幕間4:小平太、剣と算盤とカピバラと ~江戸修行日誌・武士の魂どこへ行く~
序章:剣禅一如、されど江戸は万華鏡
江戸日本橋、相馬藩アンテナショップ「相馬屋」。その薄暗い店の一角で、結城小平太は今日も今日とて、開店前のわずかな時間に木刀を振るっていた。
相馬中村藩では剣術遣いとして多少は名の知られた小平太だったが、この大江戸に来て、目安方筆頭・栗田謙信の奇策とも暴挙ともつかぬ「江戸出店プロジェクト」に巻き込まれて以来、その日常は剣の道とは程遠い「商いの道」へと様変わりしていた。
「ひっ、ふっ、みっ…!」
鋭い呼気と共に放たれる木刀は、確かに江戸の埃っぽい空気を切り裂く。
しかし、その背後からは、いつものように岩田権左衛門副店長のため息と、田中新兵衛の朴訥な挨拶、そして江戸っ子お駒ちゃんのカラカラとした笑い声が聞こえてくるのが常であった。
(武士たるもの、いついかなる時も鍛錬を怠るべからず…とは師の教えなれど、この江戸の喧騒と、栗田組長の奇行の数々は、どうにもこうにも我が精神をかき乱す…)
小平太は、額の汗を拭い、店の隅に置かれた、栗田謙信が国元から「これは最新の兵法鍛錬具であり、武士の集中力と戦略的思考を養う、いわば『動く詰将棋』のごときものだ!」などと、いつものように訳の分からぬことを言って押し付けていった、奇妙な動物の形をした組木パズル――その名を「かぴばら」というらしい――に、苦虫を噛み潰したような視線を送った。
「小平太さん、またその『かぴなんとか』睨んでるのかい?いい加減、諦めて組んじまったらどうだい。案外、面白いかもしんないよ?」
開店準備をしていたお駒ちゃんが、箒を片手に軽口を叩く。
「お駒殿、これは遊びではない。栗田組長からの、一種の…精神修養の課題なのである。武士たるもの、与えられた試練には真摯に取り組まねば…」
そうは言うものの、小平太は、その「かぴばら」なるものの、どこか間の抜けた、しかし複雑怪奇な形状に、剣術の難解な型に取り組む時とはまた質の異なる、不可解な苛立ちと、そしてほんの僅かな、認めたくはない好奇心を感じ始めていた。
江戸に来て数ヶ月。剣一筋だった小平太の世界は、否応なく広がり、そして揺さぶられ続けていた。
第一部:カピバラとの出会い、あるいは新たなる試練
栗田謙信という男は、まさに嵐のような存在だった。ある日、国元から山のような荷物と共に江戸に戻ってきたかと思えば(そのほとんどが、またも売れ残りの山と新たな珍品であったが)、小平太の前に、その「かぴばら」なる組木パズルを、さも重大な密命でも授けるかのように、恭しく差し出した。
「小平太君!これは、遠き南蛮の賢者が、戦場で一瞬の判断力と、泰然自若たる不動の心を養うために編み出したという、門外不出の『戦略的思考鍛錬具』!その名も『カピバラ・タクティクス・パズル』!これを解き明かせた者は、いかなる難局をも乗り越える知恵と勇気を得ると言われておりますぞ!さあ、君のその類稀なる集中力と剣の才で、この謎に挑んでみたまえ!」
謙信の、あまりにも胡散臭く、そして大袈裟な口上に、小平太は最初、「組長…また何か妙なものを…これはただの子供の玩具では…」と、露骨に顔をしかめた。しかし、謙信は「小平太君、物事は見かけで判断してはなりませぬ!この『かぴばら』の奥深さを知れば、君の剣もまた、新たな境地へと達するはず!」と、有無を言わさぬ笑顔で押し付け、そそくさと次の奇策の準備へと去ってしまった。
残された小平太は、手元にある、何とも言えない表情をした木の塊を、じっと見つめた。カピバラ。聞いたこともない動物だ。
何かの魔物か、あるいは南蛮の珍獣か。その、のほほんとした顔つきとは裏腹に、複雑に組み合わされた木のパーツは、確かに一筋縄ではいかなそうだ。
(ふん、こんなもの、武士の修練になるものか…)
小平太は、最初はそれを店の隅に放っておいた。しかし、客足の途絶えた暇な時間、ふと、そのカピバラが目に入ると、何とはなしに手に取ってしまう。
一つ、また一つとパーツを動かしてみるが、これがなかなかどうして、びくともしない。苛立ちが募る。
(くっ…何だこれは…たかが木の塊ではないか…!)
剣術であれば、いくらでも集中できる。
しかし、この奇妙な動物は、小平太の剣術で培った直線的な思考とは、全く異なる種類の思考を要求してくるようだった。
お駒ちゃんが横から「小平太さん、そんなに眉間に皺寄せちゃ、カピバラさんが可哀想だよ。もっと優しく、こう…カピバラさんの気持ちになってさ」などと茶化してくるが、ますます小平太を混乱させるだけだった。
それからというもの、小平太の、カピバラとの静かで、しかし熾烈な戦いが始まった。
店の隅で、休憩時間に、そして時には夜、長屋に持ち帰り、灯りの下で。新兵衛からは「小平太殿、またその『かぴ殿』と睨めっこでござるか。何か手伝いましょうか?」と心配され、権左衛門からは「おい、小平太!そんな子供の遊びに現を抜かして、店の仕事がおろそかになっておるぞ!それでも武士か!」と叱責される。
しかし、小平太は、一度取り組むと決めたからには、投げ出すわけにはいかなかった。それは、彼の武士としての、そして剣士としての矜持が許さなかった。
パーツを一つ一つ、あらゆる角度から検証し、組み合わせの可能性を試す。それはまるで、難解な剣の型を解きほぐし、相手の太刀筋を読み切る作業にも似ていた。
そして、数日後、ついに最後の一つのパーツが、カチリと音を立てて収まった時、小平太は、これまで感じたことのないような、静かで、しかし深い達成感に包まれた。
それは、試合で強敵を打ち破った時の高揚感とはまた違う、内なる何かが満たされるような感覚だった。
(…これが…組長の言っていた精神修養か…?確かに、何かが…少しだけ、見えたような気がする…)
完成したカピバラは、相変わらず間の抜けた顔をしていたが、小平太の目には、それが何やら奥深い知恵を秘めた賢者のようにも見えた。
彼は、そのカピバラを、そっと店の帳場の隅に飾った。それは、彼にとって、江戸での新たな試練と、そしてささやかな勝利の証となったのである。
第二部:江戸のいろは、呉服問屋の旦那の知恵
「相馬屋」の商いにも、少しずつ変化が現れ始めていた。謙信の奇抜なアイデアと、権左衛門の現実的な手綱捌き、そして若いスタッフたちのひたむきな努力が、少しずつではあるが、江戸の町に認知され始めていたのだ。
特に、国元から送られてくる相馬藩の地酒は、辛口を好む江戸っ子の間で評判を呼び、固定客もつき始めていた。
そんなある日、小平太は、権左衛門から「結城、お前、少しは算盤もできるようにならんといかんな。いつまでも剣術だけでは、この江戸では食っていけんぞ」と、帳簿付けの手伝いを命じられた。
小平太は、数字や計算が大の苦手であったが、これも武士の務めと、四苦八苦しながら算盤と格闘し始めた。
そこへ、一人の恰幅の良い、いかにもやり手といった風体の初老の男が店に入ってきた。
江戸でも指折りの呉服問屋の旦那、伊勢屋嘉兵衛と名乗ったその男は、権左衛門とは古い付き合いらしく、世間話に花を咲かせ始めた。
小平太は、帳簿の数字に頭を抱えながらも、二人の会話に耳を傾ける。
嘉兵衛の語る江戸の商いの厳しさ、変化の速さ、そして何よりも、客の心を読むことの重要性は、小平太にとって、これまで聞いたこともないような話ばかりであった。
「権左衛門さんも、大変ですなあ。あんな破天荒な若旦那(謙信のことである)の下で店を切り盛りするなんざ、並大抵の苦労じゃないでしょう。しかしねえ、江戸の商いってのは、いつだって新しいもの、面白いものを求めてるもんです。型にはまったやり方だけじゃ、あっという間に客に飽きられちまいますからねえ」
嘉兵衛は、茶をすすりながら、鷹揚に笑う。
「伊勢屋の旦那にそう言っていただけると、少しは気が楽になりますわ。しかし、あの栗田のやり方は、あまりにも…あまりにも常識を逸しておりますからなあ…」権左衛門は、いつものように深いため息をつく。
「まあまあ。ですがね、あの若旦那には、何かこう…人を惹きつける、不思議な魅力がある。それに、何よりも『客を喜ばせたい』という気持ちが、本物だ。そこが一番大事なんでさ。例えば、うちの店でもね、番頭が番頭が、と新しい反物を仕入れても、ただ品物を並べてるだけじゃ、客は振り向きもしません。その反物が、どんな職人の手で、どんな想いで織られたのか、それを着ることで、お客さんの暮らしがどう豊かになるのか、そういう『物語』を語って聞かせて、初めて客の心が動くんでさ。剣術の駆け引きも、商いの駆け引きも、結局は人の心を読むこと。そこは同じじゃありませんかねえ、結城の若いの?」
突然話を振られ、小平太は「は、はっ!」と、慌てて背筋を伸ばした。
(人の心を読む…物語を語る…か。剣の道とは、なんと違うことか…いや、あるいは…)
小平太の心に、何かが微かに引っかかった。
それは、まだ言葉にはできない、曖昧な感覚であったが、彼の武士としての価値観を、少しだけ揺るがすものであった。
その日、小平太は、嘉兵衛から、江戸の商人のしたたかさ、そしてその奥にある客への真摯な想いの一端を垣間見たような気がした。
算盤の珠は、相変わらず思うように動かせなかったが、彼の心の中の「何か」は、確かに動き始めていた。
第三部:子供たちが見た武士の背中と、カピバラの行方
「相馬屋」の裏の路地は、日がな一日、近所の子供たちの遊び場となっていた。
小平太が、店の裏手で木刀の素振りや型の稽古をしていると、子供たちは、物陰からこっそりと、あるいは興味津々といった顔で、その様子を眺めているのが常であった。
小平太は、子供たちの視線に気づきながらも、特に気にするでもなく、黙々と稽古に打ち込んでいた。
ある日のこと、稽古を終えた小平太が、汗を拭いながら店に戻ろうとすると、一人の小さな男の子が、おずおずと声をかけてきた。
「お侍さん…あの…今の、なあに?」
「む?これは…剣術の稽古だが…」
「かっこいー!」男の子は、目をキラキラと輝かせている。
そこへ、他の子供たちも、わらわらと集まってきた。
「ねえ、お侍さん、もっと見せて!」「僕にも教えて!」
小平太は、子供たちの純粋な好奇心と、真っ直ぐな眼差しに、少し戸惑った。
彼は、これまで剣術を誰かに教えるなど、考えたこともなかった。剣は、人を斬るための技。子供たちに軽々しく見せるべきものではない、と。
しかし、子供たちの「教えて!教えて!」という無邪気な声に押され、そしてふと、謙信組長の「お客様(この場合は子供たちだが)の期待に応えるのがサービスマンの務めですぞ!」という、いつもの暑苦しい声が脳裏をよぎり、小平太は、おもむろに木刀を構え、基本的な素振りや、簡単な型をいくつか、ゆっくりと、そして丁寧に演じて見せた。
子供たちは、食い入るようにその動きを見つめ、終わると、「わー!すごい!」「お侍さん、強い!」と、割れんばかりの歓声を上げた。その、何の屈託もない、心からの称賛の言葉は、小平太の胸を、これまで感じたことのない温かいもので満たした。
「お侍さん、ありがとう!僕も、お侍さんみたいに強くなりたい!」
最初に声をかけてきた男の子が、キラキラした目でそう言った。
(強くなりたい、か…)
小平太は、その言葉を胸の中で反芻した。自分は、一体何のために強くなろうとしてきたのだろうか。
藩のため、主君のため、そして武士としての名誉のため…それらは確かに大切なことだ。しかし、今、目の前にいるこの子供たちの、純粋な憧れの眼差しは、彼に何か別の、もっと根源的な「強さ」の意味を問いかけているようにも思えた。
その日以来、小平太は、稽古の合間に、時折、子供たちに簡単な剣術の手ほどきをするようになった。
もちろん、人を傷つけるための技ではなく、心身を鍛え、礼儀を学ぶための「道」として。子供たちは、小平太のことを「小平太先生!」と呼び、目を輝かせて彼の教えに聞き入った。
その姿は、小平太にとって、江戸での新たな、そしてささやかなやりがいとなりつつあった。
そんなある日、店の帳場の隅に飾ってあった、あの「カピバラ」の組木パズルが、いつの間にか無くなっていることに小平太は気づいた。
「お駒殿!新兵衛殿!例の『かぴ殿』を知らぬか!?」
小平太が血相を変えて尋ねると、お駒ちゃんがけろりとした顔で言った。
「ああ、カピバラさんなら、さっき、お花ちゃん(新兵衛が助けた三毛猫の飼い主の女の子)が来てねえ、『うちのタマ(猫)が、このカピバラさんとっても気に入っちゃって、いつもこれで遊んでるの。でも、一つしかないから、タマが寂しがってるみたいなの。もしよかったら、もう一つ譲ってくれないかしら?』なんて言うからさ。どうせ誰も買わないだろうし、あたしの独断で、お花ちゃんにあげちゃったよ。代金は、お花ちゃんが今度、お手製のお団子持ってきてくれるってさ」
「な、何だと!?あれは、組長から預かった、大事な…大事な精神修養の…!」
小平太は愕然としたが、お駒ちゃんは「いいじゃないか、カピバラさんだって、薄暗い店の隅で埃かぶってるより、可愛い女の子と猫ちゃんに遊んでもらった方が幸せだって!」と、どこ吹く風。
数日後、お花ちゃんが、約束通り、母親と一緒に、ほかほかの湯気が立つ、手作りのお団子を持って「相馬屋」を訪れた。
「小平太先生、この間はありがとうございました!タマも、新しいカピバラさんが来て、とっても喜んでいます!これ、お母さんと一緒に作りました。どうぞ召し上がってください!」
お花ちゃんの、太陽のような笑顔と、その手に持たれた、少し不格好だが心のこもったお団子を前に、小平太は、もはや何も言うことができなかった。ただ、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じるだけだった。
(…まあ、カピバラ殿も、本望であろう…)
小平太は、そっと心の中で呟き、そのお団子を、ありがたく頂戴した。それは、これまでに食べたどんなご馳走よりも、美味しく感じられた。
第四部:江戸の夕暮れ、武士の魂いまだ健在なれど、心に芽生えしもの
江戸での日々は、小平太にとって、まさに万華鏡のように、目まぐるしく、そして刺激に満ちていた。剣術一筋だった彼の価値観は、多様な人々との出会いや、武士の世界とは全く異なる文化に触れる中で、少しずつ、しかし確実に変化し、豊かになっていった。
相変わらず、「相馬屋」での接客は苦手で、時折、武士としての融通の利かなさから、珍騒動を引き起こすこともあった。
例えば、商品の陳列方法について、謙信組長から「もっとお客様の購買意欲を刺激する、戦略的なディスプレイを!」と指示された際、小平太は、兵法における陣形の知識を応用し、「魚鱗の陣」や「鶴翼の陣」と称して、相馬焼の湯呑みや徳利を、何やら恐ろしげな、しかし全く売れそうにない配置にしてしまい、権左衛門副店長から「馬鹿者!ここは戦場ではない!ただの店だ!そんな殺気立った陳列で、誰が物を買うというのだ!」と、こっぴどく叱られたりもした。
しかし、そんな失敗や戸惑いの中でも、小平太は、何か新しいことを学び、そして自分自身が少しずつ変わっていくのを感じていた。
それは、剣の腕が上がることとはまた違う、人としての成長であったのかもしれない。
ある夕暮れ時、小平太は、店の片付けを終え、一人、日本橋の欄干に寄りかかり、江戸の町を行き交う無数の人々を眺めていた。
その雑踏の中には、様々な身分、様々な職業、そして様々な夢や悩みを抱えた人々がいるのだろう。その一人ひとりに、それぞれの人生があり、それぞれの戦いがある。武士として、剣の道で名を成すことだけが、果たして唯一の生きる道なのだろうか。
(栗田組長の言う『お客様は神様です』という言葉…最初は、武士の矜持にもとる、ただの戯言としか思えなかった。だが…あの人の、常軌を逸した行動力の源泉は、あるいは、本当にただ純粋に、誰かの笑顔が見たい、誰かの役に立ちたいという、その一点にあるのかもしれん…それは、剣の道とは全く異なるが、しかし、同じくらいに尊い『道』なのかもしれない…)
小平太の心の中に、そんな思いが、静かに芽生え始めていた。それは、まだ小さな、か細い芽かもしれない。
しかし、江戸の豊かな土壌と、そこで出会った人々との温かい交流の中で、いつかきっと、大きな、そして美しい花を咲かせることになるのかもしれない。
懐には、先日、寺子屋の子供たちから、お礼だと言って貰った、拙い文字で「小平太先生、ありがとう」と書かれた、小さな木の札が入っていた。それは、どんな名刀よりも、今の小平太にとっては、温かく、そして誇らしい宝物であった。
江戸の空は、今日もまた、美しく、そしてどこまでも広く、小平太の、まだ見ぬ未来を照らし出しているかのようであった。
武士としての魂は、いまだ彼の胸の内に燃え続けている。しかし、その魂は、江戸での経験を通じて、より深く、より豊かに、そしてより優しく、変わり始めていた。
(結城小平太、剣と算盤とカピバラと ~江戸修行日誌・武士の魂どこへ行く~ これにて一旦、幕)
かっこいい男です。
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