心の中の部屋に光が差し込む
僕は畑作業を減らし、ゆとりの時間を増やした。
「去年は、ちょっと働きすぎた。おかげで、いくらかお金は溜まったけれども、あまり人間らしい心が保てなかった」
そう思ったからだ。
このまま毎日、単純作業を繰り返し、2年も3年も過ぎていくのは我慢できなかった。
その先に何があるのか全く見えてこない。草を刈ったり、水をやったり、土を耕したり。それは、昨日もやった。明日もやるのだろうか?そこで何が得られる?
何もだ。何も得られはしない。ただ淡々と同じ日々が過ぎていくばかり。同じ時間の繰り返し。そんなもの、100年あっても1000年あっても違いはない。違いなどありはしない!
そうではなく、人には“成長”が必要なのだ。
僕は、そんな風に考えるようになってきた。そうでなかったとしても、楽しく生きていきたい。
成長もない。楽しさもない。ただつらいばかりの時間を送り続けるだけの人生。それだけは、我慢がならなかった。どうにかして、その時の輪から抜け出したかった。
だから、僕は自分の畑を耕すのをやめた。
畑仕事は近所の人に頼まれた時だけ。それも、お金になるか野菜でももらえる時に限った。
自分の畑は果樹園にしてしまったし、最低限の水やりと、雑草が伸びた時に草を刈りに行くだけ。あとは放ったらかし。その草刈りだって、近所の人に電動草刈り機を借りて、サッと終わらせてしまう。
その代わりに、近所の人の草刈りを買って出る。他の人の草を刈る代わりに電動草刈り機を借りて、自分の畑の雑草もついでに刈ってしまう。世の中、ギブアンドテイクなのだ。
*
ほとんどまともな収入にならない自分の畑作業をやめたことで、随分と時間にゆとりができるようになった。
相変わらず外国語の勉強も続けてはいたが、再び映画やアニメも見るようになった。ゲームもするようになった。彼女とデートに出かけることもある。
おかげで人生は充実するようになった。もう去年みたいに心を閉塞感に支配されることもない。心の中の部屋には光が差していて、ホコリは掃除機できれいに吸い取られた。部屋の中に置いてある物も、キチッと整理整頓されて並んでいる。
もう大丈夫だ。
それから、僕は絵を描き始めた。
坂道さんや油山さんなど近所のシェアハウスの人たちも、絵を描いたり、彫刻を始めたりしていた。その影響を受けたのだ。
中には、隣街の市民会館を借りて、自分の作った作品を発表している人もいた。あるいは、演劇の上演をやっている人たちも。
僕も1度見に行ったことがある。お話の方はどうにしろ、演技の方は素人とは思えない抜群の演技力で、とても驚かされた。
「なんで、こんな田舎に、これほどの実力者たちが集まっているのだろうか?」と不思議に思ったくらいだった。
こういうコトに時間をかけることができるのは、ベーシックインカムのいいところだ。
もしも、これが都会で暮らしていたとしたら、働きながら創作活動もやらなければならない。会社に通ったり、アルバイトに出かけたりする合間に、どうにか時間を作って活動するのだ。
それでは、精神も疲弊してしまう。心のゆとりがなくなれば、いいモノも生み出せなくなるだろう。演技の稽古にだって身が入らないに決まっている。
それがベーシックインカムならば、全く働かずに絵や演劇に専念できる。
最低限の生活が保障され、あとは好きに過ごしていい。それは、ある意味で理想的な生き方であり、素晴らしい社会システムでもあった。
そこには成長があり、楽しさも、充実感もある。




