第十五話:高重力結界は絶好のサウナです
【フラグ粉砕同盟】が結成されてから数日。 王立騎士学園のサロンには、毎朝おかしな光景が広がっていた。
「アルティナ様! 今朝の絞りたて山羊乳と、特注の無添加赤身肉プロテインでございますわ!」
「感謝します、エレノア。タンパク質とアミノ酸の配合比率も完璧ですね」
見事な黄金の縦ロールを揺らしながら、まるで忠実な給仕のように特製プロテインシェイカーを差し出す公爵令嬢エレノア。 それを可憐な手つきで受け取り、一気に飲み干す銀髪の美少女アルティナ。
かつて学園を仕切る悪役令嬢として恐れられたエレノアは、いまや「アルティナ専属の栄養管理・作戦参謀」として、生き生きと(そして命がけで)立ち回っていた。
「して、エレノア。次の『イベント』とやらは何なのですか?」
アルティナがグラスを置き、静かに尋ねる。 エレノアは周囲に人がいないことを確かめると、コソコソと身を乗り出した。
「はいっ! 次の大きなイベントは、来週開催される『王立学園祭』ですわ!」
「学園祭……文化祭のようなものですか?」
「そうですわ! 各クラスの出店や舞踏会で賑わう華やかな行事……なのですが! 原作ゲームでは、ここで第三の攻略対象である【天才魔導師ジュリアン】が登場いたしますの!」
エレノアが真顔で羊皮紙のメモを広げた。
「このジュリアンという男、公爵家出身の天才魔導師で、頭脳明晰ですが極度の人間不信と皮肉屋ですの。そして奴の得意技は……空間を遮断する【重力拘束結界】ですわ!」
「重力……拘束結界?」
「そうです! 原作では、主人公を旧校舎の図書室に閉じ込め、高重力の結界で身動きを奪い、『動けないだろう、見下される気分はどうだ?』と屈辱を味わわせるという最悪の『くっころ寸前イベント』が発生するんですのよぉっ!」
エレノアが叫び、自分の縦ロールを握りしめた。 力で押し通せない「特殊な魔導結界」による拘束。 これこそが、いくら腕力があろうと乙女ゲームの主人公たちが抗えずに涙を流してきたお約束の罠であった。
しかし——。
「重力を操作して、身動きを封じる結界……」
アルティナの翡翠色の瞳が、キラリと妖しく輝いた。
「素晴らしい……! 自重の何倍もの負荷を全身の筋繊維に直接掛け続けられる空間ということですね!?」
「えっ……? あ、あの……拘束される、と言いましたのですが……」
「なんと効率的なトレーニング環境でしょう! 普段の重りだけでは刺激が届きにくいインナーマッスルまで、重力で均一に負荷を掛けられるとは……! ぜひそのジュリアンという方に、私を閉じ込めていただきたいですね!」
「怪物ですわぁぁぁッ!! 罠を自重トレーニングの施設扱いしないでくださいませッ!」
頭を抱えて絶叫するエレノア。 しかし、アルティナの脳内ではすでに「高重力下における自重スクワットのフォーム」の計算が開始されていたのだった。
* * *
そして迎えた、王立学園祭の当日。
敷地内は色鮮やかな装飾と出店で溢れ、生徒や外部の来賓たちで祭り一色の賑わいを見せていた。 そんな狂騒から離れた、静まり返る旧校舎の古い図書室。
本棚の陰で、薄い笑みを浮かべて佇む一人の青年がいた。 黒髪にメガネをかけ、紺色の魔導師用の長袍を纏った繊細な顔立ちの男——ジュリアン・フォン・ローゼンベルクである。
(フン……愚かな騎士どもめ。肉体を鍛えることしか脳のない単細胞どもが、群れて祭り騒ぎとは吐き気がする)
ジュリアンは手に持った魔導書を閉じ、冷たい眼光を光らせた。
(特に最近、噂になっている『銀髪の破壊神』アルティナ・シルフィード……。可憐な見た目で野蛮な暴力を振るう愚か者め。僕の誇る最高峰の重力結界で身動きを奪い、己の無力さを思い知らせてやるとしよう)
ジュリアンが指先を鳴らすと、図書室全体に不気味な紫色の魔法陣が浮かび上がった。 空間が歪み、通常の【十倍の重力】が部屋全体を押し潰す、絶対不可避の拘束結界『重圧の牢獄』が完成する。
そこへ、何も知らずに静かな足取りでドアを開けて入ってきたのは、銀髪の美少女アルティナだった。
「やあ、野蛮な騎士様。ようこそ僕の実験室へ」
ジュリアンは勝利を確信し、冷酷な笑みを浮かべて本棚の上から見下ろした。
「そこは通常の十倍の重力がかかる特殊結界だ。指一本動かすことすらできまい? さあ、地面に這いつくばり、僕に『助けてください』と見下されながら乞うがいい——」
ジュリアンの勝利の宣言。 本来なら、少女が重圧に押し潰され、呼吸を乱して絶望に涙を浮かべる場面。
しかし。
「……ほう」
アルティナは、重力結界の真ん中で立ち止まると、深く静かな呼吸を吐いた。
「自重の十倍……。制服の重り二百キロと合わせると、全身にかかる合計負荷は、およそ二トン……!」
アルティナの白磁の肌に、うっすらと赤みが差し、翡翠色の瞳が熱く歓喜に揺れた。
「素晴らしい……! 素晴らしい負荷ですわ、ジュリアン様! 大腿四頭筋と脊柱起立筋が、喜びで悲鳴をあげています!」
「……は?」
ジュリアンの顔から、一瞬で冷酷な笑みが消え去った。
指一本動かせないはずの十倍重力空間の中で—— アルティナは、ゆっくりと膝を折り、完璧なフォームで腰を落とし始めた。
「ハッ……! フッ……! セイッ……!」
ズシン! ズシン! と十倍の重力空間を逆手にとり、高速でスクワットを開始する銀髪の美少女。 一回屈伸するたびに、地面の石畳が重圧と脚力でバキバキと崩れ、同心円状の衝撃波が吹き荒れる。
「な……ななな、何を……何をしているんだ君はぁぁぁっ!?」
ジュリアンがメガネをずり下げて叫んだ。
「筋トレですが、何か?」
「筋トレぇぇぇっ!? ここは十倍の重力結界だぞ! 普通の人間なら内臓が潰れて骨が折れるんだぞ! なぜ笑顔でスクワットをしているんだぁぁっ!?」
「ふぅ……甘いですね、ジュリアン様。強い負荷ほど筋肉は成長するのです。さあ、遠慮なさらず十五倍……いえ、二十倍まで重力を引き上げてください!」
「狂っている……! この女、頭がおかしいのかぁぁぁッッ!?」
悲鳴をあげる天才魔導師。 アルティナの全身から解き放たれたエメラルドグリーンの魔力と筋肉の内圧が、ついに結界の許容量を超えた。
バリィィィィィンッッ!!!!
空間が割れるような乾いた音とともに、ジュリアンが誇る十倍重力結界が内側からの筋力で完全に破砕・霧散した。
「あ……あ……」
結界を壊され、床にへたり込むジュリアン。 アルティナはうっすらと汗をかいた額を細い手首で拭うと、天使のような晴れやかな笑顔でジュリアンへと近づき、小さくお辞儀をした。
「素晴らしいトレーニング施設をありがとうございました。お礼に、明日からは私の朝のランニング(重り付き)にご同行させて差し上げますね」
「ひっ……! た、助けて……助けてくれぇぇぇぇっ!!」
今度は天才魔導師の方が悲鳴をあげ、逃げ出していくのだった。
物陰からその光景を見ていたエレノアは、「知ってましたわ……」と遠い目をして呟くのであった。




