえていないジョゼは、雪加の爪の先に口づけを順番に落としていた。
「クッキーはいつでも、焼きます。だから、今日は、一緒にお夕食を楽しめるほうを優先して。」
「もちろんです。雪加。」
この上なく幸せそうなジョゼに、雪加は間違えていないだろうかと思った。
雪加は、たくさん間違えて、ジョゼを不安に陥れた。これは、その結果だ。雪加は、ジョゼを苦しめている気がした。
「雪加、私は、今、とんでもなく幸せなのです。あなたが、隣にいて、私を見つめてくれる。私を受け入れて、私の『好き』を受け入れてくれる。私は、これだけで本当にいい。本当に幸せなんです。私はあなたなしでは生きられない。」
だから、そんな顔をなさらないでください。雪加の頬に手を寄せて、額と額を合わせたジョゼは目をつむった。
雪加とジョゼの間にあるものに名前を付けるなら、なんだろうか。
雪加は、『信頼』という言葉を捨ててから、ずっとその答えを探していた。
でも、雪加はその答えは見つからなくてもいいのではないかと、思い始めていた。最初は、焦って、どうしようもなくなって、名前がないことにおびえていたけれど、ジョゼはそんな雪加を見抜いて、焦ることはないと言ってくれた。
名前がないことを恐れる必要はない。
ジョゼからの気持ちは『好き』。
雪加からの気持ちは名前がない。
そのことに焦る必要はないし、同じものを返す必要はない。
雪加は、そのことに安心して、同時に『幸せ』を感じた。だから、もしかしたら二人の間にあるものは『幸せ』でいいのかもしれない。
「私も、幸せだよ。ジョゼ様。」
雪加は自分からジョゼの背に手を伸ばした。ジョゼは驚きながら、とてもうれしそうにそれを受け入れてくれた。
いつか、自分の感情に名前を付ける日が来ても、ジョゼの感情の名前が変わる日が来ても、二人の間にあるものは『幸せ』だと信じることができた。
雪加は抱きしめられた温度を心の中で確かめた。
もう、この温度を思い出す必要はない。雪加が望むときに、望んだとおりにこの体温はいつでもそばにいてくれるのだから。




