幕間3:新兵衛、江戸の空に故郷を想う ~お春ちゃんと文と、時々足軽魂~
序章:江戸の朝と、相馬屋の匂い
鶏の声が遠くに聞こえる薄暗がりの中、田中新兵衛は、江戸日本橋裏の安普請の長屋の一室で目を覚ました。相馬中村藩の江戸アンテナショップ「相馬屋」の店員として江戸に来て、早や数ヶ月。故郷とはあまりにも違う、人の多さと喧騒にはいまだに慣れないが、店の開店準備のために早起きする生活には、ようやく体が馴染んできた。
(今日も一日、がんばっぺ…)
新兵衛は、相馬訛りを心の中で呟き、そっと布団を出た。隣の部屋では、同僚であり、剣術の兄弟子でもある結城小平太が、すでに身支度を整え、庭先で木刀の素振りを始めている音が聞こえる。小平太は、江戸に来てからも剣の道を究めんと、寸暇を惜しんで鍛錬に励んでいるのだ。
(小平太殿は、本当に真面目なお方だ…それに引き換え俺は…)
新兵衛は、故郷に残してきた想い人、団子屋の看板娘・お春ちゃんのことを思い出さずにはいられなかった。江戸という大都会で、武士の自分が商人のような仕事をしていること、そして、お春ちゃんにまだ何も成し遂げた姿を見せられていないことへの焦りが、時折、胸をチクリと刺す。
身支度を整え、長屋を出ると、朝靄のかかる江戸の町が広がっていた。威勢の良い魚売りの声、豆腐屋のラッパの音、そしてどこからか漂ってくる美味そうな朝餉の匂い。全てが故郷とは違う、しかし、どこか心を浮き立たせる活気に満ちている。
「相馬屋」に着くと、すでに江戸っ子町娘のお駒ちゃんが、威勢良く店の掃除を始めていた。
「おっす、新兵衛さん!今日も精が出るねえ!昨日の夜、またお春ちゃんへの手紙でも書いて夜更かししたんじゃないのかい?」
「な、ななな、何を言うか、お駒殿!そ、そのようなことは断じて…!」
顔を真っ赤にして狼狽する新兵衛を、お駒ちゃんはケラケラと笑い飛ばす。この江戸っ子娘の、カラッとした明るさと歯に衣着せぬ物言いは、時折新兵衛を困らせもするが、同時に、この慣れない江戸での生活において、大きな心の支えにもなっていた。
やがて、副店長(という名の、一番の苦労人)である岩田権左衛門も、眠そうな目をこすりながらやってくる。「栗田の奴は、また徹夜で何か妙な企画書でも書いておるのか…全く、人の気も知らんで…」と、いつものようにぼやきながら。
そして開店時間。店の表には、まだ客の姿はまばらだが、新兵衛は、栗田謙信店長から叩き込まれた「お客様は神様です!」の精神を胸に、今日も一日、精一杯努めようと、そっと気合を入れるのだった。
第一部:お春ちゃんへの手紙と、お駒ちゃんの江戸っ子指南
「相馬屋」での仕事の合間を縫っては、新兵衛はお春ちゃんへの手紙を書くのが日課となっていた。故郷の風景、江戸での驚き、そして何よりもお春ちゃんへの募る想い。しかし、武骨な新兵衛にとって、想いを言葉にするのは至難の業であった。
(うーん…「お春殿、お元気ですか。江戸は今日も人でいっぱいです。相馬屋の仕事は大変ですが、頑張っています」…これでは、まるで業務報告ではないか…)
筆が止まり、うんうんと唸っている新兵衛の姿を見かねて、お駒ちゃんが声をかけてきた。
「新兵衛さん、また恋文かい?あんたも隅に置けないねえ。どれ、江戸っ子のお駒様が、いなせな恋文の書き方ってもんを、ちょいと教えてやろうじゃないか!」
「え、いや、お駒殿にそのようなことを頼むなど…」
「遠慮はいらないってことよ!まずさ、時候の挨拶なんざ堅苦しいのは抜き!いきなりドカンと、相手のハートを鷲掴みにするような、熱い言葉をぶつけるのさ!例えば、『お春ちゃんよ!江戸の空見てえに、あっしの心もおめえのことで一杯だ!』みてえにな!」
「そ、それはあまりにも…その…大胆すぎるのでは…」
「何言ってんだい!江戸の恋は、待ったなしのスピード勝負なんだよ!それに、女の子ってのはさ、少しくらい強引な方がキュンとくるもんなのさ。それから、ただ『好きだ』『会いたい』だけじゃ芸がない。江戸の流行りもんの話とか、面白い店の噂なんかをちょいと混ぜて、お春ちゃんが江戸に来たくなるように仕向けるのさ!『今度江戸に来たら、浅草で一緒に雷おこしでも食べねえかい?』なんて誘ってみな!きっとイチコロだよ!」
お駒ちゃんの、あまりにも江戸っ子らしい、積極的で、そして少々強引なアドバイスに、新兵衛は目を白黒させるばかりであったが、その言葉の端々には、新兵衛の恋を応援しようという、温かい気持ちが感じられた。
(なるほど…江戸の恋とは、そういうものなのか…少し、参考にさせてもらおうか…)
新兵衛は、お駒ちゃんに礼を言うと、少しだけ肩の力が抜けたような気持ちで、再び筆を取った。謙信組長の熱血指導とはまた違う、江戸っ子お駒ちゃんの現実的(?)なアドバイスは、新兵衛の恋文に、新たな、そしてほんの少しだけ砕けた風を吹き込むことになるのかもしれない。
数日後、お春ちゃんから届いた返事には、「新兵衛様の、江戸の活気あふれるお手紙、いつも楽しく拝読しております。お駒様という、お強くて頼もしいお方がお近くにいらっしゃるとのこと、少し安心いたしました。でも、あまり羽目を外しすぎて、江戸の悪いお方に騙されたりなさいませぬように…」と、どこか心配そうな、しかし温かい言葉が綴られていた。新兵衛は、その手紙を何度も読み返し、胸を熱くするのだった。
第二部:裏長屋の喧嘩と、足軽の意地
「相馬屋」での仕事にも少しずつ慣れてきたある日のこと。昼餉の休憩で、新兵衛が店の裏の路地で一息ついていると、近くの長屋の方から、何やら大きな怒鳴り声と、物が壊れるような派手な音が聞こえてきた。
(何事だろうか…?)
気になって様子を見に行くと、長屋の住人らしき男たちが、何やら言い争いをしており、今にも掴み合いになりそうな険悪な雰囲気であった。話の内容はよく聞き取れないが、どうやら些細なことから口論となり、それがこじれてしまったらしい。
江戸の喧嘩は日常茶飯事と聞く。下手に首を突っ込むべきではない、と頭では分かっていたが、新兵衛は、その剣幕に怯えて泣き出しそうになっている子供の姿を見て、思わず足が前に出てしまった。
「も、申し訳ございません!皆様、どうかお静まりくだされ!何かお困り事でもございましたか?」
新兵衛が、恐る恐る声をかけると、男たちは一斉に新兵衛を睨みつけた。
「あんだ、てめえは!関係ねえ奴はすっこんでろ!」
「田舎侍が、江戸の喧嘩に首突っ込むんじゃねえ!」
男たちの、威圧的な態度と鋭い眼光に、新兵衛は一瞬怯みそうになった。しかし、その時、彼の脳裏に、故郷相馬での武芸の稽古と、栗田組長から叩き込まれた「お客様(この場合は、困っている全ての人々)の笑顔のために!」という言葉が蘇った。
(そうだ、俺は武士のはしくれ…そして、目安方の一員でもあるのだ!こんな所で怖気づいてどうする!)
新兵衛は、ぐっと腹に力を込め、背筋を伸ばし、できるだけ落ち着いた、しかし凛とした声で言った。
「拙者は、相馬中村藩目安方配下、田中新兵衛と申す者。皆様が何故お争いになっておられるのか、その仔細は存じませぬが、どうか、まずはその手に持った得物(一人の男が、割れた壺のかけらを握りしめていた)を収め、冷静にお話し合いをなさっては如何か。話し合えば、必ずや分かり合える道もあるはず。それでも解決せぬというのであれば、この田中新兵衛、微力ながら、皆様のお力になれるやもしれませぬ」
新兵衛の、そのどこまでも真摯で、そしてどこか朴訥とした、しかし武士としての確かな矜持を感じさせる言葉と態度に、あれほどいきり立っていた男たちも、一瞬、言葉を失い、顔を見合わせた。
そして、最初に得物を握っていた男が、ふっと肩の力を抜き、バツが悪そうに割れた壺のかけらを地面に置いた。
「…へっ、ちげえねえや。こんなことで騒いで、ガキにまで泣かれちゃあ、江戸っ子の名折れだ。悪かったな、騒がせちまって」
他の男たちも、それに倣うように、それぞれに気まずそうな顔で頭を掻いている。
その後、新兵衛が間に入り、双方の言い分を丁寧に聞き、なだめすかした結果、あれほどまでにこじれていた喧嘩は、嘘のようにあっさりと収まった。
男たちは、最後には互いに頭を下げ合い、「悪かったな」「いや、こっちこそ」などと言いながら、それぞれの長屋へと帰っていった。泣いていた子供も、いつの間にか笑顔を取り戻していた。
(良かった…どうにかなったようだ…)
新兵衛は、ホッと胸を撫で下ろした。別に、大したことをしたわけではない。ただ、少しだけ勇気を出して、声をかけただけだ。しかし、それでも、誰かの役に立てたかもしれないという、ささやかな、しかし確かな満足感が、彼の胸を満たしていた。
その一部始終を、店の窓からこっそり見ていたお駒ちゃんが、後で新兵衛に言った。
「新兵衛さん、あんた、なかなかやるじゃないか!あのいかつい男たち相手に、一歩も引かなかったねえ。見直したよ!」
「い、いや、そんな…拙者はただ…」
照れながらも、新兵衛の顔には、ほんの少しだけ、自信の色が浮かんでいた。江戸の町で、足軽としての意地と、目安方としての人助けの精神を、ほんの少しだけ発揮できた、そんな出来事であった。
第三部:売れ残りの山と、権左衛門のため息
江戸の「相馬屋」の経営は、決して楽ではなかった。栗田組長が国元から次々と送りつけてくる、奇抜で、独創的で、そして時として全く理解不能な商品は、江戸の目利きたちの間で、時に話題となり、時に失笑を買い、そして多くの場合、店の隅で静かに埃をかぶる運命を辿った。
ある時期には、あまりの売れ行きの悪さに、店の土間が返品の山で埋め尽くされ、新兵衛たち店員は、その前でただただ途方に暮れるしかなかった。国元からは、勘定奉行・渋沢監物殿からの、血も凍るような厳しい叱責の手紙が、毎日のように矢のような速さで届けられ、副店長の権左衛門殿の胃痛は、もはや薬も効かない末期的な状態にまで悪化していた。
「…もう駄目だ…この店も、もはやこれまでか…栗田の奴は、国元で一体何を考えておるのだ…江戸の商いを、あまりにも甘く見すぎていたとしか思えん…」
権左衛門殿は、返品の山を見つめ、力なくうなだれていた。その姿は、新兵衛にとっても、見ていて辛いものであった。
(権左衛門先輩は、いつも口では厳しいことを仰るが、本当は誰よりもこの店のことを、そして栗田組長のことも心配しておられるのだ…俺に何かできることはないだろうか…)
そんな時、国元から、驚くべき知らせが届いた。相馬藩に「研修」という名目で滞在していた、お隣の白河藩のエリート藩士・立花左近様というお方が、この「相馬屋」の窮状を聞きつけ、なんと、返品された商品の山を、白河藩で試験的に販売してくれることになったというのだ。しかも、その対価は、後日、白河藩の特産品との物々交換でよいという、破格の条件であった。
「立花左近様…? 一体、どのようなお方なのだろう…」
新兵衛は、顔も知らぬそのお武家様の、あまりにも情け深い申し出に、ただただ驚き、そして心の底から感謝の念を抱いた。
(江戸では見向きもされなかった品々が、場所を変えれば、新たな価値を持つやもしれぬ…そして、それを取り持ってくださるお方がいるとは…人の縁とは、誠に不思議なものだ…)
この一件は、新兵衛にとって、商売の難しさだけでなく、人の情けの温かさ、そして「物」が持つ価値の多様性を、改めて深く考えさせられるきっかけとなった。
売れ残りの山は、数日後、白河藩へと引き取られていき、「相馬屋」には、再び、ほんの少しだけではあるが、希望の光が差し込んだような気がした。権左衛門殿のため息も、その日は、いつもよりほんの少しだけ、回数が少なかったように思う。
第四部:お春ちゃん、江戸見物!~団子と涙と夕焼けの誓い~
秋も深まったある日、新兵衛の元に、待ちに待った手紙が届いた。お春ちゃんからだった。そこには、「父上(大工の棟梁・源五郎)の江戸での仕事(江戸屋敷の改修工事の手伝い)に合わせ、私も初めて江戸へ参ります。もしご迷惑でなければ、新兵衛様に江戸の町を案内していただきたいのです」と、はにかむような文字で書かれていた。
「お、お春殿が…江戸に…!?」
新兵衛は、その手紙を三度読み返し、喜びのあまり、店の裏で思わず小さなガッツポーズをしてしまった。
数日後、日本橋のたもとで、新兵衛は、少し緊張した面持ちの、しかし旅装にもかかわらず、いつにも増して可憐なお春ちゃんと、相変わらず厳つい顔つきだが、どこか娘の江戸見物を楽しみにしているようにも見える源五郎の二人を出迎えた。
「し、新兵衛様…お久しゅうございます…本日は、よろしくお願いいたします…」
「お、お春殿…!こちらこそ…その…江戸へようこそお越しくださいました…!この新兵衛、誠心誠意、ご案内つかまつります!」
久しぶりの再会に、二人は顔を真っ赤にし、まともに言葉も交わせない。源五郎は、そんな二人を、腕を組みながらも、どこか温かい目で見守っていた。
新兵衛は、前もって、江戸の地理に詳しいお駒ちゃんに「江戸の娘さんが喜ぶような、とっておきの場所」をいくつか教えてもらっていた。お駒ちゃんからは、「浅草の観音様にお参りして、仲見世で人形焼でも買ってあげな!それから、上野の不忍池あたりをぶらぶら散歩するのも乙なもんじゃないかねえ。間違っても、目安方の旦那(謙信)が喜びそうな、妙ちきりんな見世物小屋なんかには連れて行くんじゃないよ!」と、実に的確なアドバイスを受けていた。
新兵衛は、お駒ちゃんの助言通り、まずはお春ちゃんと源五郎を浅草寺へと案内した。雷門の大きさに驚き、仲見世の賑わいに目を輝かせるお春ちゃん。
新兵衛は、そんなお春ちゃんの姿を、誇らしいような、そして少し照れくさいような気持ちで見守った。本堂でお参りを済ませ、焼きたての人形焼を三人で頬張る。その素朴な甘さが、江戸の風情を感じさせた。
その後、一行は上野の山へと足を延ばした。広大な不忍池の蓮の葉が風に揺れる様は、故郷相馬の自然とはまた違う、落ち着いた美しさがあった。
「江戸は…本当に広くて、賑やかで…そして、美しいところでございますね」
お春ちゃんは、池のほとりに佇み、感嘆の声を漏らす。
「お春殿…もし、お気に召したのであれば…またいつか、今度はゆっくりと…」
新兵衛が、勇気を振り絞ってそう言いかけると、お春ちゃんは、ふふっと微笑み、「はい、ぜひ。その時は、新兵衛様に、もっとたくさん、江戸の素敵な場所を教えていただきたいです」と、顔をほんのり赤らめて答えた。
夕刻、源五郎が江戸屋敷での仕事の打ち合わせがあるとのことで先に宿へ戻り、新兵衛とお春ちゃんは、二人きりで隅田川のほとりを歩いていた。夕焼けが江戸の町を茜色に染め、川面をキラキラと照らしている。
「新兵衛様…今日一日本当にありがとうございました。江戸の町も、そして…何よりも、新兵衛様がご案内してくださったことが、とても嬉しゅうございました」
「お春殿…拙者の方こそ…お春殿と共に江戸の町を歩けたこと、夢のようでござった。拙者、この江戸で、いつか必ず一人前の男となり、そして…」
新兵衛が、意を決して何かを言い募ろうとした、その時だった。懐から、ポロリと何かが落ちた。それは、謙信組長が国元から「お春殿への江戸土産に!」と、無理やり持たせてよこした、例のカピバラの組木パズルであった。
「あ…これは…その…目安方筆頭からの預かりもので…」拾い上げようとする新兵衛。
それを見たお春ちゃんは、最初は「まあ、これは何というおかしな獣の形なのでございましょう?」と首を傾げていたが、新兵衛から、これが江戸の「相馬屋」で(ごく一部の好事家に)人気が出始めている、相馬藩の新しい特産品だと聞かされると、愛おしそうにそのパズルを手に取り、
「新兵衛様は、この江戸で、新しいものを作り出し、人々に喜んでいただくという、とても大切なお仕事をしておられるのですね。大変なことも多いと存じますが、どうかお体にお気をつけて、お励みくださいませ。私も、故郷で、新兵衛様のご活躍を、心より応援申し上げております」
と、どこまでも優しい、そして力強い眼差しで新兵衛を見つめた。
(お春殿…!あなたは、なんて…なんて素晴らしいお方なんだ…!)
新兵衛は、お春ちゃんの、そのどこまでも温かく、そして自分を信じてくれる言葉に、胸がいっぱいになり、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。そして、固く、固く誓ったのだ。
(必ず、この江戸で一人前の男になり、そしていつの日か、胸を張ってお春殿を迎えに行こう。そして、あの店の団子を、毎日、腹一杯食べるのだ!)と。
夕焼け空の下、新兵衛とお春ちゃんの小さな手は、いつの間にか、固く、そして優しく握り合わされていた。その上を、江戸の川風が、まるで二人を祝福するかのように、そっと吹き抜けていった。
終章:夕焼け小焼けの約束と、明日への希望
お春ちゃんと源五郎が相馬へ帰って数日後。新兵衛は、相変わらず「相馬屋」で、ぎこちないながらも、以前よりほんの少しだけ自信のついた接客を続けていた。栗田組長が時折国元から送ってくる、奇抜な経営戦略や新商品アイデアの指示書に頭を悩ませ、権左衛門副店長の胃痛の種を増やし(てしまい)、結城小平太と店の裏で剣術の稽古に汗を流し、お駒ちゃんと江戸の流行や店の噂話に花を咲かせる。そんな、騒がしくも充実した江戸での日々。
武士としての道、商人としての道、その狭間で悩み、葛藤することもまだ多い。故郷相馬への想い、そしてお春ちゃんへの募る恋心。
しかし、今の新兵衛の心には、以前のようなただ漠然とした不安や焦りだけではなく、この大都会江戸で、自分の力で何かを成し遂げたいという、確かな希望と、そしてささやかな、しかし確実な自信が芽生え始めていた。
(俺は、まだ半人前の足軽で、半人前の商人かもしれない。でも、ここで出会ったたくさんの人たち、そして何よりも、お春殿との、あの夕焼けの約束が、俺に勇気をくれるんだ。いつかきっと、胸を張って故郷に帰れるように、そして、お春ちゃんの店の団子を、世界で一番うまいって、大声で言えるように!)
ある日の閉店後、新兵衛は、店の片付けを終え、一人、日本橋のたもとに佇み、夕焼けに染まる江戸の空を、晴れやかな気持ちで眺めていた。その空は、どこまでも広く、そして美しく、まるで彼の、そして「相馬屋」の、無限の可能性に満ちた未来を暗示しているかのようであった。
懐には、お春ちゃんから届いたばかりの、拙いながらも心のこもった文字で書かれた手紙と、そしてあの日、隅田川のほとりで、お春ちゃんが、はにかみながらも、そっと握らせてくれた、小さな、手作りの紅い組紐のお守りが、確かな温もりと共に、大切にしまわれていた。
「よし…明日も、江戸の神様たちに、最高の笑顔とサービスを届けるぞ!」
新兵衛は、ぎゅっと拳を握りしめ、大きく深呼吸すると、希望に満ちた、軽やかな足取りで、騒がしくも愛すべき我が職場、「相馬屋」へと帰っていく。その若い背中を、江戸の優しい夕焼けが、いつまでも見守っているかのようであった。
(田中新兵衛、江戸の空に故郷を想う ~お春ちゃんと文と、時々足軽魂~ これにて一旦、幕)
青春ですね。
ブクマと評価を頂けると作者が喜びます。本当に喜びます。




