第39話 ティータイム
手が震えながらも、セシルはそのまま家の中へと入っていった。
ルーファウス王子は、相変わらず感情の読めない無表情のままグレイウルフの草原を眺めている。
まるで、セシルの存在など最初から気にも留めていないかのように。
セシルが見せた手の震え、そして二人が視線を合わせた瞬間に流れた異様なまでの沈黙。
ルーファウス王子ほどの人物であれば、セシルが王城から逃げ出してきた王女であることに気づいていないはずがないだろうが……
それなのにセシルが何気ない挨拶を交わし、ルーファウス王子がそれを自然に受け流した態度の裏には、いったいどんな意図があるんだ?
「殿下ー! こちらにいらっしゃいましたか!」
ベルグラン卿の焦ったような声が響き渡る。
すぐ近くまで駆け寄ってきたベルグラン卿は、肩を激しく上下させてハァハァと荒い息を吐き出していた。
「いやあ、殿下が急にいなくなってしまうものですから、本当に焦りましたよ」
「ふむ、風光明媚な良い場所だったゆえな。それよりベルグラン、フェルレイドの奥方が茶を用意してくれるらしい。ぜひ、その誘いを受けようではないか」
「奥方、ですか? フェルレイド殿の? あ、殿下! お待ちください!」
スタスタとマイペースに歩き出すルーファウス王子の後ろを、ベルグラン卿が慌てた様子で追いかけていく。
俺もまた、取り残されまいと二人の背中を急いで追った。
家の戸の前に差し掛かるとルーファウス王子がぴたりと足を止め、すっと後ろを振り返った。
そして、背後に付き従っていた護衛たちへ向け、いつもの静かな声で呟く。
「お前たちは外で待っていろ」
たったそれだけの、一言の命令。
指示を受けた四人の護衛たちは、それぞれ顔全体を覆う鉄兜を着けていたり、ローブのフードを被り仮面で顔を隠していたりと、誰もが素顔を一切見せていない。
それでもルーファウス王子の言葉に対して、明らかに動揺を滲ませていた。
俺と敵対して命のやり取りをした場面でさえ微動だにしなかった者たちが、この命令に揺らいでいる。
護衛たちはお互いの顔を見合わせ、やがてその中の一人がルーファウス王子に向かって静かに首を横に振った。
それは言葉がなくとも、『その命令には従えません』という強い拒絶を示していた。
驚かされたのは、ここからだった。
ルーファウス王子は、出会った時から常に無表情を貫いていた。
その無表情を崩したのは、俺に対して自身の正体を明かした瞬間にニヤリと笑みを浮かべた時の一度きりしかない。
だが今、ルーファウス王子の表情は明確に険しく歪んでいた。
目の前に立つ護衛たちを、冷たい眼差しで睨みつけているのだ。
「私が、待っていろと、言っているのだ」
低い抑揚で告げられた言葉には、有無を言わせぬ圧力がこもっていた。
ルーファウス王子に睨みつけられた護衛たちはしばらく硬直していたが、やがて観念したようにこくりと頷き、俺の家の外周を警備するように直立不動の姿勢で陣取った。
「やあ、待たせたね。それではお邪魔させてもらうとするよ、フェルレイド」
「……はい、どうぞ」
まるで何事もなかったかのような態度を見せるルーファウス王子。
ああいうのは日常的な事なのだろうかと思いつつも、護衛の動揺を見る限りは珍しいのだろう。
王子とベルグラン卿を家の中に招き入れ、リビングの小さな木製テーブルへと案内する。
こんなありふれた一般的なテーブルに王族を座らせてしまう失礼を気にしつつも、そもそも他にちゃんとした席など用意できるはずもない。
ルーファウス王子は静かに「ありがとう」と呟き、自ら椅子を引いて腰を下ろす。
その隣には、少し気まずそうな顔をしたベルグラン卿がちょこんと収まった。
俺が人数分の紅茶カップを取り出してテーブルに並べると、奥からセシルが茶器の乗ったトレイを持って現れる。
ルーファウス王子は、紅茶を運んでくるセシルの姿を静かにじっと見つめていた。
そして、いつもの感情を削ぎ落としたような静かな声で、セシルに語りかける。
「セシル嬢も、どうぞお席におつきください」
対面にある空いた椅子を、ルーファウス王子がそっと手で促す。
だが、セシルの反応は尋常ではなく早かった。
「いえ、私は無作法者ですので、これで奥へと下がらせていただきます。お気遣い、ありがとうございます」
「なに、作法など気にすることはない。ここには私の護衛もいないし、気の置けないベルグランがいるくらいだ。どうぞ、座って」
セシルの辞退すらも、ルーファウス王子は涼しい顔で一蹴する。
それでも断り続けるのは、かえって怪しまれるかもしれないな……
俺は極めて自然な口調を意識してセシルに声を掛けた。
「セシルも座ってくれ。ほら、みんなに紅茶を淹れてくれるかい?」
「え……う、うん……わかった」
引きつった笑みを浮かべるセシルの表情は、隠しきれない焦りが浮かんでいた。
セシルがカップに紅茶を注いでいくと、部屋中に上品な茶葉の香りがふわっと広がる。
だが、そんな香ばしさとは裏腹に、室内の空気は凍てついたように張り詰めていた。
ルーファウス王子は静かに紅茶を一口含むと、そのまま窓の外へと視線を動かした。
静寂が支配する部屋の中で、不意にルーファウス王子が口を開く。
「フェルレイド。今回は本当によくやってくれた。まさか、あんな形で帝国軍が侵攻してくるとは思っていなかったゆえに助かったよ」
「フェルレイド殿、私からも改めて感謝を申し上げたい。モノネリ領の件で協力してくれて、本当にありがとう」
王子の言葉に続くように、ベルグラン卿も真摯な眼差しを向けてくる。
「いいえ、俺にできることをやっただけですから。また何かあれば、いつでも同じように動きますよ」
「そうか……それは頼もしいこと、この上ないね」
そう呟きながら、ルーファウス王子は再びカップに口をつけた。
こういう場において、毒見がいなくていいのだろうかと少し気になったが、すでに王子は何度も紅茶を口に運んでいる。
「ここは、本当に良い場所だな。以前の報告では、荒れ果てた魔境と聞いていたがね」
「そうですね。確かに昔はそうだったみたいですけど、原因を突きとめて対処したので、もう荒廃することはないと思います」
「ほう。この荒地を君が復活させたのか。これはますます感謝を示さなければならないようだね」
満足げに頷いたルーファウス王子は、カップをソーサーの上にカチャリと置いた。
そして、再び窓の外の景色へと目を向ける。
窓の外を眺めたまま、ルーファウス王子は静かに言った。
「フェルレイド、私が君に感謝しているのは充分に伝わっていると思うが……ひとつだけ、質問をしていいかな?」
「質問、ですか。はい、もちろん。俺が答えられることでしたら」
俺がそう返すと、ルーファウス王子はゆっくりと俺の方を向いた。
王子の視線が、まっすぐに俺の目を射抜く。
そして、ルーファウス王子はいつも通りの静かな声で呟いた。
「なぜ、フランソワがここにいるんだい?」




