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ラケディア、麗しの  作者: 本条謙太郞
第2章 リュクルスのケイデーへの旅
20/24

 太い枝と蔦で編み上げた家屋の壁が道の両端に迫り立つ。その様はかつて歩いた元老会議場の柱廊に似通っていた。

 石の都市に育ったリュクルスにとって木作りの街は好奇のものだ。生臭い植物の匂いが炊事の煙と相まって、独特の苦みを鼻孔の奥に残した。


 ”隊列”を組んだラケディアの戦士は常に昂然と在る。暗闇に潜み機を待って対象を暗殺する従民都市での「仕事」とそれは決定的に異質のものだ。

 ”隊列”は逃げも隠れもしない。敵に正面から挑み圧倒するがゆえに”共同体”はその栄光を世に示す。

 緑壁の奥深く、ラケディア市民未踏の地に到ってもなお、リュクルスはその姿勢を変えようとはしなかった。


 成人の男が数人連れだって進めば手狭な街路を暫し歩んだところ、不意に視界が大きく開けた。

 橙色(とうしょく)から黒へ、陽は退き闇は這い入る。

 横切るに大股100の歩みを必要とするほどに開けた「空地」の中心部、広場はまさにこのとき日の終わりを迎えようとしていた。


 2人は王のように、あるいは手負いの獣のごとく在った。遠巻きに投げかけられる観察の視線がどれほどあろうか、既に数えることもない。

 先頭を歩むゲルギウスと背を重ねるようにして後方を警戒するリュクルス。両者の盾はさながら堅牢な貝殻のように柔らかい臓物を守った。


 覚悟した威嚇も矢の雨もない。

 その様は青年の心内に疑問と不安を残した。尋ねようと思いもするが、戦闘直前の問答が経験浅い僚友の集中力を削ぐことを懸念して取りやめた。ここまでくれば成り行きに任せる他はない。

 盾に隠れ兜と胸当てで身を守るとはいえ、広場の中心に進み出る行為は自身を標的として供することに他ならない。分かりきった危険を冒してまでこの方法を選択した理由はラケディア戦士の誇りゆえ。だが、実のところそれは思考の表層に過ぎない。意識の光届かぬ心理の奥深く、リュクルスの本音はいつしか変容を遂げていた。


 ——できることならこのまま穏やかに、名のある者が出てくると都合がよいが。


 幸か不幸か、青年は既にラケディアの市民ではなかった。当人がいかにそれを主張しようと、かつて墨守した行動規範を彼は逸失して久しい。緑壁に踏み入る前、そこに棲む存在は魔物であり、魔物は根絶やしにされるべきものであった。しかし今、彼の視界に映るのは()である。幸か不幸か。


 背のゲルギウスが大きく息を吸いこむ気配を感じる。

 一拍おいて、僚友は喉も裂けよと名乗りを上げた。喚声は文字通り「空地」の大気を巨大な力で攪拌した。獣の咆吼さながらに。

 語の一粒たりとも理解できぬ台詞。ゆえにそれは音に過ぎない。


 魔物、あるいは森の民(ヒューレン)の言葉には奇妙な特徴がある。一音が伸ばされたかと思うと突如跳ねる。独特の律動。硬質な印象は恐らくそこから来ている。一方で「正しい言葉」と比べて抑揚は控えめである。旋律は丸く連なり流れていく。棘を持ちながら柔らかく、緩やかに流れながら突如跳ねる。ゆえにそれは青年の耳に奇異な印象を残した。


 ”僚友”が名乗りを終えても、遠巻きに彼らを囲む敵の群れに大きな反応はない。ただ、周囲の同胞と不安げな視線を交わすのみ。


 大小問わず戦いの場を多く経験する中で、リュクルスは集団の空気を読む術を心得ていた。誰の目にも戦闘準備と分かる段階の遙か手前、戦いの選択肢が相手の心内に生まれる瞬間——戦いの芽ともいうべきもの——を感じ取る能力である。しかしこの時、彼が培った類い希な感覚器は反応を示さなかった。敵意ではない。そこにあったのは警戒と好奇である。

 兄妹の集いへの襲撃や”隊列”一行に対する問答無用の攻撃から受ける好戦的な印象とは明らかに不釣り合いな反応であるが、彼はその理由を推し量ることすらできない。情報の欠如は深刻である。だが一度行動を起こした以上、先に進める他はない。

 次は彼の番だ。


 青年は脇に構えた槍の石突を地に刺し、周囲を睥睨する。そして口を開いた。


「ラケディア、麗しの都の市民、名にし負うテルパエの勇者、執政官テセウスの子リュクルスが、威勢を以て汝らに告ぐ! 我、故あって勇者ゲルギウスの知己を得たり。不当にも、かの一族を鏖殺せしは何者ぞ! 猛きマヌの加護の元、我リュクルスは責を問う。言の葉にても剣にても、ラケディア市民リュクルスは、見事勲を打ちたてん!」


 僚友の大音声に負けじと青年の名乗りも見事に響いた。朗々と。堂々と。

 かつて率いた”小隊列”の前列で発した栄誉ある言葉。そしていつか”大隊列”において、あるいは執政官として叫ぶはずであった言葉を彼は発した。緑壁の奥深く、ケイデーの麓、人跡未踏の地で。


 ”上の集い”に住まう者達の些細な変化を彼は即座に感じ取った。視線が一所に飛んだのだ。透徹した指揮系統を持たない人群において、視線の集中は力を持つ者の所在と同義である。再び槍を構え臨戦態勢を整えながらも、男の瞳は倒すべき相手を凝視する。


 広場の奥、入口となった狭道の対面をなすところ、一際大きな()()の前に立つ人影が動いた。足取りは確たるものだが、控えめな歩幅は微かな戸惑い、あるいは緊張を表している。

 広場の空隙と木作りの家屋を背景に、その姿は男の視界を徐々に占めた。





 ◆




 骨格に規定された姿勢と歩法は上背をもってしても誤魔化しえない。顔が見える距離に到る前から彼はいち早く敵手の性別を把握した。

 女だ。

 艶深い黒髪は長く背に落ちて、茶糸で幾何学模様が織り込まれた黒麻作りの着物と一体を成す。丁寧に梳られたそれは頭部の微細な動きに追従し、見事に、自在に揺れた。美しい髪は維持に必要な手間を許容しうる地位を表す。この”集い”における女の立場が相応のものであろうことを彼は瞬時に理解した。

 女は首から金属の小さな輪を紐に通して下げている。権威を誇示するにはあまりに控えめな佇まい。

 リュクルスがこれまでに見た森の民(ヒューレン)の女——ゲルダが顔の輪郭に丸みと幼さを残す一方で、今目の前に立つ女のそれは細く鋭かった。成熟した大人のものだ。涼やかな目元は、幾ばくかの関心を持って眺めた女たち、エイレーネともマルガリティアとも異なる風情を持つ。


「ゲルギウス」


 名を呼ぶやいなや”僚友”はリュクルスの意を汲んだ。二人は速やかに位置を入れ替え、女の正面にはゲルギウスが立つ。

 刃の間合いの一歩外まで近づいた女はゲルギウスと語り始める。男声女声の混じり合う()を彼は背に聞いた。相変わらず周囲に剣呑な視線を飛ばしながら。


 リュクルスの”隊列”は度重なる襲撃に対する償いを求める。乗り込む前に定めた目的はかくも単純なものである。償いが何を以て為されるかは相手の出方次第であった。屈服を以て、あるいは死を以て。

 集いの代表者として若い女が現れたことに対してもリュクルスはさして驚かなかった。


 女が戦士として小規模な戦いに加わることはラケディアでは珍しくない。男女の体格差から生じる戦力の不均衡は武装によって幾分緩和される。戦いに重要な部位を切り裂くために怪力は必要ない。敵の刃をすり抜け防具の隙間を突く技能があればよい。

 確たる技量を備えた女は技量不足の男に勝る。甚だ不完全とはいえ、鉄剣と槍は人に与えられた平等化の道具である。ただし、技量を備えた女と技量を備えた男が対したとき結末は定まっている。リュクルスは明らかに技量を備えた男だった。


「リュクルス(けい)、この女が話したいと」


 ゲルギウスが意向を問うが、彼は振り返ることなく周囲を睥睨し続けた。


「おれは森の民の言葉を解さない」

「そう伝えています。ですが、この女、(けい)がまことのラケディア戦士か、と……」


 兄妹の父ガイオンの存在、そしてゲルダが数日前に発した言葉が示したように、都市ラケディアと”森の民”の間に何らかの関係、あるいは交流が存在したことはもはや疑うべくもない。


 ——まことのラケディア戦士。


 苦い言葉を青年の耳は飲み込む。

 彼が()()()()()()()()()()()であるかどうか、ここ緑壁において証は何もない。

 否、ただ一つ存在する。

 彼がかつて麗しの都の栄えある戦士であったこと、そして今、うち捨てられてなお、そうあることを示すものが。


「では伝えてくれ、ゲルギウス。——剣にて問え、と」





 ◆





 盾を落とす。槍を地に刺し、兜は脱ぎ去った。跳ね上げられた栗色の蓬髪が汗の滴を飛ばす。

 頑健な顎を覆いはじめた無精髭の中にあって、きつく結んだ唇は青年の意思を表す。切り立つ鼻梁が隔てた茶の瞳は誇りを湛え真摯であった。

 胸甲を取れば、血染めの斑模様を残した服地の中に分厚い胸板が見える。半袖から覗く腕は丸太でもなく、細枝でもない。人を屠るのに適した機能のみを持つ。矢を受けた左肩は本調子ではないが、剣を振るう腕は一本あればよい。

 これこそがラケディア、麗しの都の共同体が生み出した戦士の姿である。虚勢も誇張もない。不必要な全てをそぎ落とした男の肉体。


 リュクルスは敵地のただ中において、あえて自身の優位を捨てた。

 生存は第一の目標ではない。あるいはただ勝つことすらも。彼は()()()勝たねばならない。それこそがラケディア市民の証である。


「長剣を使え。あるいはおれに短剣を」


 彼は短く女に告げる。意味が通らぬことを承知の上でなお語りかけた。

 ラケディアの戦士が振るう剣は森の民のものを倍するほどの刀身を持つ。その長さは距離を置いたとき明白な優位となって表れる。一方で、懐まで攻め入られた近距離においても小回りが利く。ラケディアの剣は会戦における第二段階、”隊列”が敵に受け止められたのちに発生する乱戦を想定して作られたものだった。


 ゲルギウスの通訳を受けた目前の女はきっぱりと首を振り、自身の得物を抜いた。ゲルダが扱うのと同じ森の民の剣。片刃の。そして語り出す。

 彼は言葉を聞かなかった。ただ音を聴いた。骨のある、よく通る声質を鑑賞した。女の。


「なんと言っている?」

「このままでよい、と」

「ではそれでいい」


 予測する限り10人程度の戦士を擁するこの村が、柳のごとく細い女以上の手練れを持たぬとは信じられない。一方でその可能性を否定もできない。戦いの場においてはおよそ考えうるすべてのことが起こりうる。

 ゆえにラケディアの戦士は方針を定めた。

 切り結んだうえで命の危機を覚えるほどの相手であれば殺す、と。対等の敵から得た勝利は誇るべきものである。一方で、水準に達しなければ手を下す必要はない。弱者を屠ることは「仕事」である。ラケディアの光輝は戦いによってのみ示される。「仕事」においてではなく。


 リュクルスは腰に佩いた剣を抜き放った。音もなく。

 闇は深まる。かがり火はない。

 刀身の煌めきは、息絶える夕日を貪欲に啜るがゆえ。


 腰を落とし切っ先を定める。

 合わせて女が弧を描くように動き出した。右から、あるいは左から、男の隙を探して。

 女の移動に呼応して動く男の剣はそれに釣られた――吸い寄せられたものではない。彼の視界は敵の四肢を明瞭に捉えていた。とりわけ足を。植物の茎で編んだ履き物の先、跳ね土が汚したつま先を。脹ら脛の緊張と弛緩を。


 男は切り込むことができた。あるいは瞬きの間もなく刺突を繰り出すことも。

 しかし、かくして得られる勝利は得物の長さに頼るもの。求める果実ではない。ゆえに待つことを定めた彼にとって今後の展開は一つしかない。


 女の接近を阻み、その刃を捌く。

 敵の勝ち筋もまた一つである。欺瞞の動きで男を釣り、体勢を崩す。

 始動と停止を不規則に繰り返しながら、自身の発する律動に男を誘い込む。

 艶めく黒髪の先が無秩序に揺れた。


 ラケディア戦士の名声は、彼らが身につけた()()()()に源泉を持つ。痛みを無視し出血を厭わず、万難を排し動き続ける意思と体力。かくあるがゆえ麗しの都はペルピネの大地に覇権を保つ。

 当然のことながらリュクルスも同様のしぶとさを身につけている。加えて彼はもう一つ、()()を習得していた。相手の筋肉の動き、重心の変化から次の一手を予測する知識と、実際になされた攻撃に対応する方法を。


 女の足が踏み出されたとき、彼は(きた)る太刀筋を正確に読んだ。剣の持ち手たる右腕を狙う小ぶりな斬撃。恐れをなして内側に避ければ姿勢を崩す。ゆえに彼は逆をゆく。肘を極限まで外に引き、水平に構えた剣の上面で女の刃をいなす。

 そして瞬間の脱力。

 振り下ろされた敵刃にラケディアの剣は逆らわず、ただ軌道をそらすのみ。切っ先を地に向けて衝撃を受け流した。


 女は手応えを得ない。空振りの勢い止まらぬうちに男の剣は女の短い刃を絡め取り、跳ね上げた。

 剣と溶け合い鞭のごとくしなるリュクルスの腕が、下段から上段に刀身をこすりつつ振り抜かれた。


 鉄のかみ合う音はない。ただ身を合わせ躍るように、ラケディアの剣と森の剣は互いの身体を擦り付けあった。


 短剣を弾かれた衝撃を制する膂力(りょりょく)を女は持たない。

 攻勢と裏腹に体勢を崩したのは女の方だった。

 鋭く切れ上がった目尻さえ見開く女の瞳をリュクルスは無感動に眺めた。驚きと怯えは彼の友である。いずれも慣れ親しんだものだ。


 愛剣は血を欲する。

 一瞬身体を浮かせ後退する()を欲望のまま切り伏せるのはたやすい。あるいは薄く、おそらくは柔らかい胸を突き通すことも。彼の心は極めて静かに血を欲した。


 ラケディアを放たれ彷徨う日々の鬱屈は、黒く濁る前の鮮烈な赤によって購われるべきであると。そう思われた。


 欲を多分に含んだ青年の視線が女の眼球を舐めた。彼の獲物を。漆黒の瞳を囲む血筋すらも判ずるほどに彼は視た。

 雌を組み敷こうと欲する雄の本能故に執拗に舐めた。


 ゆえにリュクルスは気づく。目の前の存在が対等な敵などではないことを。

 捕食におびえる脆弱な雌に過ぎぬことを。ラケディアの戦士が勝利を誇る相手ではないことを。

 気丈ににらみ返すその瞳の中にありありと浮かぶ恐怖を。


 ――つまり、これはただの女だ。


 欲は去った。


 (くろがね)の刃は用いられなかった。一歩。断固たる一歩。力ある一歩。青年の右足が踏み入り、肩を衝角にして女の胸骨を突き上げた。


 武器は性差を抑制する。

 ゆえに剣なき後、肉体の衝突において男女の差は人間の自然に立ち戻った。

 女体は軽々と弾かれ、刹那中空にとどまり、やがて背を地に落とした。

 男は組み付きさえしなかった。未だ短剣を握りしめた右の腕を強靱な足で踏み押さえ、獲物を静かに見下ろす。

 服の下に納められた胸が激しく上下した。それは呼吸と純然たる震えである。横隔膜の振動を乳房が増幅する。つまり女の身体である。


 愛剣は血を欲する。

 しかし彼は欲しなかった。もはや。


「テセウスの子リュクルスは、ラケディア市民の証を今ここに示した」


 地面に広がる黒髪を背景に女の白い皮膚が浮き上がる。右の目元に引かれた赤い刺青もまた。

 燃えさかった興奮は影も形もない。霧散してしまった。


 ――脆弱な女。殺したところで到底誇り得ぬほどに。


 殺戮の渇望に取って代わり這い入るのは虚無、あるいは徒労である。

 リュクルスは残酷な真実を突きつけられた。


 苦もなく女を地に倒しながら、より深刻に打ち倒されたのは彼の方であった。

 男が誇り恃むラケディアの力、その全力を振るうことはもはや叶わない。帝国との戦い、堕落都市群との戦い、10年にわたる全霊をかけた研鑽を十全に発揮しうる場、麗しの都の勢威を知らしめるにふさわしい戦場が青年に与えられることはこの先決してない。

 彼はラケディア市民ではないのだから。


 ゆえに彼の存在は無意味であり無価値であった。

 その手に握る剣は、貧弱な隷民女を脅し脆弱な森の民の女を地に転がす道具と化した。誇り高く精強な自由民戦士との死闘などもう望むべくもない。

 彼はラケディア市民ではないのだから。


 ――ようやく分かった。おれがなぜこんな馬鹿げたことを望んだのか。


 ”上の集い”に攻め入ることは明らかに不必要であり、かつ危険な行為であった。だが、それを十分に理解しながらも彼は決行した。この魔物の巣、森の民の集落において敵を望んだがゆえに。ラケディアの戦士が死力を尽くして戦うに足る相手を。そのような対手あってこそ戦士の存在は価値を持つ。対等の相手なくば青年の価値もない。

 川魚を捌くのに牛刀が必要だろうか。か弱い女一人殺すのにラケディアの戦士が必要だろうか。


 リュクルスは敵を求め、ついに得られなかった。

 得たのは一閃で吹き飛ぶ手弱女(たおやめ)。足下から自分を見上げる黒い瞳――多分に怯えを含んだ視線は彼をひどく惨めな気分にさせた。


 男は女の手を軽く蹴り短剣を放らせると自身の得物も鞘に収める。そして空いた右手を差し出した。


「怪我がないといいが」


 先刻の()()が「戦い」であるなどとは認めたくなかった。

 不運な衝突の末、図らずも女を弾き飛ばしてしまっただけと思いたかった。


 リュクルスの手を女は拒まなかった。

 彼は手のひらに湿り気を覚える。それは男のものかあるいは女のものか、判然せぬほどに混じり合った汗である。

 相応に荒れた、しかし小さな手のひらが、男の巨大なそれに包み込まれる。


 無防備な自身の身体を狙う複数の視線さえ彼はもはや気に留めなかった。矢の照準がどこに定められようと大したことではない。


 ——願わくば、上手くあててほしいものだ。


 そんな感慨すら浮かぶ。

 女を人質に抵抗することは可能だろう。あるいは闇夜に紛れ、住人達を皆殺しにすることさえも。

 だが、それは戦いではない。ただの「仕事」に過ぎない。

 リュクルスが名誉ある戦場(いくさば)に招かれることはもう決してないのだ。

 か弱い女を釣り餌に狩りをする卑小な魔物共を屠る。それこそが哀れな戦士に与えられた最後の舞台である。

 緑壁において彼は明白に無価値であった。


 仰向けに転がる女体を引き起こすのに手間はいらない。予想よりも遙かに軽い手応え。

 身体が交差するそのとき、女のささやかな、ためらいを含んだ呟きが男の耳を衝いた。なじみ深い単語でありながら森の民の言葉で表されたそれは一つの音色、旋律とすら感じられた。

 柔らかく甘い。


「……ラケディア」

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