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第81章「握手会前夜――“3000人の熱量”と静かすぎる夜」


夜の街は、いつも通りに落ち着いていた。


車の音も、人の気配も、遠くでぼんやりと流れているだけで、この家の中だけがまるで時間から切り離されたように静かだった。


明日は握手会本番。


応募者数はすでに数万人規模に膨れ上がり、その中から選ばれた“3000人”がこの場所に集まる。


その数字の重さとは裏腹に、今この瞬間の部屋には、ただの夜の静けさしか存在していなかった。



巳波はリビングの明かりを少し落とし、ソファの背に軽く体を預けていた。


スマホには、マネージャーからの最終確認メッセージが並んでいる。


タイムスケジュール。

導線確認。

スタッフ配置。

警備計画。


明日の“現実”を形作る文字列。


それを一通り見終えたあと、巳波は小さく息を吐いた。


「……いよいよだね」


その声は、緊張というよりも、どこか静かな納得に近い。



少し遅れて、琉偉が部屋に入ってくる。


手には大学の資料とスマホ。


明日からの授業スケジュールも、すでに頭の中で整理されているような動きだった。


「明日、かなり人来ますね」


淡々とした声。


現実をただの“情報”として扱っているような落ち着き方だった。


巳波はそれを見て、少しだけ笑う。


「うん。ちょっとだけね」


「ちょっとじゃないですけど」


琉偉の即答に、巳波は肩を揺らして笑った。



部屋の空気は静かだ。


だが、その静けさの奥には、確実に“明日の重さ”が沈んでいる。


3000人。


一人一人が持つ期待と熱量。


それが一斉に同じ空間に集まる。


そのことを想像した瞬間、普通なら少しだけ呼吸が変わるはずだった。


でも巳波は変わらない。


ただ、琉偉の方を見ている。



「ねえ」


「はい」


「明日、ずっとそばにいる?」


その問いは軽く投げられたようでいて、少しだけ深いところに落ちていく。


琉偉は一瞬だけ間を置く。


そして頷く。


「います」


それだけ。



その返事を聞いた瞬間、巳波は立ち上がる。


何も言わず、距離を詰める。


照明の下で、影が重なる。


次の瞬間――


唇が触れた。



静かな夜に似合わないほど、はっきりとした熱。


それでも音はほとんどない。


ただ呼吸だけが近くなる。



一度離れたあと、巳波は小さく息を吐く。


「……安心した」


その一言には、明日のための不安と、今この瞬間の確信が同時に混ざっていた。


琉偉は何も言わない。


ただもう一度、距離を詰める。


今度は少し長く、確かめるように。



静かなキス。


だが、確実に温度がある。


外では何も起きていない夜なのに、この部屋の中だけは確かに“明日へ続く準備”が進んでいた。



やがて唇が離れる。


巳波は少しだけ目を細める。


「明日、ちゃんと見ててね」


琉偉は短く答える。


「見てます」



それだけで十分だった。



時計の針は静かに進んでいく。


3000人の熱量は、まだ遠い世界の話。


でも、その入口はすでに開いている。


そしてこの夜は――その直前の、異様なほど静かな“境界線”だった。 



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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