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第87章「“東雲巳波の握手会”⑶――3000人の列の中で、ただ一人だけ違う秒」


列はすでに中盤を越えていた。


1000人を超えたあたりから、会場の空気は「混乱」ではなく「適応」に変わっている。


誰も驚かない。

誰も止まらない。

ただ、決められた流れの中で人が進み、握手をして、また次へ消えていく。


それはもうイベントというより、一つの巨大な“循環装置”だった。



「次の方、どうぞ」


スタッフの声が一定のリズムで響く。


その声に合わせて、列が一歩ずつ進む。


200人目、300人目、500人目。


時間の感覚はすでに薄れていた。



その中で、空気の“質”だけが少しずつ変わり始める。


理由は単純だった。


列の終盤に近づくにつれ、スタッフの動きが一瞬だけ固まる瞬間が増えていたからだ。


「関係者枠です」


その一言で、流れがわずかに揺れる。



黒いジャケットの男が、列の後方からゆっくりと前へ進む。


無駄のない歩き方。


焦りも、緊張もない。


ただ“そこへ行くことが決まっている人間”の歩き方。



琉偉だった。



周囲の空気が、ほんの少しだけ変わる。


誰も気づいていないはずなのに、“気配だけが変わる”。



前の人が握手を終える。


手が離れる。


一歩前へ。



次は琉偉。



巳波が顔を上げる。


その瞬間、会場の音が一段だけ遠くなる。


3000人の中で、ここだけが切り取られたように静かになる。



「……来たんだ」


巳波が小さく言う。


琉偉は頷く。


「来ました」



たったそれだけ。


それなのに、周囲の“握手会のリズム”とは完全に別の時間が流れ始める。



琉偉は手を差し出す。


「普通に並びました」


巳波は少しだけ笑う。


「真面目すぎる」



手が触れる。


握手。


だが、その瞬間だけ“温度の密度”が違った。



数秒。


誰も止まっていないのに、この場所だけ時間が止まっているように感じる。



巳波が小さく言う。


「疲れてない?」


琉偉は即答する。


「疲れてないです」


少しだけ間を置いて続ける。


「でも、見てる側は疲れました」



巳波は吹き出す。


「なにそれ」



周囲では2000人以上の列が動いている。


それなのに、この会話だけが異常に静かだ。



琉偉は少しだけ声を落とす。


「3000人って、思ってたより重いですね」


巳波は頷く。


「うん。でも、もう半分以上来てるよ」


琉偉は首を振る。


「まだ半分も来てないです」



その言葉に巳波は少しだけ目を細める。


「ちゃんと見てるんだ」


琉偉は頷く。


「全部は見えてないです。でも、あなたは見えてます」



その一言で、巳波の表情がほんの少しだけ柔らかくなる。



「変なこと言うね」


「いつもです」



短い会話。


だが、何千人のどの握手よりも“近い”。



スタッフの声が入る。


「次の方お願いします!」



通常なら流れるはずのタイミング。


だが、琉偉はまだ手を離さない。



ほんの一瞬だけ、沈黙。



琉偉は言葉を選ぶようにして口を開く。


「ちゃんと、帰ってきますか?」



一拍。


空気が止まる。



巳波は少し驚いたような顔をして、それから笑う。


「どこに?」



琉偉は真っすぐに答える。


「ここに」



巳波の視線が一瞬だけ落ちる。


そして、小さく頷く。


「うん。帰るよ」



その一言は、3000人の中で唯一“約束”の形を持っていた。



巳波は手を握り直す。


少しだけ強く。


「ちゃんと見てて」



琉偉は即答する。


「見てます」



スタッフの声がもう一度響く。


「次の方!」



それでも、二人はすぐには離れない。


ほんの一秒。


その一秒だけが異様に長い。



そして――


ゆっくりと手が離れる。



琉偉は一歩下がる。


巳波は小さく笑っている。


「行ってらっしゃい」


琉偉は頷く。


「行ってきます」



それだけ。


それだけなのに。



3000人の流れの中で、そこだけが明らかに“別の意味”を持っていた。



列は何事もなかったように進む。


システムのように。


止まらないまま。



だが巳波の手には、まだわずかに温度が残っている。


それが、この瞬間が“現実だった証拠”だった。



琉偉は列の外へ戻る。


振り返らない。


それでも心の中では、確かに一つだけ確認していた。



「見えてる」



3000人の握手会は、まだ終わらない。


だがこの一瞬だけは、確かに“例外”として記録されていた。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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