一つの死
「マルガリティア、おれは今、安堵すら覚える。今日のおまえはいつになく神妙だったが、ようやく常の調子が戻ったようだ」
青年の眼窩の下には明らかな疲労があった。早朝には謂れなき攻撃を受けそれを防いだ。夕には敵地のただ中に乗り込み対手を屈服せしめた。夜には”森の民”と酒を酌み交わした。いかに無尽蔵の体力を誇るラケディアの戦士といえども負荷は限界に近い。
強烈な眠気を孕みながら、日の最後に至ってなお少女の下らない思いつきを聞かされる状況に彼はいささか厭いた。
——いつもの世迷い事は明日にしてくれ。
今にも口を衝いて出そうになる泣き言の類いを彼は意思の力でなんとかねじ伏せた。だが、その努力をマルガリティアは一顧だにしなかった。
「リュクルス。あの匂いは羊のものではありません」
「そうか。ではなんだ。猪か? 鹿か? 豚か? 匂いを嗅ぎ分けるとは、おまえはあの村で大層よい食事にありついていたようだ」
青年が皮肉を発することは滅多にない。仄めかしや当てこすりはラケディアの美徳ではない。常に直截にあること、明瞭であることこそがあるべき姿であった。
「あなたの言うとおり、私は村であの匂いを知りました。リュクルス。あなたが焼いてくれたんです」
酔いを含んで昏蒙の縁にある青年は気だるげな視線を女に投げる。
月光は女の顔を見事に照らした。青の間際まで白いその肌と、ほとんど銀とすら見える金の髪を。
「謎かけはやめろ」
「でも確信が持てません。——ゲルギウスさん、ゲルダさん。あれは何ですか? 森の民の皆さんはあれをよく食べるのですか?」
問われた兄妹はマルガリティアの真剣な口ぶりに困惑を隠せない。2人は無言で目を見合わせ、やがてゲルダが答えた。
「稀に。——あれは”恵み”。ごちそう」
女達の会話を横目に、リュクルスは一刻も早く小屋に入りたいと願った。藁の上にでも寝転がることができれば他に望みはない。いや、藁さえいらない。土の上であろうが構わない。
「明日にしてくれ。鳥であれ豚であれ、とにかく何でもいい。これほどに下らないことがあろうか。肉の出所を詮索するなど」
粗食を誇り不平を嫌うラケディア市民として至極真っ当な反応を彼は示した。
柔らかい子牛の肉を貪る”堕落都市”の市民達を麗しの都の戦士は心底軽蔑していた。”子牛のごとく柔いやつらが同族を食っている”と。
「あれは誰ですか?」
青年の言葉を無視した少女は重ねて問いかける。
「分からない。多分キシュメかレトジ」
「それは?」
「友達だった。村には遺体がなかったから」
昼に紅すら差して見えたマルガリティアの唇は、今や華やかな色を失っていた。
「お二人にとって、それは普通のことですか? ……友達を食べることは」
「普通ではない。とても珍しい。”恵み”は滅多にもたらされない」
マルガリティの言葉に乗った余りにも深刻な響きにゲルダは気圧された。
そして疑問を覚えた。
何か問題があるのか、と。
「家畜に名を付けることが珍しいのか。ならばおまえは子羊に名を付けるべきではなかったな。アルカンなどと」
「リュクルス、リュクルス……。まだ分かりませんか?」
青年は小さく、ほとんど判然とせぬほどの溜息をつく。
「ああ。分かる。おまえの言いたいことは。あれが要するに、とても珍しい肉だと。——重ねて言う。マルガリティア。世迷い言は明日にしろ。おまえが何を思うかは自由だが、実際森の民はまともだった。礼をもち、我らを遇した。我らとなんら変わるところはない。そうだな、ゲルギウス?」
話を打ち切らんと少々語気を強め、吐き捨てるようにそう言うと、最後の念押しと”僚友”に同意を求めた。
いささか不規則なものとはいえ、戦地において”隊列”を組んだ男である。まだ経験は浅く肝も小さいが、天与の巨体と真っ直ぐな意思を持つ青年。ならば自分が足りないものを教えてやればよい。そうすればいずれ、この”緑壁”において無敵の、真の”隊列”を完成することができるだろう。
久しぶりの酒はリュクルスの身体を見事に籠絡した。脱力と微かな寒気の中で、精神もまた影響を免れない。
「ラケディア、麗しの都に比べれば蛮地ですが、確かにそう悪くはありません。兄、我らがここを拠点に”隊列”を組めば無敵です。他の集いを下し、新たなラケディアを打ちたてることも!」
「新たなラケディア! それはいい。いわば植民都市のようなものだ! やはりきみはラケディアの戦士となる素質を持つ。光輝ある麗しの都の市民に」
”隊列”の主から思わぬ賞賛を受けた青年はにわかに相好を崩した。酒精を受けて首まで赤く染まったその顔は目元の刺青すら地肌に溶かし込んでしまう。少なくともリュクルスの瞳にはそう映った。
「はい! 私たちはこのラケディアの剣と槍で幾多の”集い”を滅ぼしましょう。そして戦果として大量の”恵み”を得るのです。今日のような宴を毎日開き、柔い肉を食うのです。特に若い女の腿は……」
「ゲルギウス! きみまで何を言っている! その冗談はいささか不快だ。栄えある共同体の市民は決してそのようなおぞましい言葉を吐かない。悪乗りもいい加減にしろ!」
同行の少女、”名もなき御方”の祭司が始めたこの悪趣味な問答はリュクルスの我慢を超えつつあった。ゆえにきっぱりと意思を示した。
だが、ようやく心を許したはずの”僚友”が放った答えは彼の夢見心地を打ち砕いた。
無残にも。
「兄? 冗談とは一体……。”恵み”を捕らえねば、集いに攻め入る意味もなくなってしまいます」
「いいか、ゲルギウス。”恵み”とやらが何を指そうと構わない。だが、それを人に比するなど汚らわしいことだ」
苛立たしげに槍を地に打ち付け述べるラケディアの戦士の姿に、ゲルギウスは困惑を隠しきれない。リュクルスは何かに腹を立てている。だが、その何かに見当がつかない。
”恵み”が人であるなど、自明のことなのだから。
「しかしその……”恵み”とは……人に他なりません」
◆
人は誰しも転機を持つ。
その日、あるいはその一瞬を境に、自身を取り巻く世界の全てがまるで見知らぬ相貌を見せる。
ラケディア、麗しの都の市民、テルパエの護り人たる執政官テセウスの子、リュクルスにも同様の機会があった。弱冠20歳の青年は幸か不幸か、その人生において3度の転機を得た。
彼は15歳のとき、初めて人を殺した。
師父カミノスに率いられた少年の集団は名も無き隷民の村を襲い、人々を殺した。手のひらは覚えている。逃げる男の背に差し込んだ切っ先の感触を。
2年前、彼は戦場に出た。
長槍を握りしめ、隊列の最前に立ち、帝国の兵士を断固として串刺しにした。耳は覚えている。四方八方から迫り来る怒声と、眼前の敵が発する密やかな呻きを。
3ヶ月前、彼は「声」を聞いた。
共同宿舎の寝台の上、夜半にそれは訪れた。幻と聞き違うなどありえない。明白な実体として「声」はあった。肌は覚えている。「声」がかき乱した空気が触れる微かな衝撃を。
リュクルスの生きる世界は転機の度にがらりと面持ちを変えた。
意思ある命を刈り取る経験は彼に自身が何者であるかを教えた。つまり、ラケディアという都市の一員であるということを。
戦場は彼に意味を与えた。そのちっぽけな肉の塊が何のために存在するのか。つまり、ラケディアという都市を維持し、更なる繁栄を導くためにあるのだということを。
そして「声」は彼に真実を伝えた。その存在はもはや用を為さぬ、無意味なものであるということを。
森の民の兄妹に対して、彼はまことに見事な振る舞いを見せた。割り当てられた小屋に入り、先に休むよう勧めたのだ。
歯の根もかち合わぬほどの恐れに支配されながらも、リュクルスはそれを欠片も感じさせなかった。
青年の瞳が捉えた兄妹の姿は正真正銘の化物であった。眼窩の下に引かれた一筋の赤い線が驚くほどに鮮明に彼の脳裏に焼き付いていた。
青年は広場の地面に腰を下ろした。
愛用の槍もまた、静かに横たわる。
猛烈な悪寒はやがて震えとなって全身を支配する。鍛え上げられた筋肉の力をもってすら、それを押しとどめることはできない。
ゆえに助けを必要とした。
人倫に反する行為を嬉々として為した、この唾棄すべき男に対して、手を差し伸べる者が必要であった。
「リュクルス」
「……おまえに、あの小屋に、行けとは言わない」
傍らに、吐息のかかる距離に座り込んだ少女に対して彼はそう述べた。気を抜けば舌を噛みちぎりそうな程に抑制の効かぬ口蓋を操り、なんとか言い切った。
どこか余所へ行けとも言わなかった。この”魔物”の巣の奥深く、安心できるところなどない。自身が感じる恐れをマルガリティアもまた感じているであろうことは容易に想像がついた。彼はラケディアの市民なのだから。
そしてまた、彼女が自分に対して同様の恐れを抱いているであろうことも推察できる。
彼はもはや”魔物”なのだから。
「その言葉を聞いてほっとしました。——実を言えばわたしも、行くところなんてありませんから」
胡座をかいた腿の上に、投げやりに置かれた両の腕がある。指の先まで凍り付きながら顫動を止めない、半ば意思の制御を離れた腕がある。
酒精は男の血管を大きく開いた。熱を未だ保持する初夏の夜においてさえ、その身体は寒さに震えていた。
だからだろうか、不意に右手の甲に感じた熱は温かみを越えて灼熱とさえ思われた。炉で赤熱させた鏝を押しつけるように、それは青年の皮膚に痕跡を残した。
「触れるな。おまえまで穢れてしまう」
昼下がりには好きにさせた少女の接触を、今、彼は振り払おうと望む。
「穢れはしません。何も」
「おれは、おまえに言わなければならないことがある」
奥歯も砕けよと噛みしめて、やがて血を吐くように。黒ずんだ粘性の塊を放り出すように、リュクルスは語りかけた。
生来備えるべき感情を丁寧に刈り取られて育ったこの男にとってさえ、燔祭を目指す旅は一個の地獄であった。
何より苦しいのは憎むべき相手を持たないことだ。
「声」ゆえにラケディアを追われ、成り行きで少女の村を焼き、偶然にも”魔物”と知り合い、今しがた予期せぬ流転のもとで自身が”魔物”に成り下がった。
彼が後生大事に抱えてきたものは、革袋に穿たれた小穴から流れ出す水のごとく日に日に失われた。そしてついに全てが流れ出た。もはや何も残らない。
自身を空疎な存在に貶めた元凶を、ついに彼は見出しえなかった。
そう在るように在ったのだ。
しかし、同様の悲惨を生きた同行者マルガリティアにとっては事情が異なる。
彼女には憎むべき相手がいる。リュクルスは自覚した。手の甲を焼く鏝の熱が自覚せしめた。
彼はラケディアの戦士ではなくなった今、1匹の”魔物”と堕した今だからこそ、直視することができた。
——この女には権利がある。償いを求める権利が。そして求める相手がいる。なんと幸福なことだろう。いずれにしても先は長くないのだ。同じ死ぬならばその手で復讐を遂げた方が幾分かはましだ。
かくして青年は心を定めた。全てを終わらせようと。投げ出そうと。逃げ出そうと。
「おまえの父母を、血族を、我々は奪った。……赦しは乞わない。おれの命を購いとしろ。槍でおれの喉を突け」
言い終えて目を閉じる。
上半身を地に預け仰向けに横たわった。
黒い視野の中に薄らと感じる白は、瞼を貫き脳髄に刺さる月光。
——おれはマヌ神の元に召されることはない。何処ともしれぬ暗闇の中に消えていく。だが、おれの命はこの女を慰めるだろう。その悲しみを幾分か癒やすだろう。
「声」を聞く前、彼はいつか来る自身の死を勇壮なものとして夢見た。
帝国との戦で”隊列”の先頭に立ち、誇り高く堂々と戦い、幾多の敵を屠り、やがて倒される。その恥じるところのない死は僚友の賞賛を受け、ラケディアの光輝ある市民としてその名を都市の歴史に刻む。永久に。
執政官テセウスの子は偉大な父に勝るとも劣らぬ勇者であった、と。
”初のつがい”エイレーネも、生まれ来たる子もリュクルスの名を誇るだろうと。彼の子は胸を張って名乗るだろう。”自分はあの勇者リュクルスの子である”と。
今、現実の死は隷民の少女によってもたらされようとしている。
リュクルスの名は忘れ去られるだろう。その苦悩とともに。
彼は”魔物”として死ぬのだ。緑壁の奥深くにおいて女の手で殺されるのだ。
ラケディアの戦士にとって、それは考え得る限り最大の恥辱である。
だが、もはや彼はそれを恥とは感じなかった。その死は少なくとも一人の少女を癒やすだろう。復讐の渇きをいやすだろう。
女が立ち上がる気配を感じる。
閉ざされた視界の向こうを明瞭に感じる。白く茫洋と光る円が陰り、やがて消失した。彼は喉を突き出して、愛用した槍の穂先を受け入れる準備を整えた。
——マルガリティア。見事にことを為せ。きみは最初の隷民女になる。ラケディアの戦士を倒した女に。
「ラケディアの戦士様、一つ聞いてもいいでしょうか」
少女の声はまるで天から降り注ぐように響いた。
「なんだ」
「あなたはまだ、ラケディアの戦士様ですか?」
リュクルスの顔に浮かんだ表情は、これまで少女に一度たりとも見せたことのないもの。
笑顔である。
「最後の問答がそれか。しかしきみらしい。——答えよう。おれはもうラケディアの戦士ではない。1匹の”魔物”に過ぎない」
「リュクルス。あなたが”魔物”かどうかなんて、わたしにはどうでもいいんです。知りたいのはラケディアの戦士なのかどうか」
「重ねて言おう。もはやラケディアの戦士ではない」
答えはなかった。
彼は静かに待った。
しかし望む穂先は下されない。
——何事も初めては怖いものだ。
殺人は多大な精神力を要する行為であると、彼は自身の経験から十分理解していた。荒事といって兎を絞めたことすらない少女にとって、それは骨の折れる行いだろうと。
「マルガリティア。コツを教えよう。おれを人と思うな。おれはただの肉だ。”魔物”の肉だ。人であるきみにはそれを屠る権利が……」
言葉が最後まで発せられることはなかった。
決して。
◆
それは打擲に近い。
青年の唇に何かが押しつけられる。
それはねじ込まれる。
前歯と唇と舌は境界を失う。混然となって激しくかき乱される。
女の口と、舌によって。
それは槍の穂先よりも鋭く彼の命を奪った。
「これでいいですね。これで。……ほら、これでわたしも魔物になりました。あなたと同じ。肉を食べました。あなたを通して」
腹に女の身体を感じる。胸には女の胸を。
そして鼻には鼻を。口には口を。
「——なにを……」
彼の抗議は再び遮られた。再び女の口によって。
再び舌は絡み合う。手指のように、あるいは縺れた髪のように。
事実茶の髪と金の髪は別ちがたく溶け合っていた。
青年の四肢の上に女の身体が見事に収まっている。あたかも誂えた敷物のごとく。互いのそれは見事に一致した。神代の昔別たれたものが再び出会い、合わさるように。
「リュクルス、イリスの祭司は再び述べます。かく在るように在った、と。そして——」
彼は瞼を開く。
そして眼前に宝玉を見た。蒼い二つの、この世に並ぶ物のない、光輝に溢れた瞳を。
「あなたにはもうラケディアも魔物もありません。——あなたは全ての人々の”物語”を束ねる。そう在るように定められた。この世において唯一在る方がそう在るように定められました。リュクルス」