第101章「金曜日の夜――“いつもの日常”と一時間だけの特別な雑談配信」
握手会が終わってから数日が過ぎた。
あれほど大きな熱量に包まれていた数日間も、時間が経てば少しずつ日常の中へと溶け込んでいく。
琉偉はいつも通り大学へ通っていた。
朝、電車に乗り、講義を受け、友人と何気ない会話を交わし、課題をこなす。
一見すれば、何も変わっていない普通の大学生活。
だが、帰る家には巳波がいる。
その事実だけは、以前とは決定的に違っていた。
⸻
金曜日。
昼休み。
琉偉は学食で昼食を取ったあと、次の講義までの時間を利用して中庭のベンチに座っていた。
秋が近づき始めた風が、木々を揺らしている。
そんな時だった。
スマートフォンが震える。
画面を見る。
『巳波』
その名前を見ただけで、自然と表情が柔らかくなる。
「もしもし」
『もしもし、琉偉?』
「はい」
『今日、夜に少しだけ配信しようと思うんだけど』
「配信ですか?」
『うん。軽い雑談配信』
巳波の声はどこか楽しそうだった。
『よかったら、また声だけ出てくれない?』
琉偉は少しだけ考え、それから答える。
「もちろんです」
『ほんと?』
「はい。大丈夫です」
電話の向こうで、巳波が小さく笑った。
『ありがとう。じゃあ夜よろしくね』
「はい。よろしくお願いします」
『授業頑張って』
「巳波さんも仕事頑張ってください」
『うん』
通話が切れる。
琉偉はスマートフォンをポケットへしまう。
空を見上げる。
金曜日の午後は、いつもより少しだけ早く終わってほしいと思った。
⸻
その日の夜。
戸塚駅近くにある二人の家。
夕食を終え、配信準備が始まっていた。
巳波は自分専用の配信用チェアに座る。
リングライト。
高性能ウェブカメラ。
コンデンサーマイク。
オーディオインターフェース。
配信用PC。
すべての機材がいつも通り整えられていく。
一方、琉偉は少し離れたソファに座っていた。
「そろそろ始まるね」
「はい」
配信開始まで残り数分。
カウントダウン画面が表示される。
巳波は椅子から立ち上がると、琉偉の前まで歩いてくる。
「今日もよろしくね」
「はい」
次の瞬間。
巳波は自然な動作で琉偉へ近づく。
静かな、しかし深いキス。
金曜日の夜が始まる合図のようなキスだった。
唇が離れる。
巳波は少し照れたように笑う。
「頑張る」
「見てます」
「うん」
⸻
夜二十時。
配信開始。
画面が切り替わる。
『東雲巳波 雑談配信』
「こんばんはー!」
コメント欄が一瞬で流れ始める。
【こんばんは!】
【待ってた!】
【金曜配信きた!】
【巳波ちゃんだ!】
【今日もかわいい!】
【雑談助かる!】
【一週間の癒やし!】
巳波は笑顔で手を振る。
「今日は一時間くらい雑談します」
【雑談最高】
【まったり回だ】
【声だけゲストいる?】
巳波は少し笑う。
「今日は、声だけで一人います」
ソファから琉偉の声。
「こんばんは」
【いたー!】
【ルーキーズさん!?】
【落ち着く声】
【また来てくれた!】
【イケボ助かる】
巳波はコメントを読みながら笑う。
「今日も顔出しは私だけです」
【了解!】
【声だけでも十分!】
⸻
雑談は穏やかに始まった。
【質問】
【好きな人とかいるんですか?】
巳波は少しだけ考える素振りを見せる。
「好きな人ですか?」
少し笑う。
「いますよ」
コメント欄が爆発する。
【ええええ!?】
【マジ!?】
【初公開!?】
【誰!?】
【詳しく!】
巳波は笑う。
「秘密です」
【秘密かー!】
【気になる!】
【絶対いると思ってた】
⸻
次の質問。
【いつからグラビアアイドルになったんですか?】
「高校卒業後ですね」
「最初は本当に軽い気持ちだったんです」
「でも撮影現場が楽しくて、気付いたら今まで続いてました」
【長いんだな】
【プロ意識高い】
【ずっと応援してます】
「ありがとうございます」
⸻
【結婚してるんですか?】
巳波は一瞬だけコメントを見つめる。
そして柔らかく笑った。
「ご想像にお任せします」
【それは怪しいw】
【否定しないw】
【いるなこれは】
【幸せならOK!】
⸻
さらに質問は続く。
【休日は何してますか?】
「家でゆっくりしてます」
「映画見たり、ゲームしたり」
「料理も好きですね」
【家庭的!】
【料理動画見たい!】
「そのうちやるかも」
⸻
【好きなラーメンは?】
「塩ラーメン」
【大食い配信思い出したw】
【伝説回w】
巳波は笑う。
「もうあれはしばらくやりません」
ソファから琉偉。
「たぶんまたやりますよ」
「えっ」
【ルーキーズさんw】
【裏切ったw】
【またやるのかw】
巳波は苦笑した。
「考えておきます」
⸻
【好きな男性のタイプは?】
巳波は少し考える。
「優しい人」
「一緒にいて落ち着く人かな」
【わかる】
【癒やし系か】
ソファから琉偉が小さく咳払いする。
巳波は笑う。
「どうしたの?」
「何でもないです」
【怪しいw】
【仲良すぎるw】
⸻
【最近嬉しかったことは?】
「うーん…」
巳波は少し考えてから答える。
「大切な人が笑ってくれたことです」
【尊い】
【良い話】
【幸せそう】
⸻
気付けば、一時間はあっという間だった。
時計を見る。
二十一時。
「そろそろ終わります」
【早い!】
【もう一時間!?】
【お疲れ様!】
【次回も楽しみ!】
【また来ます!】
巳波は笑顔で頭を下げる。
「今日もありがとうございました」
「また配信しますので、その時はよろしくお願いします」
「おやすみなさい」
配信終了。
画面が暗転する。
部屋に静寂が戻った。
⸻
「お疲れ様でした」
琉偉が立ち上がる。
巳波も椅子から立ち上がった。
次の瞬間。
琉偉は巳波を優しく抱き寄せる。
そして静かなキスをする。
長く、深い、お疲れ様の意味を込めたキスだった。
唇が離れる。
琉偉は真っ直ぐ巳波を見る。
「大好きです」
巳波は一瞬目を丸くする。
「……急だね」
「本当なので」
そう言って、琉偉はもう一度静かにキスをした。
巳波は少し顔を赤くしながらも、そのキスに応える。
「……ありがとう」
小さな声だった。
そして、照れ隠しをするように笑う。
「私も好きだよ」
金曜日の夜は、静かに更けていった。
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