第85章「“東雲巳波の握手会”⑴――3000人の朝、最初の一秒」
朝は、異様なほど静かだった。
昨日の夜まで張り詰めていた空気が、まるで一度だけ息を吐いたあとに凍りついたように、ホテル全体がしんと沈んでいる。
カーテンの隙間から差し込む光は白く、まだ人の気配を完全には起こしきれていない。
その光の中で、時間だけがゆっくりと動いていた。
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巳波はすでに起きていた。
鏡の前に立ち、髪を整えている。
メイク前の顔には、昨夜とは違う“覚悟の静けさ”があった。
指先は落ち着いているのに、どこか一つ一つの動作が丁寧すぎる。
今日が“ただの仕事”ではないことを、本人だけが正確に理解している動きだった。
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コンコン。
扉がノックされる。
「入ります」
琉偉の声。
ドアが開く。
朝の光と一緒に、彼が部屋へ入ってくる。
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琉偉はスーツでもなく、普段着でもなく、少しだけ整えた格好だった。
それだけで「今日は行く側の人間」だと分かる。
手には何も持っていない。
ただ、まっすぐ巳波を見る。
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一瞬、言葉が止まる。
だが気まずさではない。
むしろ“必要な間”だった。
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琉偉が静かに言う。
「今日、行きますね」
巳波は鏡越しに一度だけ視線を合わせる。
「うん」
短い。
でも十分な返事。
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琉偉は少しだけ息を吸う。
そして続ける。
「……3000人、かなり多いですね」
巳波は軽く笑う。
「数字だけ見るとね」
「でも、実際は一人ずつだから」
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その言い方は、どこか冷静だった。
むしろ“現場を知っている人間”の言葉だった。
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琉偉は少しだけ近づく。
「無理しないでください」
その声は、いつもより少し低い。
巳波は振り返る。
「無理しないで終わる仕事じゃないよ、今日は」
少し冗談のように言ってから、続ける。
「でも大丈夫」
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その“でも大丈夫”が、妙に落ち着いていた。
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琉偉はその言葉を聞いて、数秒だけ黙る。
そして一歩だけ距離を詰める。
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朝の光が二人の間に細い線を作る。
その線を越えるかどうかの距離。
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琉偉が静かに言う。
「頑張って来て下さい」
少しだけ言い直す。
「……行ってきてください、でいいのか」
自分で小さく苦笑する。
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巳波も小さく笑う。
「どっちでもいいよ」
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その一言のあと。
空気が一瞬だけ止まる。
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琉偉は、迷わず距離を詰めた。
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唇が重なる。
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濃厚だが、長すぎない。
昨日のような熱ではない。
今日という現実を“固定するためのキス”だった。
朝の冷たさの中に、確かな温度だけが残る。
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数秒後、離れる。
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琉偉は小さく息を吐く。
そして、静かに言う。
「あと……俺も居ますから」
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巳波はその言葉を聞いて、少しだけ目を細める。
「うん」
「分かってる」
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その“分かってる”は、信頼そのものだった。
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琉偉は少しだけ視線を落とす。
それから言葉を続ける。
「どれだけ人がいても、流されないでください」
巳波は鏡の前に戻りながら答える。
「流されるタイプじゃないよ」
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即答。
だが柔らかい。
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外では、もうスタッフの声が増えている。
廊下の足音が、少しずつ密度を上げていく。
3000人という数字が、“現実の音”に変わり始めていた。
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琉偉は扉の方へ歩きながら、もう一度だけ振り返る。
巳波は鏡の前で髪を整えている。
だが、その背中はすでに“ステージ側の人間”のそれだった。
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琉偉が言う。
「行ってきます」
巳波も答える。
「行ってきます」
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同じ言葉。
でも意味は違う。
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扉が閉まる。
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静寂。
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巳波は一度だけ深く息を吸う。
鏡の中の自分を見て、小さく頷く。
「よし」
それだけ。
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廊下の向こうでは、すでに3000人の朝が動き始めていた。
今日という一日は、もう“始まっている”。
そして次の瞬間――
最初の一人が、会場に足を踏み入れる。
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